第96話 まるで壊れた人形のように
「さあ、どうされますか?」オラブは楽しそうに言った。「お好きな人生をお選びください。ヴァインベルク家は、多種多様な商品をご用意しておりますよ」
背後でリネアの纏う雰囲気が変わったのがわかった。
殺気。
この場の全員を倒し、逃亡する……ということも彼女ならば可能だろう。
だが、僕は別の手を考えていた。
「侯爵様」僕は言った。「僕が、あなたを治療してさしあげます」
「……は?」
侯爵の顔から笑みが消えた。
僕が何を言っているのか、理解できないという顔だった。
「あなたの魂は深く病んでいます。僕は、それを治すことができる」
「何を馬鹿なことを……!」
僕は目を閉じた。
意識を、目の前の男の魂の、その一番奥深くへと集中させる。
―――発動、『神の瞳』。
「―――っ!?」
侯爵の身体が、びくりと大きく跳ねた。
僕の力が、彼の魂の壁に触れたのだ。
「やめろ……! 人の心に、土足で踏み込むな!」
激しい拒絶。
彼の魂が、必死に僕の侵入を拒んでいるのがわかった。
だが、僕は止まらない。
彼の魂を蝕む『病』の根源を、この眼で視なければならない。
―――次の瞬間。
僕の意識は、彼の記憶の奔流へと引きずり込まれていった。
◇◇◇
―――視界がノイズ混じりに歪む。
最初に視えたのは、まだ若いオラブの姿だった。
商人として駆け出しの頃だろう。
彼は地方の安宿の一室で、心から愛した女性と寄り添い、将来の夢を語り合っていた。
ささやかだが、温かい光に満ちた時間だ。
だが、その光は、突如として暴力的に引き裂かれた。
部屋の扉が蹴破られる。
なだれ込んできたのは、この地を治める大貴族の紋章をつけた兵士たち。
そして、その中心に立つ、傲慢な笑みを浮かべた若い男。
彼の目は、最初からオラブの恋人だけに注がれていた。
「待て、何のようだ!」
オラブが立ち向かおうとするが、兵士たちにあっさりと組み伏せられる。
抵抗する彼の腕は背後で固く縛り上げられ、冷たい剣の切っ先が喉元に突きつけられた。
身動き一つできない。
「ほう、なかなかの掘り出し物ではないか」
貴族の男は、縛られて震えるオラブを一瞥すると、心底楽しそうに笑った。
そして、オラブの恋人の顎を乱暴に掴んで顔を上げさせる。
「おい、商人。その女、今宵一夜、俺が慰めてやろう。この俺に抱かれるのだ、光栄に思え」
「ふざけるな……!」
「口の利き方には気をつけろよ」
剣の切っ先がオラブの喉に深く食い込む。
血が、一筋流れ落ちた。
「お前たち商人が、俺の父の領地で商売をさせてもらえていることを忘れたか? この女一人を差し出せないというなら、お前の家ごと、この街から消えてもらうことになるぞ」
それは選択の余地などない、絶対的な脅しだった。
命も、未来も、全てが相手の掌の上にある。
チャリン、と。
足元に金貨が詰まった袋が投げ捨てられる。
袋からはみ出た、数枚の金貨が床に転がった。
「商人。お前から女を買ってやる。ありがたく受け取れ」
「やめて……! お願い、やめてください……!」
泣き叫ぶオラブの恋人が、兵士たちによって部屋の奥にある寝台へと引きずられていく。
乱暴に、まるで物のようにベッドへと投げ出された。
オラブは思わず固く目を閉じた。
―――だが。
「おい」
冷たい声。
僕の視点はオラブと同化する。
当時の彼の感触が、そのまますべてリアルに感じられた。
僕の髪が鷲掴みにされる。
無理やり顔を上げさせられ、その光景を直視させられた。
「ちゃんと見ておけ。自分の女が、格上の男にどんな風に可愛がられるのかをな。お前のような薄汚い商人風情は、一生、奪われつづける運命だと思い知れ」
貴族の男は、僕の目の前で、ゆっくりと彼女の服を剥ぎ取っていく。
抵抗する彼女の細い腕は、兵士たちによってベッドに押さえつけられていた。
「見ないで……!」
涙に濡れた瞳で、彼女が僕に懇願する。
「お願い……見ないで……!」
その悲痛な叫びが、僕の魂を引き裂いた。
歯を食いしばりすぎて、口の中に鉄の味が広がる。
己の無力さが、魂を焼き尽くしていく。
やがて、獣のような喘ぎ声が止み、貴族が満足げに彼女の上から離れる。
彼は乱れた服を整えると、縛られたままの僕の前に立ち、その顔を侮蔑の笑みで覗き込んだ。
「良い鳴き声だったぞ。お前も楽しめたか?」
彼は僕の頬を二、三度軽く叩くと、高笑いをしながら部屋を出ていった。
兵士たちがそれに続き、扉が閉められる。
後に残されたのは、壊された二人の人間と、重い沈黙だけだった。
兵士の一人が、去り際に僕の縄を解いていった。
僕は震える足で寝台へと駆け寄った。
シーツにくるまり、胎児のように身体を丸める彼女の、華奢な肩にそっと手を伸ばす。
「……大丈夫か」
その瞬間だった。
「―――触らないで」
拒絶。
彼女は顔を上げない。
僕を見ない。
ただ、消え入りそうな声で、そう呟いただけだった。
その夜、僕たちは一睡もできなかった。
僕は椅子に座り、彼女はベッドの上で。
ただ、沈黙だけが二人の間に横たわっていた。
そして、夜が明け始めた、その時。
疲労のあまり、僕が一瞬だけ意識を失い、再び目を開けた時には、もう彼女の姿はベッドになかった。
開け放たれた窓から、冷たい朝の風が吹き込んでいる。
嫌な予感。
僕は窓へと駆け寄った。
そして、見てしまった。
宿屋の中庭、石畳の上。
赤い染みの中に横たわる、白い人影を。
それは、まるで壊れた人形のように、ありえない角度に手足を折り曲げて、二度と動くことはなかった。
声は出なかった。
涙も出なかった。
ただ、あの夜、床に転がった金貨の冷たさと、彼女の最後の言葉だけが、僕の魂に、永遠に消えない烙印として刻み込まれた。
◇◇◇
僕は現実へと回帰する。
生きた心地がしなかった。
ひどい悪夢だ。
いや、彼にとっては現実なのだ。
何年経っても癒えることのない傷。
目の前で、侯爵は荒い呼吸を繰り返していた。
僕と一緒に過去を見てしまったのだろう。
オラブの私兵たちは、主君の変貌ぶりに戸惑っているようすだった。
僕はオラブに近づいていった。
「……辛かったですね」
僕の言葉を受け、侯爵は現実へと戻ってきたようだ。
しばらくは目の焦点があっていなかったが、しっかりと僕を見た。
「僕が知る異世界の言葉で、あなたの現状を『攻撃者との同一化』と呼びます」
僕は診断を告げる。
「あなたは、奪われる側の無力な自分であることが、あまりにも恐ろしかった。だから、あなたは決めた。自分を傷つけた『攻撃者』と同じ人間になることで、その恐怖から逃れようと。金と力だけを信じ、人の心を駒としか見ない……あの日の貴族たちと全く同じ『怪物』に、あなた自身がなることを選んだのです」
侯爵は何も言わない。
「あなたがエルセさんにしたことは、かつて、あなたの愛した女性が受けた仕打ちと何が違うのですか? あなたは、ただ悲劇を繰り返しているだけだ。奪われた痛みを、自分より弱い者に押し付けることで、束の間の安心を得ているに過ぎない。それでは、あなたの魂は救われません」
侯爵は何も答えられなかった。
ただ無言で涙を流している。
「侯爵。あなたの戦いは、もう終わってもいいんです」
その姿は、もはや狡猾な商人でも冷徹な貴族でもない。
ただ、過去の亡霊に囚われ、出口を見失った、一人の迷子の男だった。
「今は泣いてください」
彼は何十年も泣くことができていなかったのだ。
「あなたは怪物になりたかったわけじゃない。ただ、あの日の無力な自分に戻るのが怖かった。……ただ、それだけだったんですよね」
侯爵は無表情のまま、瞳から溢れた涙がこぼれていた。
「あの日の悲劇に囚われたあなたではなく、本当のあなたを取り戻す旅を始めましょう。金や力ではなく、あなたの心が本当に求めているものを、一緒に探すんです」
僕は手を差し伸べた。
「もう……遅いのではありませんか」と彼が言った。
「いいえ、手遅れだなんてことは、決してありません」
「アーリング様……」オラブは言った。「私を、お救いください」
「僕にできるのは、お手伝いだけです。あなたが本当に変わりたいと願うのなら、大丈夫です。変わることができますよ」
彼は僕の手を、強く握った。
「私は……変わりたい……です」




