紅王女と沈黙王
改訂7/22
世界を戦火に巻き込んだ、一人の王女がいた。
国の意に従い剣を持ち、自らの髪の色のごとく彼女は世界を紅に染め上げた。
いったい何を求めて突き進むのか。
それは誰にも理解出来なかった。
だが彼女は進み続ける。
破滅を従えて。
そしてあるとき、一人の男が王女の進撃を阻むために立ち上がる。
だが人は知らない。
かつて彼が彼女の側に立っていた事を。
そして彼が何のために彼女に敵対して立ったかを。
―◆≪◇≫◆―
幾度剣を交えただろうか。
戦いは幾度となく繰り返され、そして幾度となく追い詰め、幾度となく機を逃していた。
だがその長い戦いも漸く終焉を迎えようとしていた。
長い戦いの果てに、漸く王女を追い詰めたのだ。
王女を追い詰めたのは一人の男。
かつて彼女の傍らに立っていた男だった。
逃げ出した王女を、彼は一人追いかけた。
追い詰められた王女は剣を取る。そして男もまた剣を抜き放ち、戦いの火蓋は切って落とされた。
どれ程の時間が過ぎただろうか。その戦いの果てに立っていたのは、男のほうだった。
彼は荒い息を整えると、地面に倒れたままの彼女に向かって歩を進める。
そして彼は手にしていた剣を収め、手を差し出した。
「もう、お前も立ち止まってもいいはずだ」
差し出された手をじっと見詰めながら、彼女は自問するように呟いた。
「私は……何を信じてここまで来たんだろうね」
その呟きに、男は苦笑しながら答えた。
「お前はおまえ自身を一番信じていた。自分を信じていたからこそここまでこれたんだ」
その言葉に彼女は目を見開き、そして何かを納得したように目をゆっくりと閉じて言った。
「そうか。そうだな。そうだったな。私は一番私を信じていたんだ。私を信じていたからこそここまで来たんだな」
そういって差し出された手を躊躇うことなく取り、立ち上がるとそのまま少し離れた場所へ歩を進め立ち止まる。
その背中に向かって男はなおも語りかける。
「もうこれ以上進んでも何も無い事が分かっているだろ。お前は十分過ぎるほどの事を成し遂げた筈だ。だから帰ろう、あの場所へ…………一緒に」
そう言って男は再び手を差し出した。
しかし彼女の返事は、まったく予想しないものだった。
「確かに、そんな事はずっと前から分かっていた。それでも進まなければならなかった。…………だが、それももう終わりだ」
そう言うと、ゆっくりと視線を男の方へと向けた。
男は彼女の浮かべる儚げな笑みに、不安を覚える。
そんな男の様子を気にした素振りも見せず、彼女は口を開いた。
「終りを司る闇の神霊は、何よりも優しかった」
唐突に語り始めた内容が理解出来ない以上に、男は言い知れない不安が膨らむのを感じていた。
「だって私の願いを聞いて、終わりかけた時を止めてくれたのだから」
優しく語られる言葉。だがその内容は無視する事の出来ないものがあった。
「どういう、ことだ」
「以前からお前は言っていたじゃないか。ちっとも成長しませんね、と。育ち盛りの癖に、と。私は怒ったふりをして誤魔化していたのだが、まったくお前は本当に何も知らず……知らないまま、何時も痛い所を突いてくる。その理由が、これだ」
笑顔で語られる言葉が理解出来なかった。
「私の時は、あの5年前に止まってしまったんだ。だからこれ以上成長する事も無い。私の時計の針は、あのときから止まったんだ」
5年前と言われて思い当たることが、たった一つだけあった。
5年前。
彼らがまだ、無邪気に過ごせていた最後の時間だった頃の話だ。
彼女の存在を疎ましく思っていた貴族の一派が、彼女を襲った事件があった。
そのとき彼女は命も危ぶまれるほどの大怪我を負ったのだが、奇跡的に回復した事があったのだ。
その当時、偶然か彼は彼女の傍らにいなかった。傍らにいれば結果は変わっただろうか、それとも一緒に殺されていただろうか。
後悔しても、今更どうしようも無かった彼にとっては苦い思い出だった。
そのときの事を思い出し顔をゆがめる男に、彼女は小さく呟いた。
「あの時、な。あいつらが本当に排除したかったのは、お前だったんだよ」
その言葉に、彼は彼女の顔を凝視する。
「私があいつらの要求をのまないのは、近くにいるお前のせいだ。あいつらはそう考えたから、お前を排除しようと動き出したんだ。だからあの時、私はお前を遠ざけた。この事を知っているのは今では私一人だけだ。その当事者達は皆死んだからな。そして私も死に掛けた。そのときだ。神霊が現れたのは」
どこか内緒話をするかのような雰囲気に、彼は戸惑いを覚えた。
「彼の神はおっしゃった。何を望むか、と。何故と問うと、私の強い想いに引き寄せられて来た、とおっしゃった。お前の強い想いは輝かしいから気まぐれを起したのだ。そう言われた。だから私は望んだのだ。生きる事を。進み続ける事を」
何故今になってそんな話をするのか。
「ふふ。お前を遠ざける理由なんて、最初は至極単純だったのだがな。今度はこの秘密を知られるのが怖くて遠ざけた。そして今ではお前を遠ざけすぎて、結局こんな事になってしまった」
そう言ってやれやれ、と言わんばかりに肩をすくめる。
逆に男は、初めて聞かされる内容に顔をしかめた。未だに信じられないからだ。
「そんな顔をしたお前を見たのは初めてだ。ふふっ、最後にいいものが見られた」
語る内容に反して、彼女の様子はどこまでも無邪気な少女のようだった。
「そんな話、一度も聞いた事が無いぞ」
「ふふっ、私も初めて体験した。だって闇の神霊は、死を司るとても恐ろしい存在だと言い聞かされ続けてきたのだからな」
「冗談にしても酷すぎる」
その言葉には彼女も苦笑を浮かべ、そして小さく「そうだな」と言った。
「私の時を終わらせる条件はね、本当に簡単なんだ。私が立ち止まるとき。ただそれだけなんだ」
男には言われた言葉の意味がとっさには分からず、呆けたように彼女を見つめた。
「神は言った。何かに、誰かに阻まれ、そして敗北する。そんなことでは無い、と。心が諦め立ち止まってしまった時、それが私の終着点となるだろう。そう教えてくれた」
男は信じられない思いで目を見開いたまま、ただ語り続ける彼女の姿を見つめる。
「だから私は、どんな事があっても立ち止まるわけにはいかなかったんだ」
信じられない思いのまま、半ば愕然としながら話を聞いていた。
つまり彼がした事は、彼の望みは……。
「でも、やっぱり私を立ち止まらせるのは……お前だったな」
こちらを振り返りどこか寂しそうに呟いた瞬間、彼女の身体が突然崩れ落ちる。まるで糸が突然切れた人形のように。
彼は慌ててその身体を抱きとめた。
抱きとめた体から何かが抜け落ちていく感覚があった。彼女の話はまったく信じられなかったが、それでも今はそうなのだと思えた。
ゆっくりと閉じられる瞳。それでも彼女の口は動き続けていた。
「お前が私を憎んでいたのも知っている。私を恨んでいた事も。それでも、お前は私のそばに居てくれた。それだけで良かった。そう思っていた、はずなのにな」
流れ出る何かと共に紡がれる言葉。いや、その身の内に抱えていた何かを、言葉に変えて伝えているようにも思えた。
言葉を止めさせたかった。だがそんな事をすれば、本当に欲しかったものが得られない気がしていた。
「私は欲張りだ。お前が離れて、私に敵対して。それでもよかった。私を見てくれている。それだけで、よかったと思って……でも、ずっと言いたかった、言いたくて、言えなかった言葉が……あるんだ。私はお前が……お前を……ずっと…………」
愛していたよ
最後の一呼吸と共に紡がれた言葉。
「おい!待て、おい!!」
何かが抜けてしまった体。
それまで支えていた時と違い、その手にかかる重みが増していた。
微笑を浮かべたまま目を閉じた彼女の姿は、まるで眠っているかのようだ。かつて見た彼女の姿のままの。
――――血に濡れる前の、幼い無邪気な時分のままに。
「お前は、いつもいつも……勝手なんだよ」
呆然とした呟きしか、でなかった。
この戦いで、数多くの仲間が傷つき倒れていった。
幼い時分には、彼女の無茶な要望に振り回され続けて、恨み言を呟いたのは数回では収まらないほどだ。
確かに彼女の言葉どおり憎んでいた時期もあった。恨んでいた事も無かったとは言わない。
だがそれ以上に、彼はただ止めたかっただけだった。
以前の彼女は横暴で無鉄砲で無理や無茶ばかり言ってくる女だった。それでもその内面は優しくもあり、涙もろくもあり、そして愛しい存在だった。
事故の後、彼女の様子が豹変した。
それは驚きと共に、周りからは頼もしいと受け入れられるようになっていた。
逆に彼はそんな彼女の姿が受け入れられず、そして遠ざけられ、結局対立する立場に立った。
でもそれは、こんな終わり方をするためじゃなかった。
冷たくなってゆく彼女の身体を、力を込めて抱きしめる。
だがその身体にぬくもりが伝わることなく、返ってくるのは熱の抜けてゆく感覚だけだった。
涙があふれる。
たったの一言すら、言葉を返せなかった。
一番伝えなければならない言葉だったのに。伝えなければいけなかった相手だというのに。
「おまえは、いつも、何時も……自分勝手で、前しか見ずに突き進む。そんなお前を、追いかける身にもなってみろよ」
返ってくる返事は無い。
「いつも俺はお前を追い続けてきたんだ。それがようやく横に並び立てるぐらいに、なったってのに……」
男はただ一人、物言わぬ躯を抱きしめたままつぶやき続けていたが、今更ながらも言い訳を口にする自分の卑怯さに思わず口を閉じる。
溢れ続ける涙で視界がにじんでも、彼女の微笑みだけはその目にしっかりと焼きついた。
どれ程手を伸ばしても届くことの無かった、触れられなかった彼女の髪に触れる。
そして冷たくなってゆく頬に手を滑らせる。
何度も、何度も。
「答えはずっと用意していたんだ。していたのに……勇気が無くて…………それでも、俺は…………どんなに憎んでも、恨んでも……それでも尚、愛していたよ。愛しているんだ」
漸く口に出来た本心。
愛しい存在をようやくその腕に抱きとめられたのに、欲しいものはもう永遠に得られない。
以前のように彼女の無茶に振り回されることも、明るい笑い声をあげる姿を見ることも、名前を呼んでもらうことも…………。
永遠に無いのだ。
微笑の浮かんだ唇に、そっと口付けを落とす。
愛しているよ
あふれる涙が彼女の頬を打つ。
他に誰もいない場所で、ただ一人の男の慟哭が響き渡った。
血塗られた王女の物語はここで終りを告げ、後にこの騒乱に満ちた世界を平定した王者の物語がここから幕を開けた。
―◆≪◇≫◆―
後に彼はこの国の動乱を平定し、新たなる王としてたった。
だが彼は生涯、妻を娶る事は無かった。
情勢が安定して後、彼は何も語る事もせず王位を優秀な配下に譲った。
その後一人、かつて過ごしたといわれる場所に居を移しそこで隠遁生活を送ったそうだ。
そして彼はなに一つ語ることなく、ただ静かに没した。
後の人は語った。
生涯彼の胸元には、常に紅の髪の入ったペンダントが揺れていた、と。
これが後に『悲劇の王女』と『沈黙の王』と呼ばれた二人の、語られる事の無かった物語である。
力尽きた……。