はつひので(総集編)
こんなことを書くのは、私の本来の目的としてはだいぶかけ離れてはいるのだが、しかし、このことを書かずにはいられないと思ったので、私はこうしてこの物語を書こうと思う。これが歴史のほんの小さな出来事で、たとえ本の1行にしか満たないことだとしても、いや、本にすら載らないようなことだとしても、私にとって彼らは特別で、この世にとっても、特別なことだと思うから。
上
「私を弟子にしてください!」
紅葉の映える木の下で、1人の学生が乱れ髪の男にそう懇願した。
男は目を丸くして、先ほどまで目の前の先生と話していたことをすっかりと忘れてしまうほどだった。
「あー、申し訳ないんじゃが、ワシは弟子を取っとらんのじゃ…」
「私は!まだこの世というものをちゃんと見たことがないのです!」
男が弟子入りを断ろうとすると、学生は話し終わる前に遮るように言葉を入れてきた。
「あなたはこの日本のいろんなところを旅し、いろんなものを見てきています。そして、いつもあなたは先生に、楽しそうに旅の話をする。私は羨ましいのです!私はこの村に生まれ、この村を色々と見てきました。しかし、何も感じ取ることができない。美しさも、奥ゆかしさも趣も、この胸に感じることができないのです。」
学生の目には涙が滲んでいた。
左手の拳を胸の前で強く握り締め、
男の顔を見つめながら
胸に潜む深い苦しみを必死に話していた。
「私はあなたの見ている世界が見たい!新しい世界を見てみたい!この世の美しさというものを、この胸で感じてみたい…!」
学生の目には光があった。
頬と耳は赤く染まり、
今まで誰にも言えず苦しんでいたことを物語っていた。
それを見た男には、
その必死な姿や思いが美しく、かけがえのないものだと強く感じられた。
そして、男は微笑んだ口を開けて言った。
「わかった。見せよう!ワシの見る美しい世の中っちゅうもんを!」
光焉1027年の秋、視治は、彼が通う私塾の客、遠井兼通の弟子となった。
――――
〈その日の晩のこと〉
「いいのですか?あんなことを言って。あなたは旅をするのが好きなのでしょう?人に教えるというのはあまり好きではないのではないですか?」
視治を帰してすぐ、そこの私塾を営む松下松政が兼通に聞いた。
「あーも熱くお願いされたら断れんじゃろ。それに…あの時の彼は…、なんとも美しかった…」
松政は兼通を見てくすりと笑った。
「フフフッ、またですか。あなたはいつもそういったところに弱いですね。」
「何を言うか。誰しも美しいもんに会うたら見惚れちまうじゃろが」
兼通はそう言って、朗らかに笑った。
松政も、あきれたように、しかしどこか楽しそうに息を吐く。
「そうですね。人は皆、美しいものには弱いものです。」
兼通と松政は互いに笑い合った。
夕暮れ時、木の葉が舞い散る木の下で、2人はまるで新芽が芽吹いたのを見つけたかのように、なんとも嬉しそうに笑った。
翌日の朝、
「先生!どうぞよろしくお願いいたします!」
「おうおう、任せとき!」
兼通は視治に大きく笑ってみせた。
「遠井さん、どうか視治君をお願いします」
「松政先生、心配すんなって!ワシがついとるんじゃ。そうそう悪いことは起きんさ」
「あなただから心配なんですよ。」
その一言に、兼通は大きく肩をすくめ、
「参ったのう」とでも言いたげに笑った。
松政も、それにつられるように握った手で口元を押さえながら笑った。
そうして、視治達は松政と他の学生に見送られながら、村を後にした。
それから視治と兼通は、様々な国を渡り歩いた。村にいては決して経験できないようなことや、変わった人、その地の伝承や食べ物など、視治にとって初めてのことばかりだった。
しかし、それでも彼にはこの世の美しさというものを感じ取れなかった。
「視治、起きろ。外に行くぞ!」
「んん……え? なんですか……まだ眠いんですが……」
「おはような、視治。外じゃ、外! さっと起きろ!」
「えー……」
ある日の朝、兼通は寝ている視治を無理やり起こし、外へと連れ出した。
外はまだ真っ暗で、ヒヤリとした冷たい風が二人の体に吹きつける。
視治はあまりの寒さに、ぶるっと体を震わせた。
それとは対照的に、兼通は足取りも軽く、ぐんぐんと前を進んでいく。
「せ、先生……ど、どこ行くんですか……? こんな朝早くから、何を……」
「よし……ここじゃな」
兼通が、ふいに足を止めた。
視治は寒さに耐えきれず、両腕で自分の肩を抱くようにして身を縮めている。
「視治。これから、この山を登るぞ」
「……え?」
視治は意味が分からないという顔で、ぽかんと口を開けた。
「え、エェェェェ!? い、今からですか!?」
「そうじゃ、今から」
「この山を!?」
「うん、この山を」
「嘘でしょ…」
視治は寒さを忘れてしまうほどに愕然とした。
そうして2人は暗い中、山の中へと入っていった。
足元は見えづらく、上に上がるほど気温もさらに下がりどんどんと冷えていったが、兼通は迷いなく進んでいく。その背中は視治の不安を不思議と消していった。
「はぁ…はぁ…や、やっと…やっと着いたー!…」
視治が声を上げていった。
2人はなんとか無事に山の頂上へと辿り着いた。
空はまだ暗く、街のある方を見ても当然灯はまだついていない。
視治は膝に手を当てゼェゼェと息を切らしている。
「せ、先生…一体なんなんですか…。こんな急に山登ろうなんて…。寒いんですよ!ほんとにわけがわから…」
視治が兼通の方を見ようと顔を上げると、兼通の目が向く先から一筋の光が現れた。
その光は少しずつ上へと上がってくる。
「視治。この世っちゅうもんは、痛いことや苦しいこと、腹が立ったりモヤモヤ〜したり、誰かに言いとうても言えんことや、精一杯やっても上手くいかんこと、理不尽っちゅうもんが山ほどある。」
遠くの空に色がつき始める
「そんでこころがどうしようもならん時もある。じゃがな、そんな時、そんな自分を救ってくれるもんがある。」
口から吐く息が、
少しずつ目に見える様になってくる
「この世は皆が言うほど残酷じゃない。自分で思っているほど残酷じゃない。植物は踏まれて地面にめり込まれようが茎を強くしてまた立派に空へと向かって伸びる。」
小さな光が大きな光へと姿を変えていく。
「動物はたとえ獲物に襲われようが最後まで足掻こうとする。雨が降って濁りきった川の水も、しばらく経てば元の綺麗な川へと戻る。植物や動物、自然だけじゃない。人間も、この長い年月、どんな災害に遭おうが、戦が起きようが、飢饉が起きようが、必死に命を紡いできた。」
太陽が顔を出す。先ほどまで何も見えなかったところに光が差し掛かり、家々が浮かび上がってくる。
「そしてそれを常に支えてくれるもの。毎日一回ワシらの元に現れてくれるもの。植物も動物も、建物も人間も、川や海、森に土。全てのもんに生きる勇気を与えてくれる。それを見ると、あぁ‥生きててよかった。生きるっていいんじゃと、そう思うんじゃ。これが一番美しい時に視治に見せたかったんじゃ。」
兼通が視治の方を向く。その背の裏で太陽が少しずつ登り、光を広げていく。
「この景色を視治に送りたかったんじゃ。」
兼通がくるりと後ろを向いた
「まあ、初日の出ってやつじゃ!」
兼通は少し照れくさそうにニカっと笑う。
「はつ…ひので…」
1月1日の午前6時
太陽の光に当てられながら、
視治は初めて
「美しい」と感じた。
中
次の日の朝、視治は松下松政のもとへ戻ることにした。
「ほんまに戻るがか」
兼通が静かに問う。
「はい……先生のおかげで、私は『美しい』というものを少し感じられた気がします。しかし、先生との旅を通して、私はまだ、その美しさをより深く感じるための知識が足りないのだと思いました」
視治は空を見上げた。
一月二日の空は、青く澄み渡り、雲ひとつない。
両手を広げ、大きく息を吸い込む。
冷たい空気が胸いっぱいに満ちる。
胸の奥の迷いを吐き出すように、ゆっくりと息を吐いた。
そして、兼通の方を向く。
「先生。私は必ずここに戻ってきます。その時……また一緒に旅をしてくれますか」
にかっと笑う。
だが、その笑みはどこか引きつっていた。
強くあろうとする、少し無理をした笑顔。
兼通はそれを見て、目を細めた。
「当たり前ながや」
ゆっくりと視治の肩を叩く。
「ワシは逃げも隠れもせん。おまんが戻ってくるがを、ちゃんと待っちゅうき」
少し間を置く。
「大いに松政先生んとこで学んでこんか。悩んで、考えて、わしに食ってかかれるくらいになって帰ってこんか」
「はい!」
視治の声は、今度はまっすぐだった。
二人は笑い合う。
新年、三ヶ日。
町はまだ華やぎに満ち、人々の笑い声があちこちから聞こえる。
この穏やかな朝が、
これが最後の会話になるとは、
その空の下の誰ひとりとして、知らなかった。
それから1ヶ月した頃である。
松政の下に一通の文が届いた。
「先生!今、文が届きましたよー」
そう言って持ってきたのは塾生の楠朔弥であった。
「ありがとうございます。朔弥君。そういえば、昨日隣町の友人から菓子を頂いてたんです。台所の下の棚に置いてありますから、皆さんで食べていてください。私はこの手紙を読み終えたら行きます。」
「やった!ありがとうございます!先生も早くきてくださいね!」
「はい」
朔弥はウキウキしながら駆け足で台所へ向かった。
松政はにこりと優しく笑い、文を開いた。
少しして、朔弥が松政のところへ戻って来た。
「松政先生〜。この菓子なんですが、みんなに分けようとしたんですけど、数が合わな…」
両手に木箱を持ち、松政へと話しかけにきた朔弥は、手紙を読む松政の顔を見て息を呑んだ。
松政の手は震え、瞬き一切していなかった。
瞳は文へと向けられているはずなのに、その瞳は一切動かない。
まるで呼吸の仕方を忘れたかのように、小さく刻み刻み息を吸い込み、息を振るわせながら吐いている。
「せ、せんせえ…?」
朔弥が呼びかけても全く反応はない。
「先生…どうしたんですか!どこかお体でも悪いんですか!手紙にはどんな!?誰からですか!」
朔弥が慌てて松政の元へと駆け寄り膝を下ろす。
そうしてやっと気づいたかのように、ゆっくりと朔弥の方を向いた。
「さ、朔弥君…と、遠井さんが…遠井さんが…」
松政は朔弥の肩を強く握り必死に話し出した。
彼の目には涙が滲み、歯を強く食いしばっている。
朔弥は一体何が起きているのか分からなかった。
「と、とおい…?あ!兼通さんですか!彼は何と…」
朔弥が恐る恐る聞く。
松政は息をふーっと吐く。
「遠井兼通さん…。彼の死刑が決まりました…」
手に持っていた木箱が落ちる。
中身の菓子は箱からこぼれ落ち、粉が畳の上に散乱する。
先ほどまで聞こえていた鳥の囀りや風の音が一瞬で聞こえなくなった。
朔弥の頭は真っ白になり、目を見開いて動かなくなった。
「あの…兼通さんですよね…?先生のお友達の…」
「はい…」
2人はそれからしばらく何も語らなかった。
夕方になるまで、2人はその場でただ呆然とするばかりだった。
しばらく経った頃、一人の学生が松政を訪ねにきた。
「先生こんにちは〜!この前の本なんですがー…」
ドンッ
松政が畳の上に拳を叩きつけた。
朔弥と学生はびっくりしたようで動かない。
「あぁ…すみません…。驚かせてしまって。」
松政はゆっくりと立ち上がり、少し上を向いた。
「すみません、明日の塾、私は欠席させていただきます。朔弥君、よろしくお願いします。」
「はい。先生…どうするんですか?」
「申し訳ありません。私ごとではあるのですが、遠井さんに会ってきます。」
「わかりました。」
次の日の朝、朔弥が塾の門前で松政を見送った。
「先生、道中はお気をつけて。」
「はい、ありがとうございます。」
「兼通先生によろしくお伝えください。どうか…」
「もちろんです!塾をお願いします!…そして、視治君に…」
「はい…」
松政はにこりと笑い、朔弥に塾の番を任せて兼通の囚われている牢屋へと向かった。
牢屋は隣国のとある町中にあり、あたりは閑散としていた。
獄門の前には棒を持った門番が二人、左右に分かれて警備をしている。
門番の一人が、近づく松政に気づき、じろりと目を向けた。
もう一人も無言で棒を持ち直す。
松政が門の前まで来たとき、二人はゆっくりと棒を交差させた。
「……止まれ」
低い声だった。
「ここは罪人の収監所だ。用のない者は通せぬ」
少し間を置き、
「誰に会いに来た」
「遠井兼通さんに会いに参りました」
松政は静かにそう告げた。
右手で菅笠の縁をくい、と持ち上げる。
影の奥に隠れていた瞳が、ゆっくりと現れた。
冷たいわけではない。
怒っているわけでもない。
だが――
底が見えない。
深く澄んだ水の底に、刃を沈めたような目だった。
門番は、その視線を受けた瞬間、言葉を失う。
ぞくり、と背筋に寒気が走る。
棒を交差させたまま、門番は無意識に半歩下がっていた。
松政は動かない。
「友として参りました」
穏やかな声音。
だがそこに揺らぎはない。
門番の喉が鳴る。
この男を、ここで退けてよいのか。
一瞬の迷いが生まれる。
そしてそれを、松政は見逃さない。
ほんのわずか、視線を細める。
圧が増す。
「……確認を取る」
門番は棒を下ろした。
しばらくして、門番が戻ってくると
「……許可が出た。半刻だけだ」
「わかりました。取り次いでいただきまりがとうございます。」
松政は軽くお辞儀をし、中へと入った。
門番はそんな松政を横目で追いながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
牢屋の中は静かで、昨晩の雨だろうか、壁からぽつりぽつりと水が滴っている。
牢の中にはこの国特有の長い耳の者やそうでない者、目が血走って今にも松政に襲いかかりそうな者がいた。
歩き続けると、奥に兼通の入っている部屋があった。
「お久しぶりです。遠井さん…」
兼通は壁に寄りかかり、左足を折り曲げ右足を伸ばしたまま座り込んでいる。
髪と髭は伸び切っており、何度も暴行を受けたのだろう、素肌が黒ずんでおり、身体中に傷跡があった。
しかし、彼は笑っていた。
兼通は松政の声を聞くと目を見開いて驚き嬉しそうに格子のそばに駆け寄った。
「おぉ!松政先生!久しいのう!わざわざ会いに来てくれたんか!ホントに…嬉しいのう…嬉しいのう…」
兼通は涙を流しながら笑った。
松政の手を取り、強く握りしめ
「ありがとう…ありがとう…」
そう呟いた。
松政が口を開く
「こんな時でも、あなたは笑っているのですね…恨んでもいいのですよ。」
兼通は小さく笑った。
「ははっ、恨むか……。それができんのじゃ。
自分がこんな状況になってしもうても、どういても、わしは人の所業いうもんを美しい思うてしまうがよ。」
兼通は、遠くを見るように目を細めた。
「この神秘的な自然も、人が作った建物も、たとえ朽ちて見にくうなってしもうても、それを美しい、尊いもんやと感じてしまうんじゃ。」
松政は、かすかに目を伏せ、胸の奥で何かが軋むのを押し殺した。
「たぶん、ワシは死刑になるじゃろう。……けんどな、それでもワシは、彼らを、この国を、心の底から許してしまうがよ。」
松政は、しばらく何も言わなかった。
格子を握る兼通の手に、自分の手を重ねたまま、ただその顔を見つめている。
「……あなたは」
かすれた声だった。
「あなたは、最後まで、そうなのですね」
兼通は肩をすくめる。
「性分やきな」
二人は互いの肩を掴み、目に涙を浮かべながら笑い合った。
「視治を頼む…」
兼通の目は優しく笑っていた
「はい…!」
松政も彼に見せるだろう最後の笑顔を送った。
3日後…兼通の処刑が近くの河原で行われることとなった
松政が塾の門前に着くと、誰かが言い争っている声がした。
「おい!何でそれを早く言ってくれなかったんだよ!松政先生はどこにいるんだよ!」
「落ち着け!俺だって数日前に知ったんだよ!しかも、お前はその時外に行っていただろ!松政先生は真っ先にお前に伝えようとしたよ!」
松政が門をくぐる。
「やめて下さい。視治君、朔弥君。」
松政が声を低くして真面目な顔で話す。
「先生…」
朔弥はぽつりと言った。
松政が菅笠を取り部屋に上がる。
「二人とも部屋に来て下さい。話をしましょう。」
部屋に入ると、重い空気が落ちた。
松政は菅笠を脇に置き、静かに座る。
視治は立ったまま、拳を握りしめている。
「……本当なんですか」
低い声。
「今日、なんですか」
松政はゆっくり頷いた。
「午の刻」
その一言で、空気が凍る。
朔弥が息を呑む。
「そんな……先生、何とかならないんですか……!」
視治の声は震えていた。
拳が白くなるほど握られている。
松政は目を伏せた。
「手は尽くしました。ですが……決まったものは、覆りません」
「そんな……!」
視治の瞳が揺れる。
「なんで……いったい、先生が何したって言うんですか……」
視治は俯き、溢れ出る涙を右の手で必死に拭う。
松政が小さく息を吸い、静かに語り出した。
「彼はただ、旅をしていただけです……。」
視治がハッとして顔を上げる。
「じゃ、じゃあ何で……!」
「見てしまったんです!彼は…」
松政が声を荒げて言う。
視治と朔弥は驚き硬直し、視治の涙は自然と止まっていた。
松政は左手を胸に当て、心を落ち着かせ静かに息を吐く。
しかし、彼の吐く息は震えていた。
「遠井さんは見てしまったんです。見てはいけないものを。
彼が囚われているのは隣国にある牢獄です。彼はその国と接する、いわゆる武士の国との国境くにざかいを旅していたようです。その途中、彼はおそらく、隣国が行なっていた国家秘密を目撃してしまったようなのです。何をしていたかはわからなかったようですが、それを見ていた姿を目撃されてしまい、その場で捉えられ、即刻死刑が決定したようです。」
視治は目を大きく開く。
「そ、それじゃあ…兼通先生は別に悪いことなんて何もしていないじゃないですか!見ても何もわからなかったのなら、それでいいじゃないですか!」
「ええ…しかし、見てしまったことが罪だったのでしょう……。」
「で、でも!それじゃあ、ただ口封じのための虐殺じゃないですか!兼通先生は政になんて興味ないんですよ!ただあの人は…美しいものを見たいだけで…」
松政は強く歯を噛み締めた。
「ほんとに…もう何もできないのですか…?」
視治が尋ねる。
「はい…」
松政は顔を伏せ、声を低くして言う。
「……なら、僕が行きます」
「視治君」
松政が驚いて顔を上げる。
「今から助けに行きます!まだ間に合うはずだ!」
朔弥が慌てて前に出る。
「無茶だ!相手は兵だぞ!」
「放してくれ!」
視治は振り払う。
松政が声を低くして言う。
「行っても、何も変わりません」
視治は振り返る。
「それでもです!」
その目は、あの日、弟子入りを願った時と同じだった。
必死で、まっすぐで、痛いほどに美しい目。
そうして、視治はすぐに部屋を飛び出した。
朔弥が後を追おうとする。
「待て!視治!」
しかし、松政が腕を掴んだ。
「……行かせてあげなさい」
「何でですか!」
「これは、彼自身の問題です」
松政の目は、揺れていなかった。
「止めれば、一生、後悔するでしょう」
朔弥は歯を食いしばった。
兼通の処刑は、牢獄の近くではなく松政たちのいるところからおよそ六里。
視治は走る。
転びそうになりながら、何人も押しのけながら。
胸が焼ける。
喉が裂けそうだ。
(先生……私はまだ、あなたともっと旅がしたい……!あなたと見たい景色が……まだたくさんある……!だから……死なないでくれ!)
河原はすでに人で溢れていた。
柵の向こう、兵に囲まれた姿が見えた。
兼通は、縄で縛られ、静かに座っている。
その顔は、穏やかで、いつものように笑っていた。
「どいてください!」
視治は人波をかき分ける。
ようやく柵の前にたどり着いた、その瞬間。
目が合った。
兼通が、はっとした。
ほんのわずかに、笑みが揺らぐ。
視治の目から涙が溢れる。
「先生――!」
声は、喧騒にかき消される。
しかし、兼通の目は確かに視治を捉えていた。
そして、ゆっくりと、空を見上げる。
太陽が高く昇り始めていた。
「……あぁ」
小さく、しかし確かに聞こえた。
「あぁ、何と美しいのだろう……」
次の瞬間。
振りかぶられていた刀が、振り下ろされた。
下
次の瞬間。
振りかぶられていた刀が、振り下ろされた。
――音が、消えた。
何かが落ちる音も、群衆のざわめきも、
風の音さえも、視治の耳には届かなかった。
目の前の光景を頭では処理しきれず、
この時何をすれば良いのかもよくわからなかった
ただ、わけがわからなかった
視治はその場に立ち尽くしたまま、
瞬きすらできなかった。
やがて、膝から力が抜け、
地面に崩れ落ちた。
「うあああああああ!」
喉が裂けるような叫びが、遅れて空へ放たれる。
怒りと悲しみが、胸の奥で渦を巻く。
そのどうしようもない思いを、何もできなかった自分への恨みを
全て身体から吐き出したかった。
気づくと視治は
腰に差した刀へと手を伸ばしていた。
鍔を弾いたその瞬間――
誰かに、そっと手を押さえられた気がした。
温かい、あの手。
その優しい手が、視治の手を押さえた。
(怒っちゃいけん)
確かに、聞こえた気がした。
(ワシはあやつらを許しちょる。じゃから視治も、怒らんでくれ)
涙で滲む視界の中、
初日の出のあの山頂がよみがえる。
(どうか、ワシがおまんに残したこの世界の美しさを、生涯をかけて楽しんでほしい)
刀を握る手が、震えながら止まる。
やがて、力が抜けた。
視治は地面に額をつけ、
声にならない声を漏らし続けた。
太陽はゆっくりと傾き始め、先ほどまでいた群衆も、それぞれのあるべき場所へと戻っていった。
――――
それから、視治は塾に現れなかった。
一週間後。
門の前に立つその姿は、
以前よりも少しだけ痩せていた。
だが、その目は濁っていなかった。
「先生。……私は旅に出ようと思います」
松政は、しばらく黙って視治を見つめた。
そして、
「そうですか……」
小さく息を吐いたあと、
ふっと笑った。
「そう言うと思って、用意しておきました」
奥から大きな鞄と、幾冊もの本を持ってくる。
「いつかあなたがそう言うだろうから、その時はこれを渡してやってくれと、遠井さんに頼まれていたものです」
視治の指が、震える。
「……先生が?」
「ええ」
松政は静かに頷く。
「それから、これは私から。ほんの少しの書物です」
視治は、兼通の記した最近の旅日記を開いた。
そこには、こう書かれていた。
――今日、妙な学生に弟子入りを懇願された。
目を真っ赤にして、必死でのう。
あんな目を向けられては、断れるはずもない。
あの目は、実に美しかった。
次の頁。
――あやつは、まだ美を知らぬと言う。
じゃが、それを知りたいと願う心こそ、美しいのだと、
いつか気づくじゃろうか。
さらに頁を繰る。
ーー今日は視治がついに笑いよった!
吉和屋よしわやの団子を食わせたら口角が上がっちゃった!
文字が滲む。
視治は、声を殺して泣いた。
溢れ出る涙を視治は袖で乱暴に拭った。
やがて本を閉じ、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
松政も、静かに頷いた。
「気をつけて行ってください。もし辛くなったら、いつでも帰ってきなさい。待っていますから」
松政が優しく笑いかける。
その姿を見て、視治の胸に何かが込み上げたが、グッと押さえて
「はい。行ってきます!」
視治は微笑んだ。
あの日、初日の出を見た時と同じ、
まっすぐな笑みだった。
――――
桜が咲いたある日。
松政は塾から見える桜と満月を眺めながら、盃を傾けていた。
隣には、もう一つの盃。
とっくりから、静かに酒を注ぎ、手に持った盃を月にかざした。
「兼通さん。今年も、あなたの好きだったこの季節がやってきましたよ」
花びらがひらりと舞う。
遠く、どこかの山道で。
一人の若者が、立ち止まり、空を見上げていた。
夜空に浮かぶ月を眺めながら
「……あぁ」
小さく、しかし確かに。
「何と美しいのだろう」
そう呟いた。
遠井兼通という一人の旅人は、
歴史の中へと消えた。
だが。
その目は、
その言葉は、
その「美しさ」は、
確かに、受け継がれている。
たとえそれが、歴史の一行にも満たぬ出来事だとしても。
いや、
本にすら記されぬことであったとしても。
私にとって、彼らは特別で
そしてきっと、
この世にとっても
特別だったのだ。




