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5:どれだけの罪か分かっているのか

「それにしても、主役の女の子の不健康そうな感じがよかったねえ」

「目力凄かった。画面が奇をてらいすぎて見づらいカットとかになってなかったのもよかったな」

「それはある」

 感想を語りあっての共通項は、概ね二人とも映画に満足したというものだった。

 傘屋の後、洋服屋や雑貨屋、CDショップや本屋にお茶屋などをゆっくり回ってから、喫茶店に腰を落ち着けて今日を振り返っていた。

 まぎれもなく楽しい一日だった。こんなに完璧な幸せが失われることなどないだろう。たとえば一年と半年後、高校を卒業した私たちが別々の場所で暮らしたら、こんな休日はなかなか訪れなくなるということはとても信じられなかった。

 互いのカップに残った紅茶はもう冷めて少なくなっていたし、セットのケーキは既に食べ終わっていた。かなり長い間この席を占拠してしまっている。

 ほのかがまた一口紅茶を口に含んだ。

「このカップの取っ手」

 こくんと白い喉を動かした後、カップに視線を注いで言う。

「可愛いけど、洗うの大変そうだよね」

 言われて注目してみると、カップの取っ手は猫が伸びをしている意匠になっていた。

「なるほど、細かい溝が沢山あるしね。でも食器洗浄機とかなら綺麗にできるんじゃない?」

「キミちゃんの家って洗浄機使ってるの?」

「使ってないから何となく言ってるだけ」

 ミスタービーンみたいな表情で言ったら、ほのかはけらけらと笑ってくれた。神様、私はほのかを笑わせるために他に何ができるでしょうか。何でもできるようにしてください。

 祈りと共に飲み干したお茶からは、ミントの香りが立った。

「あ、もうこんな時間。そろそろ行く?」

 言われて腕時計を見れば、もうすぐ十八時になりそうだった。

「そうだね」

 まだ帰りたくない気持ちはあったが、明日は学校がある。

「出よう」

 ほのかもカップを空け、席を立った。

 七月午後六時前の空はまだ明るかったが、暑さは大分和らいでいた。その道をほのかと並んで駅まで歩くと、足取りが妙にフワフワして感じられる。

 今年の蝉はまだ鳴き出していない。私は蝉が嫌いだ。鳴いている時がうるさいからというのもあるけれど、鳴かなくなってきた時に凄く寂寥感を感じるから。

 ほのかと私はよく話した。とりとめもなく、くだらない内容を。こんな風にどうでもいいことじゃなく、大事な話ばかりしていられたら幸せなのだろうかと考える。きっとそれは、恐ろしいくらいに不幸だ。

 二人とも駅に着いて初めて気付いたのだが、今日は平日でこの時間となれば、ラッシュのピークだった。

「うわー」

「おお……」

 普段電車通学でない私たちはラッシュに馴染みが薄い。ホームの列を目にして、腰の引けたような声を漏らした。

「これは辛いなあ」

「でも仕方ないよ、帰宅ラッシュってしばらく続くらしいから、頑張って乗ろう」

 ほのかはそう言うが、彼女の矮躯ではきっと大変だろう。少しでもスペースを作ってあげようと思った。

「傘を買わなかったのはラッキーだったかも。下手に持ってたら買ったばかりなのに折れちゃってたと思う」

 ほのかがパレアナみたいなことを言う。でも私は、ほのかがわざわざよかった探しをしなくたって、目を瞑って手を伸ばせばそこに幸せがあるようにしたい。

 ラッシュダイヤなので電車はすぐに来た。入れるかどうか不安な混みようだったけれど、皆が平然と乗り込んでいくのでその流れに身を任せたら不思議と詰め込まれてしまった。大道芸みたいだ。

「ほのか、平気?」

「へ、平気……」

 潰されそうになっても健気にそう主張する。壁際に立てたなら、ほのかの回りに腕を回すように壁に手をついて楽にしてあげられたのに、あいにく私たちは車両の真ん中あたりに押し込まれてしまっていた。向かいあって密着するように立っていられるのはドキドキするけれど、そんなの二の次だ。

 電車が出発する。揺れるたびにほのかの顔が私のデコルテに押しつけられ、そのたびに胸がざわめく。

 僅かなりと後ろに下がり、ほのかの前に空間を空ける。私はその分後ろから圧力を受けるが、なけなしの背筋力で耐える。上手くいった。

 上手くいっているのは次の駅に止まるまでだった。ある程度の人数が降り、一息ついてもう少しだけほのかとに距離を作ったら、乗ってくる人たちの圧力で私たちの間に人が入り込んでしまった。

「あ」

 思わず声が漏れた。満員電車に乗り慣れていないからこうなる。悔しさに歯噛みした。

 電車が線路を走り始める。どうすることもできず、私とほのかはバラバラにシェイクされる。

 心配で見ていたら、サラリーマン越しにほのかは苦笑してきた。ちょっと楽しそうですらあったから、私は少し落ち着く。

 冷房の効いた車内は、人さえ少なければ快適だったろう。汗の臭いと香水の臭い、疲労の臭いがする。車窓から西日が差しこんで、終わっていく予感がした。その中で私は少し俯いて耐える。

 ふと顔を上げたことに理由はなかった。或いは、それは私にとっては当然で必然だった。ほのかの様子を窺った。

 ほのかも俯いていた。だがその様子がおかしかった。とても強張った表情をしていた。最初は、押されて苦しいのかそれとも酔ったのかと思った。だがちょっと違うようだった。表情が数秒ごとにビクビクと怯えるように苦しがるように変わり、不自然なほど体を動かさないようにしていた。

 痴漢をされている。

 視界が一瞬揺らいだ。赤とも黒ともつかない色で染まった気がした。視野が戻ってからも、心臓がこめかみにあるようだった。血管に液体窒素が流れて火傷しながら凍りつきそうだった。

 助けることはすぐに決めた。いや、もうずっと前からそんなことは決まっていた。

 ほのかに汚物そのものの手で触れるな。穢すな。どれだけの罪か分かっているのか。分かっていないだろう。ただで済むと思っているのか。後悔させてやる。報いを受けさせてやる。ぶっ殺してやる。

 殺すのは不味い。方法はどうしよう。手は届かない。大声を出せばいいだろうか。それだ。

 思い切り吸いこんだ息が、肺の中で固化した。私のお尻の谷間に、何かが押し付けられていた。

 何かは上下にゆっくりと谷間を擦りあげ、徐々に降りてくる。

 触れてきているものを掴んで捻りあげるべきだった。それか予定通りに大声を出すべきだった。私の視線の先ではほのかが顔を歪めていた。私はこいつらの人生を壊してやらなければいけない。

 お尻に張り付いているものはもはやはっきりと何者かの手だと分かった。スカート越しに揉みしだいてくるそれからは、えずくほどの劣情が伝わってきた。お尻だけで飽き足らず、脚の間、股の間へ向かいだす。

 自分が震えているのは分かっていた。怒りのためだと思いたかった。だが紛れもなくそれは恐怖のためだった。誰にも触らせたことのない場所が粘りつくように犯されている。抵抗しなければならないのに、怯えて何もできなかった。悲鳴すら上げられない。幼く無力な子どものように、暴力が通り過ぎるのを待つしかなかった。何も見えていないし何も聞こえていない。考えることすらできない。ただ股を這うどこまでも気持ちの悪い感触が私を支配していた。

 手はスカートの下に潜り込んできた。下着なんて何の守りにもならない。周囲に立っている全ての人間が私を犯している気がした。

 突然重力の方向が変わる。周囲ごと私の身体がかしいだ。圧搾空気の抜ける音がして、電車のドアが開く。突然でも何でもなく、次の駅に着いただけだった。停車を予告するアナウンスにも気付かなかっただけだ。

 乗客が降りていく。私の前にいた人も降りていった。手が離れる。

 目の前の人がいなくなって、ほのかがいることを思い出した。

「っ」

 ほのかに駆けよって腕を掴み、もつれて落ちるように電車から降りた。

 扉前の人並みをかき分けて、ホームの真ん中辺りまで走った。それ以上進んだら向かい側の線路の電車に近づいてしまう所まできて、逃げ場所がなくなり足を止めた。ほんの数メートル、しかも実際は走ったというより早足程度だったのに、私は肩で息をしていた。

「……キミちゃん」

 腕を掴まれぎょっとして顔を向けた。ほのかを引っ張っていた腕、それをほのかがもう片手でそっと握っていた。

「あ、ああ、ごめん」

 慌てて私は手を離す。ほのかの細い腕を潰しそうな強さで握り締めていた。

「ほのか」

 何の意味もなく名前を呼ぶ。ほのかの顔は安い再生紙のようにしらちゃけていた。

「……ほのか」

 もう一度呼ぶ。ホームに風が吹き込み、じっとりと汗をかいた全身が冷えていく。

「うん」

 返事が返ってきた。ほのかもそっと私の腕を離した。

「キミちゃん、ありがとう」

「ごめん」

 二人の声が同時にぶつかった。その衝撃で、既に脆くなっていた私は言葉を失う。

 ほのかは小さく首をかしげて、もっと小さく笑った。

「ごめんって、何言ってるの、掴まれたことなんか何でもないよ。私のこと逃がしてくれてありがとう、降ろしてくれなかったらずっと乗ってた」

 それは違う。私が逃げただけだ。自分が逃げるついでにほのかを連れてきただけだ。

 もっと正しく言えば、私は逃げることすら満足にできなかった。されるがままになっていた。下半身にべっとりと感触が残っている。

 私はよっぽどおかしな顔をしていたのだろう。自分ではどんな表情をしていたのか分からない。笑っていたかもしれないし、無表情だったかもしれないし、ほのかを睨んでいたのかもしれない。

「大丈夫? ……キミちゃんも、触られてたんだよね?」

 頷く。からからの喉に、べとついた唾液を無理やり流しこんだ。

 私の身体はもう震えていない。呼吸もできる。今だったら叫べるのに。

 一つ息を吐いた。真っ直ぐに吐き出せたはずだ。

「私は大丈夫。ごめん、もっと早くほのかを助けたかったんだけど、私もやられてビビっちゃってた。ほのかは大丈夫?」

 そう、私は平気だ。私が痴漢されたことはどうでもいい。

 ほのかの目を見つめた。潤んでいた。

「……怖かった」

 ぽつりと落ちた声が喩えようもなく細かったから、私はほのかに触れようとして、しかし躊躇って空の拳を握った。

「ちょっと休もう」

 手を伸ばせないまま、近くのベンチに向かった。幸い席は空いていた。ほのかは崩れるように腰をおろし、私もその隣に座る。

 しばらく二人とも何も言わなかった。ほのかがスカートの腿をぐしゃぐしゃに搾っていた。数人がこちらをチラチラ見ていたので、私はそいつらを睨み返そうとして怖くてできなかった。無表情で見返すだけでも、彼らは視線を逸らしたけれど。

 ホームはひたすらに暑くうるさかった。知らない民族のお祭りのようだった。

「……大声を出そうとしたんだ。本当に。ほのかがされてるってすぐに気付いて、すぐに」

 言い訳とも懺悔ともつかないそれは喧騒に紛れてしまいそうだったが、ほのかには聞こえたようだった。

「うん、分かってる」

 ほのかは多分分かっていない。まさぐられている時に、私が声を出そうとしたかなんて細かな観察をする余裕はなかったはずだ。それでもこう言ってくれたのは、分かってたことにしてくれるって意味だ。私を許してくれるって意味だ。

 次の電車を告げるアナウンスが響く。この駅は本来私たちが降りる駅ではない。帰らなければ。

「……バスで帰ろうか」

 多分一つくらい、私たちの駅近くまで通っている路線があるだろう。

 頷く気配がした。

 また少し沈黙する。

 電車が入ってきた時、ぱんっと音が弾けた。ほのかが皺になったスカートの布を張った音だった。そして勢いよく立ちあがる。

「よし、もう忘れた。キミちゃん、行こう」

 笑っていた。私も笑顔を作って見上げる。

「OK」

 OK、OK、と心の中で繰り返す。全てに対して繰り返す。今日は新しい真理が証明された、いい一日だった。

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