3:ほのかの心を少しでも知ることができたら
モール内のイタリア料理屋で食べた、チキンのチーズステーキランチが期待した以上に美味しかった。鶏肉にチェダーチーズを挟んで皮はパリパリ中はトロトロに焼き、香りの強いバジルソースがかかっていて、濃厚な味が楽しめる。ほのかの頼んだ夏野菜の冷たいパスタも美味しそうだった。
近くにあったら常連になるのにね、また来たいね、という言葉がどちらからも出た。独占欲をたくましくすれば、二人ともなかなか来れないからほのかにとってこの店は私だけとの思い出の店になるとも考えられる。でも、そんなどうでもいい満足に浸るには、チキンが美味しすぎたのだ。
予定通り、二人で映画を見にきていた。私たちは創立記念日でホリデーだけれど、他の人たちにはただの平日だ。電車にもモールにも人は少なかった。
「なんかさ、ドキドキしない?」
店から出ながら、ほのかが辺りを見回して言った。
「分かる」
大きく頷き返す。悪だくみするみたいにニヤっと笑って。
「サボって遊びに来たみたいな背徳感」
「癖になる?」
「……なりそうかも」
ほのかにサボり癖がついたら私も一緒にサボろうか。それともほのかを学校に呼ぶために世話を焼こうか。どちらも魅力的で困る。
「ほのかがサボるようになったら、我が高校の多大なる損失だね」
「なにそれ」
「引いては日本経済の決定的な損失になる」
「どれだけ私は小さな巨人なの……」
「傾国の美女ということにしておこう」
「美女って」
美女だよ。珊瑚礁の色のサンドレスが綺麗で。
「そういうことだから、常習的にサボる前にはよく考えるように」
国がどうなるとは思わないけれど、ほのかの人生はきっと大きく変わるだろうから。
「サボらないよ、もう、からかって」
軽く口を尖らせたほのかは、小柄さも相まってまるでローティーンに見える。さらってしまおうかと思う。ガサッと落葉すくうように。
そろそろ映画館に向かっていい時間だったので、足を向けた。
シネコンは特にも増して人が少なかった。平日の昼間なのだから当たり前だ。
ここは木曜日がレディースデイで千円になるが、あいにく今日はカップルデイだった。男女ペアなら千円になる。つまり私たちには適用されない。
高校生料金の千五百円を払ってチケットを買う。空いているおかげで真ん中の見やすい席を選ぶことができた。
ロビーには、新しい映画館特有の無機的な香りの中にポップコーンの香ばしい香りが漂っている。
「飲み物買ってくる。ポップコーンかポテト食べる?」
香りにつられて、しまいかけた財布を出し直してほのかに尋ねる。
「今ご飯食べたばっかりじゃない。飲み物は私も……そうだ。キミちゃんのも私が買うよ」
「え、なんで」
「傘貸してくれたお礼」
「いいよそんなの」
「よくない」
実を言えば私は、おごられるということに慣れていない。苦手と言ってもいい。やたらと申し訳なく思ってしまう。減るもんじゃなしという下品極まりない言葉があるが、しかし私がおごられることを苦手なのは、おごることは減ることだからだ(逆説的に、減るもんじゃなければあまり気にならない無神経さがあることになってしまうけれど)。おごられると、相手のリソースを確実に減らしてしまう。プレゼントだって相手の所有物を減らすことになるから苦手だが、こうやって目の前で何かを買ってもらうのは輪をかけて苦手だった。お金の臭いが強いからかもしれない。私はこの年になってもお金に対するスタンスを決めかねている。自分で稼いでいないせいだろうか。他人にお金を払わせたり借りたりするのは、ひどく躊躇われる。ましてほのかには。
私が面倒臭く考えすぎているのだ。好意の表れとして傘を貸したのに対して、好意の表れとしてジュースを買ってくれるだけだ。減るものでない傘貸しに対して映画館料金のジュースというのが妥当かどうか全く分からないのだけれど、露骨に不釣り合いでもないのだろう。
だから、ジュースを買ってもらうことに何の支障もない。ほのかに対して作った貸しは返されないままにしておきたいという欲求を除いては。
「……んー、じゃあ頼もうかな、ありがと。コーラお願い。Mで」
意図したよりも長く考え込んでしまったのを誤魔化すように極力軽くねだると、ほのかは満足げに眼を細めた。
「ダイエット?」
「普通の」
「ポップコーンかポテトは?」
「ご飯食べたばっかりだって言ったのは誰だ」
「私。待ってて」
売店に向かうほのかの背中から、数秒視線を外せなかった。引っぺがす。
数少ない他の客は、大学生っぽい男女カップルやお年寄り、主婦っぽい女性などがほとんどだった。私たちくらいの歳の人間はもう一組だけ。見覚えはないが、もしかしたら同じ学校の生徒かもしれない。
近日公開予定の映画のチラシが並べてあったので、気になったものを何枚か手に取る。アクションスターを集めることに全力を傾けましたみたいな一枚目を読み終わる前にほのかが戻ってきた。
「はい、太る方のコーラ」
「美味しい方のって言ってほしい。ありがとう」
受け取ったカップの冷たさと薄い頼りなさに、何かが怖くなった。
ほのかが自分で持っているカップは一回り大きかった。
「ほのかは何にしたの?」
「太らないようにアイスティー。それ、見たいの?」
私が握っているチラシにほのかが気付く。
「いや、そういうわけじゃないんだけど……こういう映画に出る俳優の気持ちってどんなかなあって思って。オールスターって言えば聞こえはいいけど、なんか、まとめ買い、みたいな感じじゃない? お祭り映画っぽくて、役者の豪華さ以外はストーリーとかどうでもよさそうだし……もし脚本がよくても、お祭り映画ってレッテルは剥がれないと思う。みんな贅沢なキャストだったねーって言われて、一人一人には注目してもらえなそうな気もするし」
もし私が役者だったら、そんなに出たいとは思えない気がする。
「うーん、そうかもね。オファーがあっても、キミちゃんが言ったみたいな理由で断った人はいるかも」
「でしょ?」
「でももし私が俳優で、誘いが来たら、絶対断らないと思う」
その言葉があんまり確度を持っていたので、どうしてなのか聞くことができなかった。とても知りたかったのだけれど。ほのかの心を少しでも知ることができたら、私はそれを肯定することができるようになるかもしれないのに。