第95話 夜伽を命じられて参りました
「オラブ侯爵より、アーリング様の、今宵のお相手を……夜伽を命じられて参りました」
リネアは振り返って僕を見た。
「どうなさいますか? お使いになられますか?」
「お使いになるわけないだろ」
さすがに笑えない冗談だった。
「覚悟は決めています」とエルセは言った。「どうか、お好きにお使いください」
僕はエルセと名乗る女性を『視た』。
彼女の魂を覆う、分厚い絶望の鎧が視える。
恐怖、諦観、そして、か細い希望。
その全てが、彼女の中で渦を巻いている
どうやら、僕は自分が腹を立てているようだ、と思った。
あまり怒りという感情がないので、それに驚いた。
「帰ってください」と僕は言った。
この女性が悪いわけではないのはわかっていた。
けれども、ここまであからさまな行動を取られると、どうも腹が立って仕方がない。
「……帰れません」エルセは、ぽつりと漏らす。「どうしてもお金が必要なんです。侯爵様の援助がなければ、私は……」
「他に仕事を選べないのですか?」とリネアが尋ねた。
その質問に、エルセの肩が震える。
「できないんです。私には、もう……」
僕は意識を集中させた。
―――発動、『神の瞳』。
僕は、彼女の魂の、さらに奥深くへと意識を潜行させる。
なぜ彼女はこれほどまでに追い詰められているのか。
その根源を視るために。
次の瞬間、僕の脳裏に、彼女の記憶と絶望が鮮烈なイメージとなって流れ込んできた。
―――陽光が差し込む、薬草の匂いに満ちた工房。
そこに立つエルセの姿が視える。
その指先は薬草を刻み、乳鉢ですり潰し、天秤で正確に重さを量っていく。
その横顔は、自信と、自らの仕事への誇りに満ち溢れていた。
(……薬師か。それも、相当な腕利きだ)
だが、その輝かしい光景は、突如としてノイズが走ったかのように歪む。
同じ工房。
同じ彼女。
だが、その手はカタカタと小刻みに震えていた。
天秤に乗せた薬草を、何度も皿から降ろしては、また乗せる。
その瞳は不安に揺れ、額には脂汗が浮かんでいた。
『……本当に、これで合っている? 分量を間違えてはいない? もし、この薬で人が死んでしまったら……?』
声にはならない、強迫的な思考のループ。
彼女の魂を蝕む『病』の正体。
【神の瞳】は、それを『強迫性障害』という異世界の言葉で正確に診断していた。
視界が暗転する。
次に映し出されたのは、質素な家の一室。
テーブルで一人、姉の帰りを待つ幼い少年の姿。
その寂しげな横顔が、エルセの魂に深く刻まれた『守るべきもの』の象徴だった。
両親の姿はない。
写真立ての中で、両親は穏やかに微笑んでいるだけだった。
そして、最後の光景。
オラブ侯爵の執務室。
彼はエルセにこう告げていた。
『――アーリング様の今宵のお相手をせよ。もしやり遂げたなら、お前の弟の将来は私が保証しよう』
それは、慈悲でもなければ温情でもない。
ただ人の弱みに付け込む、冷徹な『取引』の言葉だった。
(……そういうことか)
全てのピースが、嵌まった。
彼女は、心を病んで薬師としての道を絶たれた。
だが、守るべき幼い弟がいる。
そのために、彼女は魂を売り渡すしかなかったのだ。
そして僕は現実へと戻ってくる。
目の前に立つエルセは、不安そうに僕を視ていた。
「大丈夫ですよ」僕は声をかけた。「オラブさんと話をつけてきます」
「いえ、そんな……」
「あなたは家に帰り、ぐっすり休んでください。明日の朝、またお話しましょう」
◇◇◇
僕とリネアは夜の集落を歩いていた。
人通りはなく、街灯もほとんど見当たらない。
うるさいほどに無音だった。
現在、オラブが主な住居としているのは、集落の一番奥にある邸宅だという。
そこにたどり着いたが、そこまで広い家というわけでもない。
ここは仮の住まいということなのだろう。
呼び鈴を鳴らすと、出たのは女性のメイドだった。
「すみません、アーリングです。侯爵はいらっしゃいますか?」
「ええ、はい。少しお待ち下さい」
そう言って通話は切れた。
少し待っていると、ドアが開く。
現れたのはオラブ本人だった。
従者が現れるとばかり思っていたので驚いた。
寝間着なのだろう、ゆったりとした服を着ている。
「こんばんは」と僕は言った。
「ええ、こんばんは。こんな夜更けに、どうされました? もしかして、エルセが何か粗相でもされましたかな?」
「そのエルセさんの件で来ました。お話できますか?」
「ええ、もちろん」
そう言ってオラブは僕らを邸内へと招き入れた。
通されたのは、簡素だが品の良い調度品で整えられた応接室だった。
彼は僕に革張りのソファに座るよう促した。
僕が座ると、オラブも座った。
僕の背後にはリネアが控えている。
「それで……エルセには、ご満足いただけませんでしたかな?」
「ああいうのは、やめてください」
「すみません」オラブは微笑む。「満足いただけなかったようですね。アーリング様の好みを聞いてもよろしいですか? えっと、メイドでしょうか。それならば、私がたまに使用しているものを用意できます。良い声で鳴くんですよ。それか、処女がお好みですか?」
「だから……」僕は自分が苛立っていることを自覚した。「やめてください」
「ああ、わかりました。すみませんすみません」早口で謝罪する。「もしかして、アーリング様は男性がお好きですか? それでしたら、エルセの弟がちょうどいいでしょう。なかなか、可愛らしい顔をしていますよ」
「黙れ」という言葉が、思わず口から漏れた。
そんな言葉を使ったのは、はじめてのことだった。
「排除しますか?」と背後のリネアが囁いた。
「それはだめだ」リネアのおかげで、少しだけ冷静になった。「オラブ侯爵、そういうことは、本当にやめてください」
「大変申し訳無い」とすぐにオラブは頭を下げた。「アーリング殿は、多くの女性を性行為によって救っている、という話を聞き及んでおりまして。女戦士ビルギット、聖女キルステーナ、天才魔法使いシリヤ。そしてテレヴォ王女までも、その精力により支配している……と」
誰だ、そんな噂を流したやつは……。
「本人が望んでもいないことをさせるのは、魂への冒涜です」
「望んでいますよ」オラブは言った。「エルセは、自ら望んでアーリング様に抱かれることになりました」
「あなたが、そう仕向けたんでしょう」
「ええ、はい。そうかもしれませんが、それがどうかされましたか? 私は、あの使えない元薬師を、救ってあげているのです。いわば慈善事業ですよ。そしてアーリング様に気持ちよくなってもらえて、恩を売れるのであれば、それで良い。なにかおかしいですか?」
なにもかもがおかしかった。
こいつは……この男は、打算しかないのか。
「アーリング様が抱かないのであれば、また他の者に献上するだけです。そうすることで、多くの人間の欲望を知ることができます。どのような薄暗い欲望を抱えているのか。そういうことを把握しておけば、政治でも、商売でも、非常に有利ですから」
僕は少し迷ったが、しかし言った。
言わざるを得なかった。
「僕は、あなたのような人とは手を組むことができません」
「そうですか」オラブは、にっこりと笑う。「それでは、残念ですが……。テレヴォ王女とアーリング様を手土産に、私は宮廷派に再度寝返ることにしましょう」
彼がそう言うと、扉が開いた。
オラブの私兵たちが、次々に部屋に入ってくる。
「さあ、どうされますか?」オラブは楽しそうに言った。「お好きな人生をお選びください。ヴァインベルク家は、多種多様な商品をご用意しておりますよ」




