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案山子

作者: 蘚鱗苔

 そのかかしは笑っていた。動くはずもない仮初めの顎を震わせながら。その頭は布で形作られ、そして所々破け解れ中身が見えかけていた。それでもかかしは笑っていた。丸く、まるで鞠の如く形作られた頭は、中に稲藁がはちきれんばかりに詰め込まれ、それでいて穴が開いているというのに漏れ出てこないようにしっかりと形成されていた。胴体は同じように稲藁を詰め込まれ、お古の着物を着こみ、竹を十字に組み合わせた骨格をもっている。掌は古着をくりぬいて形作られ、中には稲藁が詰められていた。


 そのかかしは笑っていた。墨で描かれたお粗末な口を歪ませながら。独り田んぼに立ちつくし、来るはずもない外敵から田んぼを守っていた。来るはずのない人々を待ち、そして彼らが帰ってきたときにすぐに仕事を続けられるように守っていた。もう、彼のもとには何もなかった。乾ききり、罅割れた地面だけが彼を支えていた。まるで水が入ってくることもなく、雨水が湿らせた地面は数日待たずに乾燥した。ただ、不思議なことに彼は立ち続けていた。どんなに強い風が吹こうとも、どんなに酷い雨が叩きつけようとも、雹が彼を揺さぶろうと、鳥が彼の腕にとまろうと、彼は気にすることもなく、倒れ伏すことはなかった。


 そのかかしは知っていた。稲藁以外には何も詰まることのない頭で何もかもを。もう二度と人々が彼のもとに来ることはないということを知っていた。彼が守るべき畑が二度と使われぬことも知っていた。彼が追い払うべき外敵すらも畑には見向きもしないことを知っていた。もう、彼には知らないことはなかった。畑はとても広く、到底彼だけでは守れるはずもないということを。畑はとても広く、しかしながらもう彼しか残っていないということを。畑はとても広く、今更人々が戻ってきてももうどうしようもないことを。


 そのかかしは思い出していた。鳥に啄まれ風雨に晒された頭を回しながら。自分の顔を作ってくれたあの子供がこの村にはもういないことを思い出していた。ろくに文字も覚えていないのに、必死に顔を描いてくれた彼の顔を思い出していた。彼の服となっている着物を仕立ててくれた媼がこの村にはもういないことを思い出していた。夫に先立たれ、その形見を細断し裁縫してくれた老いた彼女の顔を思い出していた。彼がどんなに足掻こうとも、それは自然の摂理であって、彼がどんなに万能であろうとも、それを止めることはできなかった。


 そのかかしは懐かしんでいた。幾度の暴風にも土砂降りの雨にも耐えた体を揺らしながら。彼は畑を守るために生まれた。村は小さく、干ばつにあえぎ、増えてきた鳥を追い払うために作られた。彼は懸命に仕事をした。動くことはできないし、声も上げられないけれども、鳥を追い払った。村人は彼を敬い、彼とともに暮らしていた。彼は宗教の隠れ蓑にもなった。時間が経ち、壊れかけた彼を補修しようとしたのは、この村に流れ着いた伴天連だった。弾圧され、逃げまどっていても、それでも村人に対する恩義を無碍にすることはなかった。そしてこの村にも荒波が押し寄せてきた、その時彼は伴天連の残した記憶を竹でできた骨に刻み込んでいた。


 そのかかしは考えていた。乾き切り折れかけた骨子に風を纏わせながら。村の人々がいなくなってからどれだけたったのだろうと考えていた。彼には時間がわからなかった。彼が物心ついたのは村人がいなくなって少し前だった。故に、彼は時間を知らなかった。彼がわかるのは、夕暮れと朝日だけだった。稲藁の頭では数を数えることもできず、ただただ日々を甘受していた。それでも彼には記憶があった。何故かわからないが、彼はそれが大事なものだとわかっていた。彼は変わらぬ日々を大切な記憶の反芻をすることで過ごしてきた。


 そのかかしはわかっていた。びゅうと強い風が吹き、ぎしぎしと左右に揺れながら。自分自身の寿命が近づいていることを知っていた。かかしは死を知っていた。顔を描いてくれた子供は流行病で死んだ。親が泣き叫び、動かぬ子供を抱いて狂ったことも知っていた。着物を作ってくれた老婆は寿命で死んだ。最後まで畑にきて、彼に会いに来てくれたのだった。最後は彼が看取り、翌朝息子が迎えに来たのを知っていた。他の村人も、次々と死んでいった。村長は先の地震で死んだ。媼の息子は熊に襲われ死んだ。数少ない若妻は流行病で、夫は栄養失調で死んだ。村一番の長生き爺はある日ぽっくりと死んでいたらしいし、久方ぶりの子供は神隠しにあった。残った村人たちも、どんどん村を出て行った。かかしには村以外のことはわからなかった、しかし村がもう遅れたものであったことは理解できた。かかしが最初に考えて理解したことは、村も死ぬのだ、ということだった。


 そのかかしは抗っていた。ついに地面に落ちて、風化を待つだけとなりながら。もう村はとっくに死んでいることをそのかかしは知っていた。最後に挨拶にきた村人が感謝を告げたのをそのかかしは思い出していた。もう二度と感じることもない、人々の温かみと人々との記憶をそのかかしは懐かしんでいた。自らの根底となった、精神の土壌となった、思い出の土壌となった、大切な村への感謝の仕方を、そのかかしは考えていた。もう既に彼の仕事は終わった、もう彼の存在意義はない、もう朽ちるだけだと、そのかかしはわかっていた。


 そのかかしはわかっていた、知っていた、理解していた。自らの死期がもう近づいていると。

 そのかかしは考えていた、喜んでいた、思い出していた。自らもここで死ねるのだと。

 そのかかしは笑っていた、笑っていた、笑っていた。最期まで悔いの無い幸せな生だったと。


 忘れ去られた山の中の退廃した村に一陣の風が吹いた。

 捨て去られた村の中の荒廃した畑に一陣の風が吹いた。




 褪せた畑と 割れた土

 笑みを浮かべて 横たわる

 朽ちた案山子に 風が吹く




 案山子の首が 転がった

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