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飼い猫令嬢は愚かな家族に牙を剥く

掲載日:2026/05/10

 書斎に呼ばれた理由は、入った瞬間にわかった。


 父と兄が、机の上に盤を広げている。最近王都で流行りの盤遊びで、黒と白の石を挟んでひっくり返す。二人とも真剣な顔をしていた。うちの家の経営会議より真剣な顔をしていた。


 父が黒石を置く。盤の上の白石が、ばたばたと黒にひっくり返った。

「よし」

 小さくガッツポーズをしている。四十二歳である。


 で、話はなんだ?そう思っていると。

「ミーニャ、そろそろお前もいい相手を見つけてきたらどうだ」

 盤から目を離さないまま、父が言った。


 なるほど、そういうことか。私は一秒で察した。王都へ行け、家の顔で婚約相手を探してこい、つまりそういうことだ。

「では、王都へ行ってきます」

「ああ」

 父は満足そうに、自分の黒石を手元に戻し始めた。次の勝負の準備である。会話はそれで終わりだった。


 私も兄も、特に何も言わなかった。

 一礼して、書斎を出る。廊下を歩きながら、私はひとつだけ考えていた。

 正直都合がいい。この家を出るのに、これほど呆気ない理由で良かったのだろうか。

 まあ、いいや。



 母の部屋は、いつも少し花の匂いがした。

 家を出る前に、ここでやりたいことが一つだけある。窓際で刺繍をしていた母は、私の顔を見て柔らかく笑った。

「ミーニャ、どうしたの?」

「これ、お母さんに」

 封筒を差し出す。母は首を傾けながら開いて、中を見て、目を丸くした。

「……帝国一周?旅行券?」

「前から行きたいって言ってたでしょう。私が王都へ行くあいだ、せっかくだから」

「でもこんな高いもの、どこで——」

「お土産話、たくさん聞かせてください」

 遮るように言うと、母はしばらく封筒と私の顔を交互に見ていた。


 それから、困ったように笑った。

「あなたって昔から、こういうことだけは急なんだから」

「急じゃないですよ。ずっと考えてました」

 母はもう一度、券を眺めた。今度は少しだけ、目が潤んでいるように見えた。

「……ありがとう、ミーニャ」

「いってらっしゃい、お母さん」

 私は微笑んで、部屋を出た。

 廊下に出た瞬間、表情を戻す。さて、一ヶ月だ。王都で一ヶ月。やることは山ほどある。







 王都は、思っていたより五割増しで煩かった。


 大通りには露店が並び、御者が怒鳴り、どこかから焼いた肉の匂いがしてくる。

 地方の町とは人の密度が違う。押されて流されて、気づいたら全然違う方向に歩いていた。


 向こうから歩いてきたおじさんにぶつかりそうになり、露店のおばさんに林檎を勧められ、なぜか子供に風船を渡された。何も買っていないのに手ぶらではなくなっていた。


 王都とはそういう場所らしい。


 少し路地を外れると、空気が変わった。石畳が綺麗に磨かれ、馬車の装飾が急に豪華になる。行き交う人の服も、立ち居振る舞いも、さっきまでとは別世界だった。貴族街というやつだ。

 二年前に来たときも、この落差に少し驚いた記憶がある。あのときは父に命じられた税の申告で、名も知らない従者を何人も連れて、右も左もわからないまま石畳を歩いた。今思えばずいぶん心細かった。


 今回は一人だ。身軽でいい。


 私は商業区画へ向かった。道はもう覚えている。というより、頭に地図が入っている。二年前にずいぶん歩き回ったせいだ。あのとき王都を歩き回っていなければ、今日ここに来る理由も、たぶんなかった。


 目的地はすぐ見つかった。


 二年前はまだ更地だった区画に、周囲の建物を頭一つ分は超えた石造りの商会がどんと構えていた。看板には商会の名前。正面の扉は分厚い木製で、両脇に黒服の男が二人、仁王立ちで立っている。

 大きくなったな、と思った。他人事みたいに。


「失礼、こちらは関係者以外の立ち入りはご遠慮いただいて——」


 新入りらしい黒服が、慣れない様子で前に出てきた。背筋は伸びているが、声が少し上擦っている。頑張っているな、とは思った。

 止められるとは思っていなかったが。

 その瞬間、隣に立っていたベテランらしい男の顔色が、音を立てて変わった。正確には音はしないが、そのくらいの勢いで変わった。

 こちらを向いて目を点にし、頬が引きつり、次の瞬間には膝が折れかけていた。また新入りの方に振り向き、


「お、お前、何やってんだ——」

「は? いや、規則では——」

「商会長様っ!! 失礼いたしましたああ!!」


 ベテランの声が貴族街の大通りまで届きそうだった。新入りが固まった。通りすがりの人が二、三人こちらを振り返った。


 私は小さくため息をついた。

 そんなに大きい声を出さなくてもいい。大層な肩書きに見合う努力を私はしていないのだから。




 監察官室は、商会から歩いて十分ほどのところにあった。まあ商会達のほうが御用になるからね。

 受付で名前を告げると、しばらくして奥から若い男が出てきた。書類を脇に抱えて、少し急ぎ足で。

「お待たせしました、ミルフォード家の——」

 そこで男が止まった。

 私の顔を見て、二秒。

「……お久しぶりです」

 覚えていたらしい。正直、覚えているわけがないと思っていた。一回しか会っていないし、あの頃より随分髪が伸びたから。我ながら別人に近い気がする。


「ご無沙汰しております」

「税の申告は三年毎で良いはずですが……今年はまだ、期日でも——」

「これをお渡しに来ました」

 私は鞄から書類を取り出して、机の上に置いた。

 一枚。二枚。三枚。

 ルーカスが首を傾けた。まだ笑顔だった。

 五枚。八枚。十枚。

 笑顔が少し固まってきた。

 十三枚。十五枚。十七枚——

「あの」

「もう少しあります」

 二十枚。


 ルーカスの顔から表情が消えた。机の上の書類の山を見て、私の顔を見て、また書類を見た。

「……これは」

「父の話です。詳しくは読んでいただければ」

 ルーカスはしばらく黙って、一番上の書類に目を落とした。

 数秒後、ゆっくりと顔を上げた。さっきまでと、目の色が違った。

「……座っていただけますか、ミルフォード様」

「ミーニャで構いません。長くなりますので……」




 書類の山を一通り読み終えたルーカスは、しばらく黙っていた。

 窓の外を見ているのか、何かを考えているのか、判断がつかない顔だった。私は黙って待った。急かす理由もない。お茶でも出てくれば飲んだのだが、出なかった。監察官室というのはそういう場所らしい。

「……整理させてください」

 ルーカスが口を開いた。書類を手に取りながら、静かな声で続ける。

「ミルフォード男爵の違法行為については、証拠が揃っています。脱税、密輸、賄賂——どれも立件できる内容です」

「はい」

「ただ」

 ルーカスが私を見た。

「金山の件ですが。ミルフォード家の経理担当として、あなたには資産の管理権限がある」

「はい」

「その権限を使って、金山の売却を進めるということですね」

「はい」


 ここで少し説明が必要だと思う。

 ミルフォード家の金山は、父がまだ商人だった頃に手に入れた資産だ。正確には、当時の取引相手が没落したときに二束三文で買い叩いた、というのが正しい。父らしいやり方だと思う。

 その金山が、ミルフォード家の収入の柱になった。採掘した金を売り、その利益で土地を買い、人脈を作り、賄賂を配り——気づけば地方の有力商人が男爵位を手に入れていた。金山がなければ、今頃ミルフォード家など誰も知らない名前だっただろう。父もそれをよく理解していた。だからこそ金山だけは私に管理させた。信頼しているわけではない。私が一番有能だったから、それだけだ。

 そしてその管理権限が、今日ここで効いてくる。

 問題は買い取る資金だが——これも説明が必要だ。


 二年前、初めて王都に来たとき、私は一つのことに気がついた。貴族の屋敷に招かれるたびに、人々は食事の後で手持ち無沙汰になる。話すことも尽き、酒も飽き、かといって帰るには早い。そういう時間が必ず発生する。

 そこで私が考えたのが、リバーシだ。

 黒と白の石を交互に置いて、相手の石を挟んでひっくり返す。それだけの遊びだ。単純だが、奥が深い。誰でもすぐ覚えられて、しかし極めようとすると終わりがない。貴族の長い夜を埋めるのに、これ以上向いた遊びはなかった。


 私は設計図を引いて、腕のいい職人に盤と石を作らせた。特許を取り、職人と契約を結び、貴族向けに売り出した。値段は少し高めに設定した。高いほうが貴族は有り難がる、というのは経験則だ。

 結果は予想以上だった。王都の貴族街から火がつき、今では帝国中に広まっている。ちなみに父と兄も毎日遊んでいる。自分の娘が作ったとは露ほども知らずに。それはそれで少し愉快だった。


 利益は全て商会の資金に回した。部下を雇い、拠点を整え、二年で百人規模の商会になった。そしてその資金が、ちょうどミルフォード家の金山を最低価格で買い取れるギリギリの額に達していた。

 計算通り、と言いたいところだが、正直ギリギリだった。もう少し遅ければ足りなかった。

 まあ、間に合ったのでよしとする。

 ルーカスは少し間を置いた。

「売却先は」

「ミセス商会です」

 一拍の間があった。少し長めの一拍だった。

「……ミセス商会の商会長は」

「私です」

 沈黙が落ちた。

 ルーカスは書類を見た。私の顔を見た。書類を見た。私の顔を見た。また書類を見た。

「つまり」

「はい」

「ミルフォード家の経理担当ミーニャさんが」

「はい」

「ミセス商会の商会長ミーニャさんに」

「はい」

「金山を売る」

「はい」


 ルーカスはゆっくりと書類を机に置いた。天井を見た。それから窓の外を見た。それから私を見た。

「合法ですか、これは」

「調べていただければ」


 ルーカスはまた天井を見た。何かをぶつぶつと呟いているようだったが、聞き取れなかった。聞き取らなくてよかったと思う。

 しばらくして、深く息を吐いた。

「……なるほど」

 それだけ言った。顔には何とも言えない表情が浮かんでいた。困っているのか、感心しているのか、あるいはその両方なのか。

「他に何かありますか、ミーニャさん」

「もう一つあります」

 鞄から、また書類を取り出した。

 ルーカスの目が、かすかに泳いだ。

「……まだあるんですか」

「トンネルの件です」

 ルーカスは書類を受け取った。しばらく黙って読んでいた。読みながら、眉が少しずつ上がっていった。

 やがて顔を上げて、静かに聞いた。

「……こちらも」

「はい」

「ミルフォード家経理担当の、権限ですか」

「はい」

 またしばらく沈黙があった。今度は長かった。

「……なるほど」

 ルーカスは二度目の「なるほど」を言った。一度目より若干声が低かった。

 監察官というのは大変な仕事だな、と私は思った。







 父が逮捕されたのは、ミーニャが王都へ発って十日後のことだった。

 朝食の最中だった。扉を叩く音がして、使用人が青い顔で飛び込んできた。監察官が来ている、と。

 バルトは最初、意味がわからなかった。

 監察官? うちに? 何の用だ。そう思いながら玄関に出ると、若い監察官が書類を片手に立っていた。表情一つ変えず、淡々と告げた。脱税、密輸、賄賂——読み上げられる罪状の数が、バルトの理解を追い越していった。

 父は引っ立てられた。朝食の皿がまだテーブルに残ったまま。


 バルトは玄関に立ち尽くした。

 ……何が起きた?

 とりあえず金で何とかなる、とバルトは思った。うちには金がある。金山がある。そういう家だ。弁護士を雇い、然るべきところに然るべき額を渡せば、父は帰ってくる。そういうものだ。

 実際、一週間もかからず父は釈放された。金の力は偉大だった。バルトは少し安堵した。


 しかし、それからがおかしかった。

 物が届かなくなった。

 最初は食料だった。いつもの業者が、急に取引を断ってきた。理由は濁された。次に日用品。それから燃料。気づけば、屋敷に出入りしていた業者が軒並み姿を消していた。

 使用人を走らせて別の業者を当たらせたが、どこも断った。理由はどこも同じだった。濁された。

 バルトは首を傾げた。

 なぜだ。金なら払う。うちはミルフォード家だ。地方とはいえ男爵家だ。なぜ誰も売らない。

 ミーニャに聞こうとした。あいつなら何か知っているかもしれない。帳簿も在庫も、屋敷のことは全部あいつが把握していた。

 しかし連絡がつかなかった。

 王都の宿に使いを出したが、そんな客は泊まっていないと言われた。婚約者探しに行ったはずなのに、どこにいるのかもわからない。


 バルトは苛立った。

 全く、肝心なときにどこをほっつき歩いているんだ。あいつは昔からそうだ。黙って淡々と仕事をするくせに、何を考えているのかわからない。まあ、いなくても困らない。俺がいる。

 ——本当に困ってきたのは、その三日後だった。

 金山の管理権が、すでに他所に渡っていると知ったのは。

 バルトは書類を三回読み直した。四回目で、ようやく意味を理解した。

 売却済み。ミルフォード家経理担当の権限により。

 経理担当。

 ……ミーニャ。

 バルトは立ち上がった。椅子が倒れた。気にしなかった。


 とにかく物資だ。金山のことは後でいい。今は物が入らないことのほうが問題だ。屋敷の備蓄はもう底をついてきている。使用人たちの顔色も悪くなってきた。

 王都で一番大きい商会に直接行けばいい。そこなら断らないはずだ。いや、断らせない。こちらはミルフォード家だ。

 バルトは馬車を呼んだ。

 王都まで、半日かからない。




 王都で一番大きい商会は、すぐわかった。

 周囲の建物を頭一つ分は超えた石造りの建物。正面の看板には『ミスター商会』と書いてある。黒服の男が二人、仁王立ちで立っている。さすがに大きい、とバルトは思った。これだけの規模なら、断る理由などないはずだ。

 ちなみに最初はミセス商会という最近急に名前を聞くようになった商会に当たろうとした。あの流行りのリバーシとかいう盤遊びで一気に名を上げた商会で、規模はそこそこあると聞いていた。しかし連絡を取ろうとしたら、これも繋がらなかった。商会長が不在らしい。

 全く、肝心なときにどこも頼りにならない。

「ミルフォード家のバルトだ。商会長に取り次げ」

 黒服の一人が頷いて、中に消えた。バルトは腕を組んで待った。

 しばらくして、奥から男が現れた。

 年は自分と同じくらいか。黒い仮面をつけ、髪をきっちりと後ろに撫でつけている。服は仕立てのいい黒で、動きに一切の無駄がない。

 商会長、らしかった。

「お待たせしました」

 声は穏やかだった。笑みを浮かべたまま、バルトの前に立つ。

「ミルフォード家から、わざわざご足労いただけるとは。どのようなご用件でしょうか」

「物資を卸してくれ。食料、日用品、燃料——一式だ。金は払う」

 言いながら、バルトは相手の顔を見た。


 その瞬間だった。

 ほんの一瞬。笑みの奥で、何かが動いた。目ではない。もっと奥の、感情の芯のような部分が。それは嫌悪とか怒りとか、そういう言葉では追いつかない何かだった。

 しかしそれは本当に一瞬で、次の瞬間には元の笑顔に戻っていた。

「申し訳ありませんが」

 商会長は静かに言った。

「弊社はミルフォード家との取引は行っておりません」

「……は?」

「以前より、そのように定めております」

 バルトは眉をひそめた。

「理由を聞かせろ」

「社の方針です」

「方針? 金なら払うと言っている。うちはミルフォード家だぞ」

「存じております」


 商会長は笑顔のまま、一歩も引かなかった。

 バルトは苛立った。こんな経験は初めてだった。金を出すと言って断られたことなど、これまで一度もなかった。

「……いくらだ。値段をつけろ」

「値段の問題ではございません」

「ならなんだ」

「方針の問題です」

 会話が同じところをぐるぐると回り始めた。商会長の笑顔は崩れない。バルトの苛立ちだけが積み上がっていく。

 やがてバルトは吐き捨てた。

「……覚えておけ」

 踵を返して、ミスター商会の扉を出た。

 馬車が遠ざかっていく音を確認してから、商会長——ルーカスは応接室の扉を閉めた。


 鍵をかけた。

 仮面を外した。

 そして、きっちりと撫でつけていた髪を、両手でぐしゃぐしゃとかき乱した。バサバサと、形が崩れていく。

「はあ……」

 椅子に座った。深く。背もたれに体を預けて、天井を見た。

「何なんだあの男は」

 誰もいない部屋に向かって、ルーカスは言った。

「父親といい兄といい、あの家はどうなってるんだ。脱税に密輸に賄賂、挙げ句に金山まで持っていかれて、それでもまだ物資を買いに来るのか。図太いにも程がある」

 天井に向かって続ける。

「しかも態度がいちいち癪に障る。うちはミルフォード家だぞ、じゃないんだよ。そのミルフォード家が今どういう状況か、わかって言ってるのか。わかってないんだろうな。だから来るんだろうな」

 ため息をついた。

「全く……」

 しばらくそのまま天井を見ていた。

 やがてルーカスは、ぽつりと言った。

「……ミーニャさんは今頃何をしているんだろう」

 誰も答えなかった。

 ルーカスはもう一度ため息をついて、乱れた髪をまた後ろに撫でつけ始めた。




 ミスター商会から帰って数日が経った。

 物資の件は相変わらず解決していない。父は苛立ちを隠さず、屋敷の中をうろうろしていた。使用人たちは父の顔色を見ながら、こそこそと動いていた。

 バルトは気晴らしに父をリバーシに誘った。

 最近この遊びだけが、この屋敷で唯一まともに機能していることだった。

「よし、もらった」

 バルトが黒石を置いた。父の白石がばたばたとひっくり返る。盤の上が黒で埋まっていく。バルトは少し気分が良くなった。こういうときは勝てるものだ。

「……くそ」

 父が舌打ちをした。

「もう一局だ」

「いいですよ」

 バルトが石を並べ直していると、父がまた負けた局のことを思い出したのか、急に机を叩いた。盤がずれて石が散らばった。

「だから言っただろう! あそこはそう置くんじゃない!」

「今更言われても」

「うるさい! もう一回だ!」

 父が石をかき集め始めた。その手が止まった。

 父が顔を上げた。

 バルトも気づいた。

 ……音がする。

 かきん。こきん。かきん。こきん。

 規則正しい、硬いものを叩くような音だった。遠い。しかし確実に聞こえる。地面の下から、響いてくるような。

「……何だ、あの音は」

 父が眉をひそめた。

「さあ」

 バルトも首を傾げた。ここ数日、たまに聞こえる気がしていたが、気のせいだと思っていた。


「使用人を呼べ」

 すぐに使用人が来た。音の出所を調べさせた。半刻後、使用人が青い顔で戻ってきた。

「あの……山の方から、でございます」

「山?」

「は、はい。どうやら……工事、のようで」

「工事? 誰が許可した」

 使用人は震えながら、一枚の書類を差し出した。

 父が引ったくるように受け取った。読んだ。眉間に皺が寄った。もう一度読んだ。

「……バルト」

「何ですか」

「お前、これを見ろ」

 渡された書類を、バルトは読んだ。読んだ。もう一度読んだ。

 王都直通トンネル工事請負契約書。発注者、ミルフォード家。経理担当者の署名捺印済み。工事はすでに帝都側から開始されており、現在急ピッチで進行中。

 経理担当者。

 バルトはその署名を見た。

 見覚えのある字だった。


「…………ミーニャ」

 父が書類を握りしめた。皺がよった。

「止めろ! 今すぐ工事を止めさせろ!」

 使用人がまた震えながら口を開いた。

「そ、それが……契約書によりますと、工事を中断した場合、違約金が——」

「いくらだ」

 使用人が数字を読み上げた。

 父の顔から血の気が引いた。

 バルトの顔からも引いた。

 かきん。こきん。かきん。こきん。

 音は続いていた。地の底から、規則正しく。まるで何かを数えるように。







 丘の上から、金山がよく見えた。

 秋の風が吹いていた。草が揺れて、空が高くて、遠くに山が連なっている。なかなかいい景色だ。王都に来てから、こういう場所に来る余裕がなかった。今度ここでお茶でも飲もうかと思った。


 そしてその絶景の手前に、採掘場がある。

 小さな人影が何人も動いていた。荷を運び、土を掘り、汗を拭う。監督官が怒鳴り、人影が縮こまる。過酷な現場だ。私がかつて帳簿で見ていた違法労働の現場が、今は正式な労働の場として機能している。皮肉なものだ。

 その中に、見覚えのある二人がいた。

 一人は太った体を持て余しながら、重そうに荷を担いでいた。十歩歩くたびに立ち止まって、肩で息をしている。あの体で採掘場はきつかろう、と思った。思っただけだった。

 もう一人は日に焼けた顔で、ぼんやりと穴を掘っていた。掘り方が明らかに効率悪い。あれでは一日かけても大した深さにならない。思わず指導したくなったが、やめた。私はもうミルフォード家の経理担当ではない。

 父と兄だった。

 私はしばらく、その景色を眺めた。

 怒りはなかった。悲しみも、たぶんない。憐れみも特にない。ただ、秋の風が気持ちよかった。


「ニャハ〜」


 思わず声が出た。

 絶景だった。

 十六年分の帳簿整理。在庫管理。使用人統率。交渉補助。仕入れの確認。不正の隠蔽。違法労働の記録。一度も褒められず、一度も感謝されず、小遣いすら一銭ももらえなかった仕事の数々が、今この景色に結実していると思うと、言葉にならない何かが胸の中で弾けた。

 最高だった。

 風がまた吹いた。草が揺れた。

 父が担いでいた荷を落とした。監督官が飛んできて何か怒鳴った。父が言い返そうとして、さらに怒鳴られた。黙った。

 兄は穴の深さが足りないと言われて、また掘り直していた。スコップの使い方が明らかに間違っている。このままでは日が暮れても終わらない。

 私は口元を押さえた。

 笑ってはいけない、とは思った。思ったが、無理だった。

 風がもう一度吹いた。今度は少し強かった。髪が揺れた。空が青かった。採掘場から、父の怒鳴り声と監督官の怒鳴り声が重なって聞こえてきた。

 やはり絶景だった。

 私は十分ほどそこに立っていた。十分で十分だった。

 踵を返す。丘を下りながら、頭の中を切り替える。

 やることはまだある。

 母が、帰ってくる。




 馬車が屋敷の前に止まった。

 正確には、元屋敷だ。今はミセス商会の管理下にある。表札だけがまだミルフォード家のままだった。そのうち替える。

 扉が開いて、母が降りてきた。

 旅の荷物を持って、少し日に焼けた顔で、きょろきょろと周りを見回している。そして私の顔を見て、ふわりと笑った。

「ただいま、ミーニャ」

「おかえりなさい、お母さん」

 母は周囲を見渡した。使用人の顔ぶれが変わっている。表札以外の看板が替わっている。庭の手入れが妙に行き届いている。

「……随分、変わったわね」

「少し片付けました」

「そう」

 母はもう一度私を見た。それから小さく笑った。

「旅、楽しかったわよ。帝国の東側って、綺麗なのね。温泉もあって」

「それは良かったです」

 私も笑った。

 少し間を置いた。

「……お母さん」

「なに?」

「社交界で、ずいぶん動いてくださったそうで」

 母の表情が、一瞬止まった。

 私はにこにこしたまま続けた。

「ミルフォード家の奥様が各所でお話をされていたと、複数の筋から報告が上がっています。おかげでミルフォード家の実態が貴族社会にずいぶん広まりまして。話がとても早く進みました」

「……あら」

「旅行、楽しかったですか?」

 母はしばらく私の顔を見ていた。それから観念したように、ふっと肩の力を抜いた。

「……楽しかったわよ。本当に」

「温泉は?」

「入ってないわよ」

「ですよね」

 お互い、しばらく黙っていた。風が吹いた。母の髪が揺れた。

 母はぽんと私の頭に手を置いた。

「……頑張ったわね、ミーニャ」

 その一言だけだった。

 私は何も言わなかった。言わなくてよかった。

 どこからともなく、風に乗って声が聞こえてきた。

 遠い。でも聞き覚えがある声だった。

「だからお前のせいだと言っているんだ!」

「何が俺のせいですか! 親父がちゃんと管理しなかったからでしょう!」

「うるさい! お前が甘やかされて育ったから——」

「甘やかしたのは親父じゃないですか!」

 金山の方角から、父と兄の声が風に乗って流れてきた。仲良く口論しているらしかった。

 母が呆れたような顔をした。

「……相変わらずね、あの二人」

「元気そうで何よりです」

「そうね」

 母はもう一度、くすりと笑った。

 私も笑った。

 秋の風が、また吹いた。







 翌日、ミスター商会から招待状が届いた。

 便箋一枚、簡潔な文章だった。『本日、ご都合よろしければお越しください。商会長』

 商会長。

 私はその三文字を見て、少し考えた。兄を追い返した、あの仮面の男か。何の用だろう。まあ、行けばわかる。

 ミスター商会に着くと、黒服が恭しく出迎えた。奥の応接室に通されて、革張りの椅子に座って待った。お茶が出た。


 扉が開いた。

 商会長が入ってきた。

 

 私は固まった。

 髪が後ろに撫でつけられていた。オールバックだった。顔は、知っている顔だった。というか、知っている顔すぎた。

 そこから、監察官であるはずのルーカスが出てきたのだ。ルーカスは扉を閉めながら、こちらを見た。その顔には「どうだ」とでも言いたげな、隠しきれない得意げな色があった。じゃじゃーん、という効果音が似合う顔だった。

 私はお茶を一口飲んだ。

「お待たせしました、ミーニャさん」

「……どうぞ」

 特に反応しなかった。

 ルーカスの顔から、じゃじゃーんの色が少し薄れた。

「あの、気づいていますか」

「何がですか」

「僕のことです。」

「ルーカスさんですね」

「……それだけですか」

「それだけです」

 ルーカスは椅子に座った。少しだけ肩が落ちていた。私はお茶を飲んだ。美味しかった。

「……驚きませんか」

「驚いています」

「全然驚いているように見えないんですが」

「内心では驚いています」

 沈黙が落ちた。ルーカスはしばらく私の顔を見ていた。私はお茶を飲んだ。

「つまり」と、ルーカスが口を開いた。

「監察官のルーカスと」

「はい」

「ミスター商会の商会長は」

「はい」

「同一人物、ということに対して」

「はい」

「ミーニャさんの反応は、お茶を飲む、ということですか」

「美味しいので」

 ルーカスは天井を見た。私はお茶を飲んだ。

 しばらくして、ルーカスが仕切り直すように咳払いをした。

「本日お越しいただいたのは、ご提案があるからです」

「提案」

「ミセス商会とミスター商会、統合しませんか」

 私はルーカスを見た。真剣な目だった。

 少し、間を置いた。

「……一つ、確認させてください」

「何でしょう」

「ミスター商会は、ミルフォード家に一切物資を卸しませんでしたね」

 ルーカスの表情が、わずかに動いた。

「周辺の商会にも、圧力をかけていましたね」

「…………」

「金払いは良かったはずです。それでも、徹底的に断った」

 ルーカスは静かに答えた。

「腐敗した家門と取引する気はありませんでした」

「それだけですか」

 今度は少し長い沈黙だった。

「……それだけでは、ありません」

 ルーカスは私を真っ直ぐに見た。

「あなたが積み上げてきたものを、あの家に利用させたくなかった」

 私は何も言わなかった。

 窓の外を見た。空が青かった。

 義理はある、と思った。それは認める。

 でも。

「お断りします」

「即答ですか」

「即答です。私はミセス商会の商会長です。誰かの傘下に入るつもりはありません。対等でなければ意味がない」

「対等な統合という形では」

「規模が違いすぎます。今は、まだ」

 今は、まだ。

 ルーカスはその言葉を聞いて、少し黙った。

「……なるほど」

 私は立ち上がった。

「お茶、美味しかったです。監察官室にも出してください」

「善処します」

 扉に向かいながら、私は振り返った。

「髪型、似合いませんね」

 ルーカスは少し考えた。

「……」

 私は答えを聞かずに扉を閉めた。





 応接室に一人残されたルーカスは、しばらく扉を見ていた。髪型をさっさと払い、オールバックを溶かす。

 やがて、独り言のように呟いた。

「……今は、まだ、か」

 口元が、かすかに緩んだ。

 手に入れられなかったものは、これまでなかった。

 これまでは。

 だからこそ——どうやって手に入れようか、と思った。


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