第90話 手でしてあげよっか?
「お久しぶりです、アーリング様」
そう言って頭を下げたのは、僕の元婚約者、テアだった。
「それじゃ、あとは若いお二人で」と言ってビョルンは席を立った。
「二人ではなく三人です」とリネアが指摘し、ビョルンを扉へと送っていく。
テアは立ったまま僕を見ていた。
「座ったら?」
「あ、はい……」さきほどまでビョルンの座っていた席に腰を降ろす。
そして、じっと僕の顔を見ていた。
あまり見られると緊張するなぁ……。
「あの……」テアは言い淀む。「お元気そうですね」
「いろいろあってちょっと疲れているけれど、元気だよ」
いろいろあった。
本当に……。
「第二王女様を救出したお話、聞きました」
もう侯爵家令嬢、テアの耳に入るほどの騒ぎになっているというわけだ。
「救出というか、なんだろうね、誘拐ではないけれど……」
「さすがです、アーリング様」とテアは言った。「テレヴォ様がフィヨーラ様を殺害しようと計画していただなんて、嘘ということですね?」
「まだ詳しくは聞いていないけれど、たぶんね」
むしろ、フィヨーラがテレヴォを殺そうとしていた、というほうが正しい。
「それは良かったです」テアは僕の目を見て言った。「今日、ここに来た理由なのですが、アーリング様のお力になれれば、と思いまして」
「力になるというのは、具体的には?」
「我がヴァインベルク侯爵家は西にある森林地帯を所有しています。ほとんど人の手が入っていない、ただ広いだけの土地ですが……。そこであれば、アーリング様たちを匿うことができると思います」
ありがたい申し出ではあった。
僕の目で視た限り、テアは嘘を言っていない。
僕を騙そうとはしていないはずだ。
しかし……。
「なぜ、僕を助けてくれるの?」
「それは……」テアは言葉に詰まる。
「旦那様に未練があるのですか?」とリネアが言った。
「……はい」と小さな声でテアが答えた。
「自分から捨てておいて、他の人のものになったら惜しくなっただなんて、子供のようです」
「はい。それはわかっています。もう、私のものにならないことも」
そして、テアは真っ直ぐに僕の目を見た。
「以後は、アーリング様を陰ながら応援できれば、と思っています」
僕の治療は、果たしてうまくいったのだろうか?
テアは、もともとは彼女よりも才能のある姉に対する嫉妬で、精神のバランスが崩れていた。
あれも、いま思えば天秤の仕業だったのかもしれない。
あの頃は、まだ僕の【神の瞳】の力が弱く、深いところまでは理解できていなかったが……。
「でも、本当に良いのか? もし、僕を匿っていることがバレたら、きみだけじゃなくて、ヴァインベルク家全体の問題になる」
「ええ、それはわかっています」テアは小さくうなずいた。「実は、ヴァインベルク家は、現在第二王女派なのです。将来的には、テレヴォ様が王位を継ぐだろう、と考えていました。資金援助も行っております。だから、テレヴォ様には、どうにか生き延びていただく必要があるのです。父も私の意見に賛成してくださいました」
なるほど。
実利の意味でも、僕を支援するのは当然か。
だが、逆に言えば……。
ヴァインベルク家と僕がつながりを持つであろうことは、容易に想像がつくだろう。
とはいえ、他に打てる手がないのも事実だ。
「……力を借りても良いかな?」
「はい!」テアは嬉しそうに微笑んだ。「私のすべてを、あなたに捧げます」
「すべては不要です」とリネア。「逃走ルートを確保していただければ、それで十分です。旦那様の欲望は、すべて私が解消して差し上げていますので」
いま言わんでいいだろう……。
……最近わかってきたことだが、これはリネアなりの僕への愛情表現なのだろう。
僕がリネアのものだということを、周囲に伝えているわけだ。
そう思えば、可愛い……のだろうか。
「具体的には、どうやって王都から脱出すればいいかな。何か策はある?」
「これから二時間後、ヴァインベルク系列の行商隊が西へ出発します。その荷馬車にまぎれていただくのが良いかと思います。すでに検問所には賄賂を渡しておりますので、ノーチェックで通れるかと」
手際の良いことだった。
僕は決めた。
「世話になるよ」
「はい、ありがとうございます」
「ありがとうございます、は僕が言う側だけどね」
「いいえ、一度はあなたを裏切った私を頼っていただいて、ありがとうございます、ということです」
なんだか殊勝すぎるなぁ、と思った。
「それでは準備を進めますので、二時間後に」とテアは立ち上がった。
そしてドアのほうへ行き、振り返る。
「最後にひとつだけ。アーリング様は……王になるのですか?」
「王?」
僕は思わず同じ言葉を返していた。
同じ言葉を返しているというのは、つまり、頭が働いていない証拠である。
「いや、王だなんて、考えもしなかった」
「でも、テレヴォ様を連れ出したということは、彼女を娶り、王になるのでは? そんな噂が流れていますけれど」
どこの誰だ。
そんな噂を流したやつは……。
「私は、アーリング様が王になったら良いな、と思います」
「私は神になってほしいです」とリネアが口を挟む。
それはさすがに無理だ。
◇◇◇
テアが帰ったあと、僕は仲間に出発の準備をするように伝えた。
二時間後には宿を出る必要がある。
とはいえ、皆、長旅つづきだったのもあり、荷物は少なかった。
二十分も経たないうちに荷造りを終えた。
部屋に戻って一眠りでもしようかな……と思ったが、眠れない。
これ以上眠る努力をするのは時間の無駄だと判断した。
リネアに断ってから宿を出て、外の空気を吸いに出た。
まもなく夜が明けるだろう。
夜明け前の静けさは貴重だ。
僕は、この時間が好きだった。
背後から人の歩く音がきこえてきた。
振り返ると、そこにいたのはテレヴォだった。
いまはヴィルデから借りた、実に庶民的な服に着替えている。
「アーリングくん、ちょっといい?」とテレヴォが言った。
「はい、なんでしょう」
「さっきの、大丈夫だった?」
「えっと……」僕はテアと、ビョルンとの会話を思い返した。「どうなんでしょう。たぶん大丈夫だと思います」
「大丈夫なの? 苦しくない?」
「苦しい?」よく意味がわからなかった。えっと……師匠のビョルンと戦わなければならない、という話を聞いていたのだろうか。「辛いですけど、大丈夫です」
「我慢しなくてもいいからね……」
我慢?
「その……手でしてあげよっか?」
王女様が何を言うてんねんな。




