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帰りの挨拶が終わると、氷野千博は鞄を取るよりも先に声をかけられた。
こちらの名前を呼んだのは、友人の山岸である。
この中学に入学してから約三か月。
千博は自分と同じ真面目な性格をした彼と、何かにつけてつるんできた。
今日は随分機嫌がいいらしく、にこにこしながら山岸は話をふってくる。
「オレ、昨日面白いもん見つけたんだ。見せてやるから校舎裏に来てくれよ」
「面白い物ってなんだ?」
「見てのお楽しみだよ」
彼の四角い銀ぶちメガネがきらりと光る。
出し惜しみをするなんて余程面白い物を手に入れたのだろうと、千博は素直に校舎裏について行った。
「で、面白い物ってなんだよ。ここまで来たんだから早く見せろ」
千博は日当たりが悪く、人気もない校舎の影で山岸をせっつく。
しかし彼は一言も話すことなく、答えの代わりのように同級生の後藤と河合が姿を現した。
二人とも笑ってはいるが、その笑みは友好的なものとは程遠い。
こちらを取り囲むように近づいてくる三人を見て、千博は彼らの目的をすぐに悟った。
コイツらは、今から自分をリンチするつもりなのだ。
千博の体格は中学一年生でありながら大人顔負けだったが、三人いれば勝てると踏んだのだろう。
「なぁ、山岸。一体どうしてこんなことするんだ? 俺、お前に何か酷いことしたか?」
これから起こることよりも、どうして山岸が自分にリンチを加えようとするのかが気になった。
通っている学習塾も同じで、学校内外問わず仲良くしてきたと思ったのに。
「後藤と河合もだよ。俺とお前ら、全然接点ないだろ。恨まれる覚えがないぞ」
千博はニヤニヤと笑っている二人を睨む。
スポーツが得意で、バスケ部でも期待されている後藤。
軽妙な喋りと整ったルックスで、女子に人気のある河合。
どちらもクラスの中心人物で、目立つのがあまり好きではない千博とは、ほとんど会話したこともなかった。
「なぁ、理由もなく殴られるのは嫌なんだ。教えてくれたっていいだろ?」
やや下手に出ながら尋ねると、ようやく山岸が口を開く。
「オマエ、一日何時間勉強してるよ?」
思ってもみなかった言葉に、千博はつい「は?」と口に出した。
気に障ったのか、山岸は大声で「答えろ!」と怒鳴る。
「何時間と言われても……。塾と学校以外だと宿題をするくらいだから、せいぜい一時間かそこらか?」
「一時間だと!? それでいつも一位なのかよ!?」
山岸が言っているのは、塾での成績のことだと思われた。
中学入学と同時に塾に入ってから、今まで三回テストがあったが、そのどれもで千博は総合一位を獲得している。
「だってしょうがないだろ。一定の得点取らないと、特待生じゃなくなるんだ」
「黙れよ! オレは毎日五時間もやってるんだぞ! お前が来るまではオレが一位だったのに、どうして大してやってないお前が一位なんだよ!」
「そんなこと言われてもなぁ……」
怒鳴られても、こちらは普通にやっているだけなのだからどうしようもない。
千博は生まれつき勉強が得意であった。
頭の回転が速いうえに、教科書は読めば一回で覚えられるので、試験は小学校のころから常に満点。
学校より難易度の高い内容を教えている塾のテストでも、それは変わらなかった。
山岸は千博の戸惑った様子を見て、なぜか歯ぎしりをする。
「で、後藤の方はどうなんだ」
山岸がそれきり黙ってしまったので、千博は後藤に尋ねることにした。
彼は舌打ちをすると、苦々しげに答える。
「決まってんだろ。テメーが生意気だからだよ」
「生意気?」
「とぼけんじゃねーよ。体育の時間、いつもしゃしゃってんじゃねーか。こないだもオレからボール取って、得意げにゴール決めてたよなぁ?」
「……いつのことか具体的に言ってくれよ」
「いつもだよいつも! 最近バスケやりだしてからずっとだよ! オレ小学校ん時からバスケやってんだぞ。シロートが出しゃばってんじゃねーよ!!」
体育の授業内容がバスケになってから、ずっと後藤は不満を溜め込んでいたらしい。
しかし千博に言わせてみれば、それは逆恨み以外の何物でもなかった。
後藤とは別のチームなので、対戦すれば当然パスを奪うし、勝つためにはゴールも決める。
千博としては、単に真面目に授業に取り組んでいるだけであった。
なのにその旨を述べても、後藤は余計に逆上する。
「嘘ついてんじゃねーよ。未経験の奴が真面目にやるだけでそんなにできるかよ。したいんだろ? オレの邪魔が!!」
「だから俺はそういうつもりじゃ」
「オレ一年じゃ部活で一番できるからなぁ。オレの邪魔して女に騒がれたいんだろーが!!」
「お前がそう思いたいんだったら、もうそうしろよ」
こちらとしてはごく普通にプレーしていたつもりだが、バスケに自信のある後藤には鼻持ちならなかったのだろう。
同じようなことが、小学校時代何回かあったと千博は思い出した。
体育の時間、少年野球チームのメンバーより野球が上手かったり、スイミングの選手コースの奴より記録が良かったりで喧嘩になったのだ。
「で、河合は?」
まさかまた逆恨みじゃないだろうなと思いながら千博は聞いた。
河合は今までの二人よりさらに高ぶった様子で叫ぶ。
「テメェ! カナに何したんだよ!?」
「カナ」という人名に聞き覚えがなく、千博は首をかしげた。
しかしすぐにクラスメイトの「沢原」という女子が、カナという名前だったと思い当たり、苦い顔になる。
千博は一週間前、その沢原カナという少女から告白されていた。
彼女が河合と仲がいいことは知っている。
なぜか彼が怒り狂っているのか、答えはすぐに分かった。
「アイツの告白なら断ったよ」
先回りするように言うと、河合が吠えた。
「知るかよ! オレはテメェのせいでアイツにフラれたんだぞ!!」
「そんな風に言われても……」
「アイツとはずっと仲が良かったのに、テメェ一体何したんだよ!!」
何もしていない。
というか、千博は今まで沢原とロクに話したことすらなかった。
いわば、彼女が一方的に告白してきたのである。
本人にあまり自覚はないが、千博の容姿は一目ぼれされても無理はないほど優れていた。
彫りが深く、力強い双眸が目を引く整った顔立ち。
体は中学生とは思えぬ長身だが、ヒョロリとしているのではなく、がっしりとバランスよく筋肉が付いている。
おまけに色素が薄いせいか、髪は灰色に近く、瞳は鳶色。
絵に描いた王子様のような容姿ではないものの、千博は女子が放っておかないレベルの外見だった。
猛り狂う河合に、千博は極めて冷静に言う。
「俺は沢原に何もしてない。というより話したことすらない」
「じゃあ何で仲いいオレがフラれて、お前にコクるんだよ! オレの方が女子に人気あるし、面白いのにワケ分かんねぇよ!!」
「それは……」
千博は答えに詰まった。
「河合君て、あんまり性格良くないんだよね……」という、沢原の言葉が脳裏に蘇る。
そう、告白された時、千博はなぜ仲のいい河合じゃないのかと尋ねていた。
そして帰ってきた答えがこれだ。
その時は河合をフォローし、沢原にはまずは友達からと答えたのだが、彼女の言葉はあながち間違いではなかったらしい。
「何黙ってんだよ!!」
どう答えるべきか悩んでいると、しびれを切らした河合が殴り掛かってきた。
とっさによけると、今度は後藤と山岸が同時に向かってくる。
しかし千博は少しもまずいとは思わなかった。
まず身長は、こちらの方が頭一つ分以上高い。
それに運動部は後藤一人だけで、後の二人は山岸が囲碁部、河合が帰宅部。
対して千博は帰宅部だが、体育教師に腕相撲で勝ったこともある馬鹿力だ。
向かってきた二人を突き飛ばし、河合に拳を一発食らわせただけで勝負はついた。
突き飛ばされた二人は尻もちをつきながら、河合は殴られた頬を手で押さえながら後ずさる。
「……山岸。残念だよ」
千博が呟くと、三人は一目散にその場から逃げて行った。
三対一の喧嘩に勝ったが、広がるのは勝利の喜びではなく、悲しみと後味の悪さである。
後藤と河合に恨まれていたことはどうでも良かったが、仲がいいと思っていた山岸については残念でならなかった。
塾帰りにコンビニへ寄ったり、公園で馬鹿話をしたりしていたのだが。
「どうしてこうなるもんかかなぁ……」
小学校の六年間、千博はずっとクラスのリーダーだった。
しかし小学生離れした外見と頭の良さゆえ、周囲と対等な関係を気付くことができず、寂しい思いを味わってきた。
だから中学こそはと入学してからなるべく気安く振る舞っていたのだが、まさかこんな結果になるとは。
千博は大きくため息を吐いた。
明日からの学校生活が、憂鬱で仕方ない。
親友なんて大げさなものじゃなくて、ただ気楽に話せる友人が欲しいだけなのに、どうしてこうなるのだろう。
自問自答しながら、千博は重たい足取りで家路につき、玄関の扉を開けた。
スニーカーを脱ごうとして足元を見ると、ふと父親の靴が三和土に脱ぎ捨ててあることに気付く。
時間はまだ四時過ぎ。
帰宅するには早すぎる時間である。
おそらく風邪でも引いて早退したのだろうと千博は推測したが、居間に行くと、そこには予想に反して元気な父親の姿があった。
何があったのか、普段のぼんやりした様子とは打って変わって、期待と興奮に目を輝かせている。
「親父、一体どうしたんだよ!?」
「千博! 引越しをするぞ!!」
そう言われても、そんな話今の今まで聞いていない。
突然何を言い出すのかと、千博は目を剥くしかなかった。