2:キミの中では、愛することと守ることはおなじこと。お会いしましょう
恋愛物の漫画や映画というのは、ずっと昔は運命的な出会いが主流で、その後リアリティだか身近さだかを強調するために「出会いはごく普通の物だった」なんてのが多くなり、今はどっちも相当数あるようになった気がする。
私とほのかの最初の接点は、ごく普通の範疇に入るだろう。高校に入って最初の席替えで席が前後になった、ただそれだけだ。ただそれだけで私は惚れた。
互いにある程度の社交性は持っていたから、席が近ければそれなりに話す。話してみれば、ほのかの仕草一つ一つ、言葉一片一片が、雪の結晶のように、ありふれているのに綺麗だった。もっと見たいと思って近付けば、もっともっと与えられた。私はすぐに夢中になった。
無粋な分析をすれば、私は好意に飢えていたのだろう。与えられることに飢えていたというよりも、与えることに飢えていた。誰かに思うさま好意を注ぎ、それに十分な反応が欲しかった。その点でほのかは理想的だった。美術館で買った栞一枚のプレゼントにも、何も考えていない冗談にも、もったいないくらいの笑顔を返してくれた。こんなに敏感な人には今まで会ったことがなかった。だが、好意を与えるのに適した相手だったら誰でもよかったのかと言われたら、絶対に頷くことはできない。
深めた好意が愛情に――恋愛感情になるのは至極自然なことだった。同性に恋愛感情を抱くことが将来的にどういう意味を持つのかは分からない。そんなの、まだ先のことだ。私はただ、できるだけ長い間ほのかと一緒に時を過ごしたい。
ほのかが私にどんな気持ちを抱いているかは知る由もない。けれど、恋してくれてはいないはずだ。私はしばしば彼女との間に齟齬を感じる。ほのかは無防備すぎる。私に心を開きすぎる。打ち解けた相手とは思ってくれているかもしれないが、恋ではない。私は彼女のその心を、どうしたって肯定的に捉えられない。
妬ましい。
誰かと恋人関係になった回数は私の方が多い。私は一回、ほのかは〇回。告白された回数は、ほのかの方が多い。私が一回、ほのかが三回。互いに自己申告、互いに自分からの告白経験はなし。
私のそれは中学時代にクラスメイトの男子から告白され、雰囲気や好奇心でOKしたというものだ。初めての交際の初々しさと胸の高鳴りは、すぐに価値観の合わない相手と時間を過ごすことの煩わしさに変わった。いい経験だったとは思っている。私の自尊心をささやかに満たす程度の、だけれど。
ほのかは三回告白されて三回とも断ったという。中学時代に二回、高校時代に一回。もったいないと思わないのと尋ねたら、「キミちゃんならもったいないと思う?」と聞き返され、首を横に振らざるを得なかった。
ほのかは交際を断った方がいい。彼女が誰かと恋人関係になることこそ、もったいないと思う。問題は、その「誰か」に私も含まれるのかということだ。
翌日は厄介な天気だった。
朝は睨みつけるような快晴だったのに、昼休み頃から雲が湧きはじめ、下校時刻には泣き叫ぶような大雨になっていた。まるで修羅場の面倒臭い女みたいだ。
気象庁はそのことを予報していたので、私は傘を持ってきていた。ほのかも抜かりなく準備してきた。
でも世の中にはそういう抜け目のなさをもっていない人も少なからずいる。そして、別の方向で抜け目のなさを発揮する奴も。
互いの部活動を終えて教室で待ち合わせをし、昇降口に行ってみると、ほのかの傘がなくなっていた。
「あれ? どこに置いたっけ……」
まろやかな眉を寄せて彷徨わせるほのかの視線は、一つの傘立てを中心に動いていた。口ぶりとは逆に、そこに置いたことを確かに覚えているのだろう。
「盗まれたんだよ」
私は顔をしかめて言った。
「見つけたらそいつの股間に傘の柄引っ掛けて思い切り引っ張ってやるのに」
傘をクルリと回してシャーロック・ホームズのバリツもかくやの鋭さで振るって見せると、ほのかは愁眉を開いてころころと笑った。
「盗ったのが男の人とは限らないじゃない」
股間を狙うなら疑いなく男相手だと思っている容赦のなさを垣間見せた言葉に、私は肩をすくめて返す。
「女だったら初体験させてやる」
グイ、と荒っぽく傘を引き上げた仕草で大きくなった笑い声が雨音を一瞬かき消した。一瞬だけ。すぐに世界全てに紗をかけるような音が戻ってくる。夏だ。
傘を逆回しして持ち直す。
「お気に入りの傘だった?」
「……そうでもない」
「嘘」
「ほんと」
まだ照明の灯る時間ではなく、しかも太陽は分厚い雲にさえぎられていて、昇降口は薄暗い。その上ほのかは外を背にしている。セーラーばかりがまばゆく漂白されている。
湿気を吸った私の前髪が一筋額に貼りついているのを感じた。それを指先で丁寧につまんではがし、無造作に髪をかき上げる。
「映画見に行った時、新しいの買ったらどうかな」
「あ、そうだね! そう思ったら、盗られて丁度よかった気がする」
「嘘」
「……嘘です」
一拍置いて、十年もやっているバンドがライヴで演奏するように、二人で同時にふっと笑った。
緊張が緩んだのを感じた。何かが少し張りつめていたことに、緩んでから気付いた。
「あれ買いなよ。傘の内側に青空がプリントされてるやつ」
「そんなのあるの?」
「ある。らしい。空色だけじゃなくて、雲も浮かんでるの」
「へえ……素敵」
「売ってるか分からないけどね」
三歩歩いてほのかの左に立った。
「天気予報で夜まで降るって言ってたから待ってても無駄だよ。行こう」
ほのかの目は逡巡し、豪雨の空を見上げた。私たちの学校はちょっとした丘の上にあり、ふもとのバス停までは歩かなければいけない。
「傘半分貸すってば」
「いいの?」
「貸さないと思ったの?」
「貸してくれたら嬉しいな、とは思った」
「じゃあ今嬉しい?」
十二センチ下を見下ろす。キスしやすい身長差は十二センチだと何かで読んで、適当なこと言ってくれるよ、と思ったのだった。
「嬉しい」
ほのかが身を寄せてきた。肩や腕が触れ合うくらいに。
「よかった」
嬉しいのは私の方だ。
傘を広げた。バン、という音にほのかが小さく身を震わせる。私が抱きしめる前に震えが消えたことは残念だった。抱きしめたことなどほとんどないけれど。
私から外に踏み出す。途端、雨粒が激しく傘を叩く。隣からはほのかの熱が伝わってくる。私の熱も伝わっていることを信じる。それは信じるまでもなく伝わっていて当然のことだけれども、私は信じようと努力しなければいけない。
泥はねしないようにゆっくりと歩いた。しずしずと、しゃなりしゃなりと。会話は途切れ途切れだった。上に覆いがあり、なおかつ顔がすぐ近くにあるせいで湿気と熱気が籠っている環境は、屈託のないおしゃべりには不向きだ。言葉を発しようと息を吸い込めば、相手の吐きだした空気を肺に満たすことになる。互いの湿った髪の香りがする。気をつけて歩かないと靴を踏む。肘が胸に当たる。
校門を抜け、バス停へ続く坂を下りている途中で後ろから車が来た。先生の誰かだろう。ほのかに少し歩道の端に寄ってもらって、水しぶきを避ける。ギリギリでかからずに済んだ。
少し大きな水たまりが行く手を阻んだ。車道に避けようとしたら、ほのかに軽く腕を掴まれた。
「せーので跳び越えようよ」
それは心躍る誘いだった。しばらく後ろには男子生徒が一人歩いている。知ったことか、見せつけてあげよう。
たまりの縁に二人で立ち、アイコンタクトをする。奥二重の目が輝く。呼吸を合わせた。
「せー」
「のっ!」
瞬間、私はメアリー・ポピンズになった。
踵に走る衝撃で私に戻る。隣を見れば、ほのかも危なげなく着地していた。悪戯が成功した子どもみたいに嬉しそうなので、私も満足する。いつでも傘を放してほのかを支えられるようにしていた右手で、柄を握り直した。
少しだけ二人の間が開いていることに気付いた。跳んだ距離がずれていたからだ。私は水たまりギリギリに着地し、ほのかはそれより少し先にいる。ほのかが雨にさらされて、制服が肌にはりつきはじめる。
身を寄せて、傘をさしかける。
「ん、ありがと」
目の前にきたほのかの前髪の先に、水滴が一つくっついていた。雨上がりの朝、蜘蛛の巣にしずくがついているように。指を伸ばしてそれをつまみ取る。冷たい水が指紋に染み込んだ。
「な、なに?」
ほのかが目を丸くした。
「いや、前髪に水玉ついてたから」
「あ、そうなんだ……ありがとう」
よく分かってない感じでお礼を言われる。それもそのはずで、髪についた水滴をとるのは親切かどうかが怪しいところだ。私もそんなつもりではやっていない。じゃあどういうつもりかっていうと、別に何も考えていなかった。
ほのかはキョロキョロと私を眺めまわして、あ、と声を上げた。
「キミちゃん、肩濡れてるじゃない! 私に傘くれすぎだよ」
言われてしまって私は困る。確かに、ほのか側でない方の私の肩や腕はしとどに濡れていた。気付ないでいてくれたらよかったのに。それか、もう傘を差す必要がなくなってから気付いてくれたらよかったのに。
「仕方ないじゃない」
「何が?」
雨の中、私たちは言い合う。濡れてしまうなと気付いて、私はほのかの正面に移った。肩幅よりは体の厚みの方が薄いから、互いに濡れにくくなる。二人が密着する。
「傘を貸してるのに、自分は濡れたくないからってちょっとしか貸さないなんてかっこ悪いことはしたくないよ」
「……見栄っ張り」
「知ってたでしょ」
むしろ私は欲張りだ。
「でも借りてるのに半分以上使わせてもらうなんて、こっちが悪いから」
本気で言っているのだろうなあ、と思う。そりゃあ、もし私とほのかの立ち場が逆だったとしたら、似たようなことを言うだろう。でもそんなのはただの仮定の話、「自分が大金持ちだったら毎日ステーキを食べる」みたいなもので、実際は私の家は金持ちじゃないからステーキは滅多に食べないし、私が傘を貸す立ち場でほのかが借りる立場なのだからほのかに半分以上を使わせるのだ。
「ほのか、借りる側にも借りる側の作法ってのがあるんだよ」
「必要以上に借りない、でしょう?」
「ビジネスの時はそうかもしれないけど、身近な関係の時は違うよ。借りる側は、貸す側の好意に甘えるべき。貸す側を気持ちよくできるんだから。ほのかだって誰かに貸す時はそう思わない?」
「う……」
ほのかは口ごもってしまうけれど、私の話は嘘の一類型である特殊の一般化というやつで、常に借りる側がこうするべきってわけではない。貸したくなくても仕方なく貸すよと申し出ている場合もある。というかまあ、好意で貸してあげる時も多少遠慮のそぶりは見せてくれた方が互いにとっていい。でも私はほのかのために何かしてあげたいし、甘えてくれたところで遠慮という美徳がほのかの中から消え去るなんて考えられないし、だから彼女にはこんな嘘っぱちの説教ができる。
私は自己犠牲に酔っているのではない。傘に十分な大きさがあれば、私もほのかも隠れるように持つ。それができないから、ほのかを優先するのだ。私だけ水に濡れたら死ぬ特異体質だったりしたら、もちろん私を確実に傘で覆う。ちゃんと考えている。
もっとも、自己犠牲に陶酔しているのだとしても構わないかもしれない。ほのかに迷惑さえかからなければ。
見つめあう私たちの隣を、男子学生が通り過ぎて行った。邪魔そうにしていただろうか、或いは道の途中で密着しながら見つめ合う女二人を奇異の目で見ていただろうか。分からない。私の注意力はほとんどがほのかの瞳に咥え込まれている。
ぱちぱち、とほのかが目をしばたたかせたのが、ひどく大きな動きに感じられた。
「……じゃあ、キミちゃん、濡らしちゃってごめんね?」
そのお願いの言葉はセクシャルな意味に取れすぎると思ったけれど、私は気付かぬふりで頷く。
「喜んで」
気取った風に言って、傘を傾けた。胸の触れあいそうな体勢から、肩を並べる位置に戻る。
「行こ」
「うん」
再び坂を下りはじめたら、心持ち雨足が強まった。ほのかが申し訳なさそうに、ほとんど腕を絡めるみたいにくっついてくる。それでも女性用の傘は二人を覆いきれない。
左肩が冷たく、べったりと服がまとわりつく。だがそれが気持ちよかった。雨だれが一粒私を濡らすたびに、ほのかの心の中の襞に私が一粒染み込んでいくような気がして。ああ、やはり私は酔っているのかもしれない。
風で横から吹き込む僅かな雨粒もほのかに当てたくなくて、傘の位置を下げた。
このまま歩いていきたかった。私の傘でほのかを守ってあげたかった。他の色々なものから守ってあげたかった。私にはそれができる。私はほのかが好きなのだから、それは権利であり義務だ。
そして証明だ、と付け加えた。女が女を愛するメカニズムを持っていることの証明だ。
《夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう》
穂村弘の短歌を私は書きかえる。
《キミの中では、愛することと守ることはおなじこと。お会いしましょう》