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千博は生まれてこの方、父方の祖母と両親、そして三つ年上の兄と五人で暮らしていた。
しかし家の中の空気は、物心がついた時からすこぶる悪い。
それは父方の祖母カヨが、母である里美に執拗に嫌がらせを繰り返し、兄の勝を盲目的に甘やかすからだった。
里美の姑であるカヨは嫁がとにかく気に入らないらしく、何かにつけて上げ足を取って、嫌味を言い、時には暴力を振るったりする。
彼女の嫌がらせは孫である千博から見ても酷く、止めに入ったことは数え切れないほどあった。
また、カヨはこの家の長男である勝を非常に可愛いがっており、高校生になった今でも欲しいものは何でも買ってやり、里美が勝を叱ろうものなら烈火のごとく怒りだす。
そして兄より優秀である千博を、生意気だと手ひどく嫌っていた。
千博が父ではなく母方に似ているのが、余計彼女の気に障るらしい。
小さいころは理由もなく怒る祖母に千博は心を痛めていたが、今は彼女の人間性に呆れるばかりであった。
だがそんな祖母よりも千博が許せないのは、父親である隆である。
どんなに里美がカヨにいじめられ、時には泣いて別居を訴えても無関心。
勝が甘やかされたせいで増長し、ろくに学校に行かなくなっても全く気に掛けようとしなかった。
妻と次男が実の母にいじめられようが、長男がグレようが、ただ無視を決め込んで、嵐が通り過ぎるのをひたすら待っている。
隆は千博にとって、父親としての責任を果たさないどうしようもない男だった。
自分から意見を言ったり、行動したところなど見たことがない。
――そんな男がいきなり引越しと言い出すとは、どういう風の吹き回しだろうか。
千博はにわかに信じられなかった。
未だ興奮冷めやらぬ様子でいる隆に思わず尋ねる。
「突然引越しなんて、どうしたんだよ? そもそもどこに引っ越すんだ?」
「夢見の森タウンだ。今日会社にセールスの電話があってな。話を聞いたら、すごく良さそうな物件なんだ」
隆はファックスで送られたのだろう物件のチラシを、千博に向かって突き出す。
日当たり良好、駅からも近い4LDKの一戸建てが、千二百万円。
中古の建売だが建築年数は浅く敷地も広いし、不動産に詳しくない千博でも異様に安い物件であることは分かった。
むしろ安すぎて不安になるくらいである。
「安すぎだろ。なんかあるんじゃないのか?」
「そんなことはない。夢見の森タウンは比較的新しい住宅地で、綺麗で便利だし、都心にも近いんだ。どうだ? こんないい話ないだろう?」
子供のようにはしゃぎまわる隆だが、その横ではカヨが大声でわめいていた。
「隆ちゃん! あたしの部屋はどうなるんだい? お母さんを置いていくのかい!?」
「しょうがないだろ? この家は四部屋しかないんだから。母さんは今まで通りこの家で暮らせばいいだろ」
「薄情者! 親を捨てていく気か!!」
隆の耳に、母親の声は届いてないようであった。
彼の頭の中は、目くるめく新生活への妄想でいっぱいのようである。
千博としても妙に安い物件に引っ越すのは不安であったが、カヨを置いていけるなら願ってもない話だった。
カヨはまだ六十台で体のどこにも悪いところはないし、人道的にも問題はない。
「俺も結構いい物件だと思うよ、この家。部屋も広くなるし」
千博は父の気が変わらないよう、件の家を持ち上げておく。
新しい生活へ若干不安があるが、友人はいなくなったし、あまりこの街に未練はなかった。
多少家に難があっても、家族の生活がうまく行くなら我慢できる自信もある。
「親父やるじゃないか。こんないい家見つけるなんてさ。尊敬しちゃうよ」
心にもないお世辞も効果があったのか、隆は不動産業者と着々と話を進め、夏休みが始まる頃には正式に物件を購入することが決まっていた。
*
夏休みもあと数日で終わる八月の下旬。
千博は父の運転する自家用車に乗って、引越し先の住居に向かっていた。
荷物は業者が先にトラックで運んでくれている。
リフォームの関係や前の住人の退去が遅れたなどの事情もあり、千博が新居を訪れるのは引越しの今日が初めてだった。
普段は割と冷めた性格の千博だが、新しい生活には期待を隠せない。
「母さん、新しい家ってどんな所?」
すでに何度か新居へ足を運んでいる母親に、千博は尋ねた。
「とてもいい所よ。静かだし便利だし、新しい街だから街並みも綺麗なの」
夢見の森タウンは、今から二十年前に森を切り開いてできた新興住宅地だ。
そのため商業施設や教育施設なども充実しており、休み明けから千博が通う中学も、家から割と近くにあるという。
今度の中学では、仲の良い友達ができるといいが。
そんなことを考えているうちに、千博を乗せた車はいよいよ夢見の森タウンに入った。
まっすぐに伸びた道と、整然と立ち並ぶ建造物。
なるほど、里美の言った通り、夢見の森タウンの町並みは綺麗だった。
歩道も完備されているし、街路樹や植え込みときちんと手入れされていて美しい。
できた当初は、さぞかし入居希望者が殺到しただろう。
しかし車窓から景色を眺めているうちに、千博は妙なことに気付いた。
八月の、まだ午後四時前にもかかわらず、町全体がやけに暗いのである。
今日の天気はギラギラと太陽が照りつける快晴。
それなのに、街全体がじっとりと湿って沈んでいるような感じがした。
街路樹から、家の屋根から、そして電柱から伸びる影が、不思議と大きくて濃いように見える。
太陽光は確かに眩しいのに、その光はなぜか陰りを孕んでいるような気さえした。
この街は何か、嫌な感じがする。
しかし千博は、自分の胸に広がる不吉な予感をすぐに笑い飛ばした。
これから始まる新生活への不安が、見ている景色にも影響を与えているのだろう。
期待溢れる新生活を、自ら灰色にするのはバカバカしい。
だが気を取り直した千博が再び車外に目をやると、交差点脇に菊の花束が供えてあるのが目に入った。
(まぁ大きい街だし、事故だってたまにはあるだろう)
いちいち気にしていたらきりがない。
やがて父の運転する車は引越し先に到着し、千博は新しい自宅と対面を果たした。
白い壁と赤い瓦屋根が印象的な、洋風の戸建である。
外から見ても庭と家屋は広く、とても千二百万円とは思えない物件だった。
「さぁ、ボーっとしてないで。早く荷物を運び込まなきゃ」
引越しの疲れが出てきたのか、里美が少しトーンの落ちた声で息子二人にはっぱをかける。
荷物を運び込むのは業者が殆どやってくれたが、それでも住めるよう家具類を整えるのは一苦労だった。
何とか夜になるまでに一通り片付けを終えると、千博は新しい自宅をじっくり見て回る。
リフォームをしてあるため、中古といえども傷や汚れはなく、まるで新築のようにこの家は真新しかった。
しかし室内を漂う空気は、窓を開けているというのにどろりと重い。
また、電灯もすべて取り換えたばかりだったが、部屋の中はどことなく薄暗かった。
町の雰囲気といい新しい家といい、どうしてこんなにも陰鬱に感じるのだろう。
千博は嫌な気分になったが、他の家族は何とも思ってないようなので、単なる気のせいだと自分に言い聞かせた。
店屋物で遅い夕飯を済ませた後は、他にすることもないためとっとと寝ることに決める。
前よりずっと広くなった、新しい自分の部屋。
明日からの生活に思いをはせながら千博はベッドに入ったが、翌朝、カラスのけたたましい鳴き声で叩き起こされた。
「一体何なんだよ……」
新居での初めての朝にコレでは、さすがに気分がよくない。
何をそんなに騒いでいるのかと外を見れば、家のすぐ下でカラスたちが猫の死骸をついばんでいる。
最悪の気分だった。
しかし今日は残った片づけや、明日に迫った転入の準備があるため滅入っている暇はない。
忙しさのおかげで、幸い千博の嫌な気分はすぐに薄れていった。
準備に追われ、買い物に行ったりしているうちに、いつの間にかもう夕方である。
明日はいよいよ新しい中学校に転入する日だと思うと、期待と興奮でなかなか寝付けそうになかった。
そして転校初日、予想どおり千博はほとんどろくに睡眠をとらないまま朝を迎えた。
緊張していたせいもあるが、原因はそれだけではない。
夜中何度も救急車が家の近くを通り、うるさくて眠れなかったのである。
一回だけならわかるが、一時間おきに五回は少々異常だ。
千博以外の家族も眠れなかったらしく、おかげで朝食の時間はあくび大会になってしまった。
里美は大きな事故でもあったのだろうと言っていたが、それなら救急車はまとめてくるはずである。
(一体何なんだこの街は――?)
この街に対しての疑念が確かになって行くのを感じながら、千博は新しい学校へと向かった。
良く晴れているというのに早朝の爽快さはなく、相変わらず暗さと重い空気が漂っている。
見た目は他の街と変わらないはずなのだが、どうしてこの夢見の森タウンはこんなにも陰鬱なのだろうか。
これからの学校生活よりも町の奇妙さを気にしているうちに、千博はいつの間にか目的地である「夢見の森第二中学校」の前に差し掛かっていた。
校門の手前で立ち止まり、これから通うことになる中学を大まかに眺める。
どこにでもあるようなごく普通の学校だったが、校舎は今まで通っていた中学よりも新しかった。
深呼吸して校門をくぐり、他の生徒の後をついて校舎内に入る。
職員室に来るようあらかじめ言われていたが、場所が分からなかったので、千博は近くを通りかかった男性教師に声をかけた。
始業式のためかスーツ身を包んだ、ガタイのいい男性である。
「すみません。職員室の場所を教えてくれませんか?」
しかし教師は怒ったようにこちらへ目を向けると、何を思ったかいきなり千博の前髪をつかみ上げた。
「貴様なんだその髪の色はっ!!」
突然のことに、千博はあっけにとられて言葉も出なかった。
「夏休みだから染めたのか? え?」
どうも彼は千博が髪を染めていると思っているらしい。
しかし生憎、この灰色がかった髪は天然ものだった。
「この髪は生まれつきなんですが……」
「嘘を吐くんじゃない!!」
教師は前髪ごと千博を強く揺さぶった。
衝撃と痛みに、思わず呻く。
「ちょっやめてください!」
「オマエが嘘を吐くから悪いんだろうが。 正直に染めましたと言え!!」
千博は訳が分からなかった。
出会いがしらに難癖を付けられ、いきなり体罰を加えらえたら、誰でも戸惑うことしかできない。
周囲の生徒たちも教師の凶行に驚いたのか、唖然としながら千博たちを眺めている。
まさか転校初日にこんな目に合うなんて。
千博は激高する教師にかろうじて言う。
「一体何なんですかいきなり!」
「体がデカいからって好き勝手やってたんだろうがな、俺が来たからには根性位置から叩き直してやる」
「は? 何を……」
「黙れ!!」
千博は壁に叩きつけられた。
力だけでいったら多分千博の方があるのだろうが、相手が教師であることと困惑でされるがままである。
しかし男性教師の横暴は、長く続かなかった。
登校してきた一人の男子生徒が、教師の襟首を思い切り引っ張ったのである。
「テメェ。何一人で騒いでんだよ」
押し殺すように低い声で言った少年は、肩に野球用のバットケースを担いでいた。