第97話 贖罪
「私は……変わりたい……です」
オラブの言葉は本心を言っているようだった。
もちろん、オラブが過去にどれだけひどいことをされていようと、彼の悪行が許されるわけではない。
自分の行った罪は罪として背負わなければならないのだ。
侯爵の私兵には一旦退室してもらい、僕とオラブは元通りソファに向き合って座った。
僕の背後には無言でリネアが控えている。
「改めまして、アーリング様……私はどうすれば良いのでしょうか」
僕は事前に用意していた言葉を伝えた。
「少しずつ治療を進めていく必要があります。まずは贖罪を行いましょう」
オラブの表情が曇る。
これまで、どれだけの人を食い物にしてきたのか。
その過去がいろいろと思い出されていることだろう。
その罪を、すべて、どうやって贖えば良いのか……。
犯罪者のなかには、贖いきれない罪を抱え、自棄になってしまう人もいるという。
そうはならないように気をつける必要があった。
「まず、身近なところからはじめましょう。明日の朝、エルセさんと話をしませんか」
「エルセ殿と……」つぶやき、オラブの顔が歪む。「私は、ひどいことをしてしまった。彼女も私の顔など見たくもないでしょう」
「そうかもしれませんが……僕と一緒にエルセさんのお宅へ行きましょう。そこで彼女にどうしたいかを聞きます。会いたくないと言われたら、それまでです。でも、それでいいんです。あなたが自分の罪と向き合おうとした。それがとても大事なことなんです。あとは陰ながら彼女と、彼女の弟を支援すれば良い」
オラブは目を閉じ、じっと黙っていた。
葛藤しているのだろう。
自分の罪を直視するのは恐ろしい。
いっそのこと、どこかへ逃げ出したい、という思考さえ脳裏をよぎっているのが、僕の目には視えた。
だが、それでは何も問題は解決しない。
彼は怯えていた。
そして……それでも、前に進もうと、仄かな勇気が見え隠れしていた。
オラブは深く息を吐いてから、僕の目を見た。
「行きます」
◇◇◇
翌朝、僕は古い礼拝堂にいた。
ステンドグラスから差し込む朝日が、礼拝堂内の埃を照らしていた。
この集落に聖者はおらず、いまはほとんど使われていない場所らしい。
僕はリネア、キルステーナ、そしてエルセさんと一緒に来ていた。
リネアは僕の警護、そしてキルステーナは古い礼拝堂という建物自体が好きなようで、ついていくと言い張ったのである。
あまり大勢で行きたくはなかったが、まあ、キルステーナによる癒やしが必要な場面もあるかもしれない……と自分を納得させた。
決して、キルステーナが頑固に絶対についていくと言い張って僕を羽交い締めにしてきたので、根性に負けたとか、そういうわけではないのである。
エルセは緊張したようすで長椅子に座っていた。
「本当に大丈夫なんでしょうか」とエルセが言った。
「大丈夫なようにします」
「私、アーリング様たちがいなくなったあと、どうされてしまうか……。あの男は、アーリング様の前では謝罪をしても、裏で弱い人間を痛めつけようとするような人間です」
「あなたの心配はわかります。でも、大丈夫です。僕に任せてください」
「アーリング様が、そうおっしゃるなら……」
そして約束の時刻になった。
礼拝堂の扉が開き、オラブがゆっくりと歩いてきた。
一睡もできていないのだろう、憔悴しきっていた。
まるで断頭台へ向かう死刑囚だ。
そしてエルセの前で立ち止まる。
口を開き、何かを言おうとしているが、言葉にならないようだった。
「侯爵、ゆっくりで良いので、自分の言葉で伝えてください」と僕は言った。
彼は一度だけぎゅっと目を閉じる。
そして、震えた声で話を始めた。
「エルセ殿……私は、君という人間の尊厳を踏みにじった。君が薬師として培ってきた誇りも、守るべき弟君への想いも……その全てを、私は己の利益のためだけに利用した。最低なのは、その行為に罪悪感すら抱いていなかったことだ……」
エルセは、黙ってオラブの言葉を聞いていた。
その瞳には、まだ警戒の色が濃く浮かんでいる。
侯爵は、そんな彼女の反応を気にする余裕すらないのだろう。
彼は、まるで自分自身に言い聞かせるかのように言葉を続けた。
「君をアーリング様に差し出した時もそうだ。私は、君がどれほどの恐怖と屈辱を感じるかなど考えもしなかった。ただ、アーリング様に取り入るための都合の良い『道具』としか見ていなかった。私は、長い時間をかけて自分の魂を腐らせていった。そして、何が正しくて、何が正しくないのか、わからなくなっていた」
侯爵は深く頭を下げる。
「すまなかった……っ!」
彼の声が、静まり返った礼拝堂に響き渡った。
「私の弱さが……! 私の醜い魂が、君を……! 君の人生を、めちゃくちゃにしてしまった……! 本当に、すまなかった……っ!」
貴族の体面などかなぐり捨てた、一人の罪人の、魂からの絶叫だった。
エルセは呆然と、その光景を見つめていた。
僕の【神の瞳】には、彼女の魂が激しく揺れ動く様が視えていた。
困惑。
そして……これくらいの謝罪で済ませてなるものか、という怒り。
そうだ。
ただ謝れば済むという話ではない。
人の尊厳を踏みにじり、魂を深く傷つけたのだ。
長い沈黙の後、エルセは静かに立ち上がった。
彼女は感情が高ぶっているのだろう、泣きそうな顔で侯爵を睨みつけていた。
「……謝って済むとお思いですか」
オラブは顔を上げない。
「謝罪で私の失われた誇りが戻るのですか。私の心が受けた傷が、癒えるのですか。いいえ。何も変わりはしない」
厳しい言葉だが、事実だ。
僕は今後の展開を考えながら、会話に割って入った。
「エルセさんのおっしゃる通りです、侯爵。過去は変えられません。あなたの罪も、エルセさんが受けた傷も決して消えることはありません」
まず、彼女の怒りを肯定する。
それが彼女の尊厳を守るための第一歩だった。
「ですが」と僕は言葉を続ける。「過去は変えられなくとも、未来に対して、あなたができることはあります。それが『補償』です。あなたの罪を、具体的な行動で償うのです」
僕の言葉に、侯爵は顔を上げた。
「もちろんです、アーリング様。私の私財の全てを彼女に。それで償えるというのなら……」
「いいえ、それはできません。あなたの罪はエルセさん一人に向けられたものではない。あなたがこれまで踏みにじってきた人々に対しても、あなたはこれから償っていかねばならないのですから。あなたの財産は贖罪のために分割されなければならない」
商人にとって、自身の財が減ることほど辛いことは他にないだろう。
だが、それこそが償いである。
おそらくは手元のお金が減るにつれ、彼の魂は少しずつ救われていくことだろう。
エルセは深く息を吐いた。
もうその瞳から、怒りは随分と薄れている。
「私が希望する補償は弟への支援です。あの子が不自由なく学び、自分の夢を追うことができるよう、生活費と学費を援助していただけないでしょうか」そしてエルセは言った。「あなたを完全に許すことは一生ないと思います。ですが……」
彼女は言葉を迷っているようだった。
複雑に感情が絡み合っているのが、僕の目には視える。
「薬師として役目を果たせていない私と弟の生活を支えてくださったことは、感謝しています」
「いや、それは……」とオラブが言おうとしたのを、僕は制した。
彼は、ただ人の弱みにつけ込み、あとで自身の駒にしようとしていただけなのだ。
それはわかった。
だが、言わなくても良いだろう、と僕は判断した。
「侯爵様の私財は……」エルセは言った。「私よりもっと、あなたのせいで苦しんだ人たちのために使ってあげてください」
「約束しよう。必ずそうすると誓う」とオラブは言った。
◇◇◇
オラブの贖罪の第一歩は無事に終わった。
彼はひどく疲れたようすで礼拝堂から出ていった。
今後、どうするかについては後で話がしたい、とのことだった。
エルセは僕のほうへと近づいてきた。
その瞳には澄み切った感謝の光が宿っていた。
「アーリング様」
彼女は深々と一礼した。
「あなたは、私に『侯爵を許せ』とはおっしゃらなかった。私の怒りも、彼の罪も、その全てを受け止めた上で……私たちがこれからどうすればいいのか、その道を示してくださいました」
彼女は顔を上げた。
「あなたがいてくださって、本当に、良かった。……ありがとうございました」
僕は彼女の晴れやかな笑顔に、少し照れながらも微笑み返した。
「僕は二人が良い方向へ進めるように、ほんの少しお手伝いをしただけです。あなた自身の優しさのおかげで、この結末にたどり着けたんだと思います」
さて。
次はエルセの病を治療しなければならないが、もう少し時間を置いてからのほうが良いだろう。
「帰ろうか」と僕はキルステーナとリネアに声をかけた。
二人は礼拝堂の隅で、今回の件を見守っていてくれたのだ。
「アーリング様、少しだけお待ちいただけますか?」とキルステーナが言った。
「うん、どうしたの?」
「実は、ちょっと、あそこが気になるんです」
彼女は、礼拝堂の隅にある古びた扉を指で示した。
おそらくは聖具などを保管していた倉庫なのだろう。
「古い礼拝堂には、時々、忘れられた聖遺物が眠っていることがあるのです。聖女として、少しだけ調査してもよろしいでしょうか?」
その瞳は、好奇心で子供のようにきらきらと輝いていた。
まあ、少しだけなら良いだろう。
「わかった。でも、あまり時間はかけられないよ」
「はいっ! すぐに済みますから!」
キルステーナは嬉しそうに頷くと、倉庫の扉を開け、その薄暗い中へと姿を消した。
数秒の沈黙。
「アーリング様、良いものがありましたぁ」と嬉しそうな声が聞こえてくる。
彼女は埃まみれになりながらも、一枚の巨大な絵画を、よいしょ、と引きずり出してきた。
縦横一メートルはあろうかという、荘厳な金色の額縁に収められた壮麗な肖像画だった。
描かれていたのは一人の女性だった。
金色の髪を緩やかに編み込み、慈愛に満ちた青い瞳で、こちらに優しく微笑みかけている。
「すごいな、これ……」
僕は、その圧倒的な画力に、思わず感嘆の声を漏らした。
まるで生きているかのような、魂のこもった筆致だ。
芸術への造詣は深くないが、それでも絵のレベルの高さはわかった。
そして、ふと気づく。
描かれている女性の姿に、僕は言いようのない既視感を覚えていた。
(この人……)
輝くような金髪。
どこまでも深く、澄んだ青い瞳。
そして何より、見る者の心を温かくする、聖母のような慈愛に満ちた微笑み。
僕は、思わず隣に立つ人物へと視線を移した。
「まあ! なんだか、私にそっくりじゃありませんか?」
キルステーナが無邪気に声を上げる。
彼女は自分の金髪を指でくるくると弄びながら、絵の中の女性と自分を見比べてはしゃいでいた。
そっくり、というのは言い過ぎかもしれない。
だが、髪の色も、瞳の色も、そして何より纏う雰囲気が、驚くほど酷似していた。
まぁ……自画像というほどには似ていない。
強いて言うならば、親子か。
「絵の右下に、サインがありますね」
リネアが、その白い指先で絵画の隅をなぞった。
インクの掠れた、しかし気品のある筆跡で、一つの名が記されている。
『――Alma』
アルマ。
その名を聞いた瞬間、僕の脳裏に、遥か昔に読んだ歴史書の一節が蘇った。
数百年前、この国に実在したとされる伝説の聖女。
あらゆる病を癒し、その慈愛で多くの民を救ったと伝えられる『救済の聖女アルマ』。
キルステーナとの不思議な一致に気を取られていた、そのときだった。
―――ぐにゃり。
絵画の表面が水面のように揺らめいた。
描かれていた聖女アルマの瞳が、まるで生きているかのように僕たちを見つめ、その背景の風景が渦を巻くように回転を始める。
「え……?」
僕が異変に気づいた時には、もう遅かった。
絵の中へと、強烈な風が吹き込んでいく。
「ひゃっ!?」
一番近くにいたキルステーナが、悲鳴と共に絵の中へと吸い込まれていく。
僕もまた、その不可視の力に捕らえられ、足が床から浮き上がった。
「旦那様!」
リネアの絶叫が遠のいていく。
僕は必死に手を伸ばした。
その手を、リネアが掴もうとする。
だが、その指先が、僕の指に触れる、ほんの寸前で。
僕の意識は、絵画の中へと完全に引きずり込まれてしまった。
―――旦那様!
最後に聞こえたのは、愛する人の叫びだった。




