第88話 副作用
僕達は螺旋階段を駆け下りていた。
テレヴォ王女のギフト【エーヴィ・キルデ】によって、僕もリネアも、体力は完全に回復している。
そのおかげで、僕たちは追手の騎士たちよりも遥かに早いスピードで、この階段を降り続けることができていた。
シリヤもテレヴォも意識を取り戻していたが、このまま抱えていたほうが早い。
ということで、僕がシリヤを、そしてリネアがテレヴォを背負って進んでいた。
背後から聞こえていた足音は、いつの間にか遠くなっている。
徐々に距離を離せているようだ。
とはいえ、このまま地上まで逃げたところで、どうやって脱出するのか?
最初に通ってきた道は、猫だったから通れたのだ。
ひたすら階段を降りながら、どうしたものか……と考えていると。
「にゃーん」
場違いなほど、のどかな鳴き声。
僕たちのすぐ下の階層、螺旋階段の石壁に穿たれた小さな窓枠に、一匹の猫がちょこんと座っていた。
白、茶、黒の三色の毛並みを持つ、ごくありふれた三毛猫だ。
「猫……?」
シリヤが不思議そうに呟く。
だが、僕にはわかった。
あの、庶民的でありながら、どこか俊敏で頼もしさを感じさせる佇まい。
そして何より、僕を見つめるその翠色の瞳。
「ヴィルデさん!」
僕が叫ぶと、三毛猫は「にゃーん(その通りです!)」とでも言うように、誇らしげに一声鳴いた。
そして、ひらりと身を翻し、窓枠からどこかへと消えてしまう。
「追うぞ!」
僕たちは、その窓枠へと駆け寄った。
窓の外は、漆黒の夜闇が広がっているだけだ。
だが、窓枠のすぐ下、石壁に沿うようにして、人が一人やっと通れるほどの、古びた石の通路が続いているのが見えた。
隠し通路か!
「お待たせしました、アーリング様!」
通路の先、闇の中からヴィルデが人間の姿に戻って現れた。
◇◇◇
ヴィルデは、どうやらグローアの魔法で猫となり、僕たちを迎えに来てくれていたらしい。
ヴィルデが用意してくれた脱出路は完璧だった。
隠し通路の突き当たり、そこは塔の外壁に面した小さなバルコニーになっていた。
眼下には王都の夜景がきらめいている。
そして、そのバルコニーの手すりには、一本の頑丈なロープが固く結びつけられ、遥か下の地面へと垂らされていた。
「ここから、一気に地上へ!」
ヴィルデの言葉に、僕たちは頷く。
「私が先行します! 殿はリネアさんにお願いします!」
ヴィルデがそう言って、真っ先にロープを掴む。
彼女は狩人としての経験からか、驚くほど滑らかに、音もなく闇の中へと消えていった。
さて、残るは僕とリネア、そしてシリヤとテレヴォ王女の四人だ。
「それでは、私が旦那様を抱えて降ります」
リネアが完璧な無表情のまま、さらりと言った。
「いや、それじゃシリヤとテレヴォが残されるだろ」
「冗談です」
いま冗談を言っている場合か!
さて……。
僕はシリヤとテレヴォ王女をちらりと見た。
二人とも衰弱しているが、体格的にはテレヴォ王女のほうが少しだけ……豊満だった。
(……リネアのほうが力持ちだから、僕は軽い方にしよう)
僕は、そんな失礼な思考の末に結論を出した。
「僕はシリヤを降ろすよ」
「……アーリングくん、いま私のほうが重いだろうなって思ったでしょ」
テレヴォ姫が、じとーっとした目つきで僕を睨みつけてきた。
勘が鋭すぎる!
僕は何も言わずに、シリヤの身体を抱え上げた。
「しっかり掴まってて」とだけ言うと、シリヤが、ぎゅっと捕まってきた。
シリヤの体の柔らかさと温かい感触が、腕を通して伝わってくる。
そのときだった。
「あ、アーリングさんの……固くなってます……! こんなときになんで私の体に興奮してるんですか!」
しん、と。
時が、止まった。
……くそ、バレてしまったか。
実は、さっきから黙っていたが、ずっと……。
僕の下腹部が、非常に、なんというか、元気になっていたのだ。
「あ、ごめん」とテレヴォ姫。「言い忘れてたけど、私のギフトの副作用って、それなんだよね。男の人が元気になっちゃうみたいで……」
厄介な副作用だな……。
「……私の体に興奮したわけじゃないのですね?」とシリヤ。
「ああ、不可抗力だ。シリヤの体に興奮してないぞ」
「なんで私の体で興奮しないんですか!」と逆ギレする。「貧相だからですか! 私、胸はたしかに少し控えめですが、お尻は自信があるんですよ!」
知らんわ!
シリヤは尻や、じゃねえんだ!
「旦那様」リネアが冷静な口調で言った。「その有り余る活力は、あとで私が責任をもって解消してさしあげますので、ご安心ください」
言わんでいいだろ!
こんなところで!
「わ、私も、その……頑張ります」とシリヤ。
「ま、私のギフトが原因なんだし、その……手伝ってあげてもいいけどね……」とテレヴォ。
話がややこしくなってきた……。
助けてくれ……。
そのとき、塔の上から追手の怒号が聞こえてきた。
我に返った僕はロープを掴む。
「行くぞ!」
僕はシリヤを抱えたまま塔の壁を蹴った。
腕の中のシリヤが、僕の首にぎゅっとしがみついてくる。
風が唸りを上げ、僕たちの身体を容赦なく揺さぶる。
だが、僕の心は、先ほどまでの絶望的な状況とは別の意味で、それどころではなかった。
腕の中のシリヤの柔らかな感触と、僕自身の身体の正直すぎる反応が、僕の理性を容赦なく削っていく。
(早く地上に着いてくれ……! いろんな意味で!)
魂の叫びが天に通じたのか、数分にも、永遠にも感じられた降下は、ようやく終わりを告げた。
僕の足が地面の感触を捉える。
続いて、リネアもテレヴォ王女を抱えたまま、音もなく僕の隣に着地した。
「アーリング様! お見事です! 皆様、ご無事で何よりです!」
先に降りていたヴィルデが、満面の笑みで駆け寄ってくる。
その純粋な賞賛の言葉が、今の僕には何よりも眩しい。
僕はシリヤをそっと地面に降ろすと、安堵のため息をついた。
「えっと、アーリング様、なんで前かがみなんですか?」とヴィルデが純粋な目で僕を見ていた。
「……諸事情でね。気にしないでくれ」




