鏡の中の機械
すいません。
髪結が抜けてたので書き足しました。
最初に知った重さは、肩ではなく、首だった。
夜明け前の更衣の間は、墨を溶かしたように暗く、蝋燭の火だけが赤く揺れている。
少女は、まだ一度も自分の足で動いていなかった。
立たされ、腕を上げさせられ、息を吐けと言われて吐いた。それだけだ。
帯を締める者がいる。
襟を重ねる者がいる。
裾を整える者がいる。
誰も口を利かず、誰も少女の顔を見ない。絹の擦れる音と金具の触れ合う小さな音だけが、よく油を差された歯車のように、淀みなく噛み合っていく。
一枚、また一枚。
重ねられるたびに、少女の身体は少しずつ、少女のものでなくなっていった。
幼さの残る身体を包んでいくのは、人がまとうにはあまりにも重い、血のごとき深紅の朝服だった。天上の染料で染め上げられたかのようにどこまでも深く、眩いばかりの純金糸の刺繍が、燃え盛る炎となって衣服を狂気的に埋め尽くしていく。
「天命、我が身にあり」を天下に知らしめる、即位の朝。
鳳凰の刺繍が両袖に広がるころには、指先を持ち上げることさえ許されぬ気がした。その鳳凰の瞳に嵌め込まれた極小のルビーが、蝋燭の火を受けて、血の涙のように鋭くきらめく。
衣服に劣らぬ壮絶な儀式――髪結が始まろうとしていた。
まだあどけなさの残る少女は、鏡の前に人形のようにただ座している。その背後には、数十年のあいだ歴代の王族の髪を整えてきた老宮女と、緊張で息を詰める数人の針子たちが控えていた。
「始めよ」
冷徹な声の合図とともに、少女の背に流れる漆黒の髪が解き放たれる。
絹布のように滑らかで、一切の不純物を含まない純黒の髪。宮女は、香木から抽出した特製の髪油をたっぷりとしみ込ませた牛角の櫛を使い、一筋の乱れもなく、何度も、何度も梳き上げていく。
ここからが、少女を女帝へと変える職人たちの戦いだった。
少女の華奢な頭部に対して、まとうべき権力の象徴はあまりにも巨大だ。宮女たちは、少女自前の豊かな黒髪を芯にし、そこに細かく編み込まれた幾つもの付け毛を巧みに絡ませていく。
彼女の小さな頭の上に、まるで黒い城塞を築き上げるかのように、髪は高く、横へと大きく、誇張されたシルエットで結い上げられていった。一針、一針、黒い絹糸で髪の束が固定されるたび、少女の頭部には物理的な重みが足されていく。髪が完璧な対称性を保って結い上げられると、仕上げに純金製の簪が何本も容赦なく突き刺された。
そして、最後の部品が運ばれてくる。
四人の宮女によって、ずしりと重い純金の鳳冠が頭上へと載せられた。
首の骨が軋み、視界が一瞬、白く揺れる。
額の前で真珠のすだれがかすかに鳴った。
焚きしめられた薫香の煙が、鼻の奥にまとわりつく。
「動かれませぬよう」
背後で、しわがれた声がした。ほかの女官たちと同じ、何の色もない声。
ただ、冠の後ろを留める指だけが、ほんの一瞬、少女のうなじに触れて、離れた。
少女は答えなかった。
鳳冠には、何十羽もの金鳳が複雑に絡み合う意匠が施されていた。何百粒もの真珠が額の前に幾重ものすだれとなって垂れ下がり、わずかな動きにも、かすかに音を立てる。
少女は首をまっすぐに固定したまま、ゆっくりと鏡へ向き直った。
鏡の中には、深紅と黄金に包まれた少女帝がいた。
真珠のすだれの奥いる顔は、微動だにしない。重厚に結い上げられた黒髪と、黄金の鳳冠も、左右に垂れた真珠も、寸分の狂いなく整っている。そこに映っているのは、王座にふんぞり返るにふさわしい、完璧な皇帝だった。
その質量に頭を垂れることを許されない少女は、鏡の中の、冷酷なまでに美しい『機械』となった己を、ただ静かに見つめ返していた。
「――終わりました、陛下」
一歩。腰元の幅広の帯から垂れる黒曜石と金の玉佩が、硬質な音を立ててぶつかり合う。
彼女の動きに従って、最も激しく舞うのは大袖だ。床に届かんばかりの広大な袖は、回廊を吹き抜ける冷たい風をはらんで大きく膨らみ、まるで天を覆う巨大な翼のように翻る。
袖口に刺繍された鳳凰は、光の角度が変わるたび、ある時は燃え盛る業火のように赤く、ある時は冷徹な王者の輝きを放ちながら、今にも天へと羽ばたくかのように躍動を繰り返した。
二歩。頭上の鳳冠から垂れ下がる真珠のすだれが、微かに、しかし規則正しくシャラシャラと鈴鳴りをあげる。
衣服そのものがひとつの巨大な儀式となり、圧倒的な質量となって回廊を支配していく。少女という柔らかな肉体は、この重厚な赤と金の檻の中に完全に覆い隠され、ただ「動く至高の権力」そのものとなって、冷徹に、一歩ずつ前へと進んでいく。
少女は歩数を数える。数えていなければ、足の運びを忘れてしまいそうだった。
玉佩が鳴り、すだれが鳴る。二つの音は寸分の狂いもなく重なり、やがて少女自身にも、どちらが己の身体から出ているのか分からなくなっていく。
背後からは、その長い裾を捧げ持つ老女官の足音が、かすかに続いていた。
ただ、その真珠のすだれの内側で――紅を差した唇の端が、ほんの少しだけ、誰にも見えない角度でゆるんだ。
遮るもののない朝陽が、金の冠を白く射抜いた。
少女帝が呼吸をし、胸元がわずかに上下するたびに、黄金の羽がざわめき、周囲の空気をちりちりと焦がすような眩い光を乱反射させた。




