第89話 ときどきですね
「お疲れ様でした」と言って、リネアはベッドから立ち上がった。
彼女は洗面所へと向かった。
水流の音が聞こえてくる。
どうやら口をゆすいでいるようだった。
まあ、なんというのか、テレヴォのギフトの後遺症も無事収束し、僕は疲れ果てていた。
あの塔でどれだけ走ったかわからない。
これから数日間は筋肉痛がひどいだろう。
僕達は借りている宿屋へと戻ってきていた。
時刻は夜中と朝の中間くらいだ。
テレヴォはビルギットの部屋で警護してもらっている。
この宿屋も、いつ追手が来るかわからない。
さて、どこへ行くべきか……。
もう眠りたいところだったが、さっさとここを立ち去らなければ危険だ。
少しだけ休んで、夜が明ける前には出発する予定だった。
またリムグレーペにでも行くか……。
あそこはきれいな土地だった。
なんてことを考えていたときだった。
――チリン、チリン。
居間に置かれた呼び鈴が鳴った。
宿屋のフロントと繋がっている、来客を知らせるための魔道具だ。
衣服と髪を整えたリネアが洗面所から出てきて僕を見た。
出ないわけにもいかないだろう。
僕がうなずくと、リネアは寝室を出てリビングへと移動した。
そのまま、呼び鈴の横にある受話器を手に取った。
「はい。ええ。わかりました。少々お待ちいただけますでしょうか。確認いたします」と言って受話器を遠ざける。
リネアは僕に向き直った。
「旦那様。ビョルン様がお見えです」
◇◇◇
迷ったが、ビョルンを通すことにした。
フロントに確認したところ、ビョルンはひとりで来ているようだった。
もし僕を捕まえるつもりであれば、ひとりでは来ないはずだ。
ノックの音がした。
リネアが出迎える。
開いたドアから現れたのは、僕の剣の師匠であるビョルンだった。
彼は鎧を着ていた。
普段着にしているのだ。
昔から、鎧しか着ない。
変な人なのだった。
……そういえば、ビルギットさんも、ほとんど鎧だな。
まあ、戦士というのは、そういうものなのかもしれない。
僕とビョルンは、リビングのテーブルに向かい合うようにして着いた。
リネアは僕のそばに立っている。
他の皆には、部屋で待機してもらっていた。
ビョルンはリネアの入れた紅茶を飲み、そして微笑む。
「……聞いたぞ、アーリング。第二王女と駆け落ちするそうじゃないか」
「いいえ」となぜかリネアが答えた。
「冗談だ」ビョルンは言った。「逮捕されていた第二王女を救い出したのは、お前だな?」
「ノーコメントです」と僕は言った。
「すでに国王からの勅命が一部に通達されておる。一般のレベルには下りてきていないが、お前たちは指名手配をされている状態だ」
指名手配か……。
覚悟の上だったけれども、さすがに早く王都をでないとまずい。
いや、王都を出るにしても、関所や門などでの検問を、どうかいくぐるか?
「僕以外も、全員が指名手配ですか?」
「儂が知る限りは……テレヴォ王女、アーリング、リネア、そして天才魔法使いのシリヤと、聖女キルステーナは指名手配に入っているようだ」
ヴィルデとビルギットを除く全員だった。
シリヤは天才ということで名も知れ渡っているし、キルステーナはテレヴォの依頼を受けていたからだろう。
「……父上は、なんと?」
「いや、なにも聞いておらんよ。動くのかどうかもわからん」
そして、ビョルンは僕の目を見て言った。
「アーリング、仲間を連れて逃げろ。わしが、ここに来たのは、そのためだ」
「ええ、そうさせてもらいます。一旦、北へ逃げようと思いますが」
「リム・グレーペか? あそこは……どうだろうな。廃炉で王都から人が多く移動している。危険やもしれぬ」
「そうですか……」
さすがにフィエルヘイムに戻るというわけにもいかないだろう。
僕の本拠地だ。
先回りをされていると考えて間違いない。
「なあ、アーリング。次に会うとき、わしは王国騎士団長として、お前を反逆者として討伐せねばならんよ」
「はい、師匠。いま斬られないだけでも、ありがたいと考えています」
「そのときは、わしを斬れよ、アーリング。お前は時代をつくれる男だ。わしを超えろ。父を超えろ」
「……斬れませんよ」と僕は言った。
「私が斬るので大丈夫です」とリネアが言う。
その言葉にビョルンは声をあげて笑った。
そして、すぐに真面目な顔に戻った。
「なあ、アーリング、前にもした質問だが、避妊はしているか?」
リネアがビョルンを睨む。
懐に忍ばせたナイフに手を伸ばしたのが見えた。
僕は、なんと答えるか迷い……。
正直に答えることにした。
「ときどきですね」
その答えに、ビョルンは満足したようにうなずいた。
「そうか。覚悟を決めたのだな。地獄を行くか」
「リネアと一緒に歩んでいきます。地獄だろうと、どこまでも」
「わかった」そう言って、ビョルンは下を向いた。
そして、彼は手を目元に当てていた。
どうしたのだろう。
めまいでもしたのだろうか、と心配していると。
「……良かったな」とビョルンが震えた声で言った。
泣いている?
どういうことだ?
ビョルンが人前で泣くなど、あり得ない話だ。
「リネアよ、アーリングを頼んだぞ」
「ビョルン様に頼まれなくても、旦那様は私のものです」
「ふん、まあ、そうだな。たしかにな」
ふぅ、とビョルンは息を吐いた。
「そろそろお暇するよ」
「ひとつ質問に答えていただけますか?」とリネアが言った。
「ああ、良かろう」
「……私に妹がいるかどうか、ご存知ですか?」
「妹?」とビョルンは不思議そうな顔をする。
僕も同じ意見だった。
妹がいるかどうかなど、自分がよく知っていることではないのか。
「ご存じないようですね」
「……知らん」とビョルンは言った。それは真実を語っているように見えた。「ただ……」
そこでビョルンは言葉を切った。
つづきを待っていたが、何も言わない。
「ただ、なんでしょうか」とリネアが追求する。
「ただ……、いや……言わないほうが良いんだろうが……」
「言ってください」とリネアが強い口調で言った。
「わしも詳しいことを知っているわけではない。おそらくは誰もたしかなことは知らんはずだ。だが……もしかしたら、姉はいるのかもしれん」
「姉ですか?」とリネアは驚いた顔をする。
想定外の答えだったのだろう。
僕だって想定外だし、なぜビョルンがそのことを知っているのかも不思議だ。
「わからん。嘘かもしれん。わしの、ただの妄想だろう。きっとな」
そう言って、ビョルンは手元にあったフロントにつづく呼び鈴を手に取った。
「使っても良いかな? 人を待たせていてね」
「人というのは?」リネアが冷たい声で言った。「追っ手ですか?」
「いや、わしからの最後のプレゼントだ」
そう言って、ビョルンはフロントと連絡を取っていた。
しばらく待っていると、ドアをノックする音が聞こえた。
リネアが近づいていってドアを開ける。
すると、そこにいたのは……。
「お久しぶりです、アーリング様」
そう言って頭を下げたのは、僕の元婚約者、テアだった。




