第86話 【エーヴィ・キルデ】
僕たちは螺旋階段を登っていた。
塔全体に警報が鳴り響き、背後からはフィヨーラ王女の狂気に満ちた絶叫と、複数の騎士たちが鎧を鳴らす金属音が、狭い螺旋階段に反響している。
「アーリング様、もうすぐです!」
シリヤが叫ぶ。
僕たちの殿を務めるリネアが、追手の騎士の一人を回し蹴りで階段の壁に叩きつけた。
それに巻き込まれ、騎士たちが階段を転がっていく。
彼女がいなければ、僕たちは一瞬で追いつかれていただろう。
「旦那様、お急ぎください! 数が多すぎます!」
最後の数段を、もつれる足を叱咤して駆け上がる。
ついに僕たちは塔の最上階、主観測室へ到着した。
「シリヤ、扉を塞げるか!」
「はいっ!」
僕の叫びに、シリヤは杖を扉へと突き出した。
「―――『三重防護結界』!」
扉全体が淡い光に包まれ、魔術的な壁が形成される。
だが、彼女の額には汗が浮かび、その表情は苦痛に歪んでいた。
「くっ……! アーリング様……もって三分です! それ以上は……!」
三分。
それが、僕たちに残された時間だった。
僕は部屋の中央に置かれた巨大な鳥籠へと駆け寄る。
手に入れた古びた鍵を鍵穴へと差し込んだ。
―――ガチャリ。
重い音を立てて、牢獄の扉が開かれる。
中に横たわっていたのは、衰弱しきった第二王女テレヴォだった。
彼女は突然現れた僕たちの姿を認めると、虚ろだった瞳が焦点を結んだ。
僕は彼女に肩を貸し、助け起こす。
「……その結界、三分ともたないでしょう」かすれた声でテレヴォが言った。「脱出経路は?」
「残念ながら、いまから考えます」と僕は正直に答えた。
王女は僕の声をきいて、ようやく誰だかわかったようだ。
「……アーリングくん、久しぶり」
「久しぶりというか、正確には二年三ヶ月と四日、そして三時間十五分二十秒振りだね」と僕は適当なことを言った。
言わなくてもいいことだし、言うべきシーンでもないのだが、つい本当にどうでもいい冗談を言いたくなってしまったのだ。
テレヴォは顔をしかめる。
「きもちわるっ。こわっ。きみ、わたしのストーカーなの? だから助けに来た……っていうか誘拐にしにきた?」
「冗談だ。本気にするな」怖いのは君の姉さんだ。
しかし、どうも口調が王女様っぽくない人だ。
そういえば、庶民派という噂を聞いたことがあったような気もするな……。
テレヴォは僕から体を離し、自分で立とうとしたが、ふらりと倒れそうになる。
僕は再び彼女の肩を支えた。
テレヴォはため息をついた。
「……助けてくれてありがとうって言いたいところだけど、それは、助かってからにする。いま言っても言い損になりそうだから」
気の強い女性だな、と思った。
しかし、リアリストだ。
僕はテレヴォを連れて牢屋から出た。
まさにその瞬間だった。
―――ピシッ!
シリヤが展開していた結界に、大きな亀裂が走る音がした。
「アーリングさん! そろそろ限界です!」
どうする?
僕は思考を巡らせる。
窓から飛び立つなんてことは不可能だ。
もしかしたら、外で待機しているグローアが助けてくれるかもしれないが、それに賭けるのは、あまりにも危険だ。
全員を倒すなんてことは不可能だろう。
それならば、僕がフィヨーラに降伏を申し出て、囮になる。
その隙に皆を逃がす……。
いや……。
―――ガシャンッ!
シリヤの結界、一重目がガラスのように砕け散った。
「……見つけましたわ。私の、アーリング様」
フィヨーラの瞳は、僕への歪んだ執着と、その腕の中で庇われている妹への、燃え盛るような憎悪で赤く染まっていた。
扉の内側に、二重目と三重目の結界がぎりぎり残っていた。
しかし、二重目の結界にもひびが入りはじめている。
「魔力が……もう……!」シリヤが言った。
◇◇◇
絶体絶命。
リネアが僕とテレヴォの前に立ち、短剣を構える。
だが、この人数差では、もはや気休めにしかならない。
「……旦那様」リネアが敵のほうを向いたまま言った。「全員、殺してしまっても構いませんか?」
死亡フラグみたいなことを言うリネアだった。
「……何をするつもりだ」
「こんなこともあろうかと、奥の手を用意してあります」
そう言って、彼女は懐から黒い球のようなものを取り出した。
僕の【賢者の知識】が、その物体の正体を瞬時に理解する。
手榴弾……異世界の爆弾だ。
「ただし、私達は第一王女殺害の犯人として、国から追われることになります」
「いや、それは……いくらなんでも……」
「人の姉を殺す作戦を立てるの、やめてくれる?」とテレヴォ。「あんなのでも、私の大切な姉さんなんだから」
テレヴォはゆっくりと僕から身体を離すと、膝をつくシリヤの元へ、ふらつきながらも自らの足で歩み寄る。
「天才魔術師、シリヤ・リサンド」テレヴォは、シリヤの肩にそっと触れた。「私の力を使いなさい」
その瞬間だった。
世界が、黄金色の光に満たされた。
テレヴォ王女の身体から、純金の奔流のような、温かく、力強い光が溢れ出したのだ。
それは、シリヤの身体へと、優しく、力強く流れ込んでいく。
「こ、これは……!?」
シリヤが驚愕に目を見開く。
枯渇していたはずの彼女の魔力が、急速に回復していくのが、僕の【神の瞳】にも視えた。
「これは……ギフトなのか?」と僕はつぶやいていた。
「……そう。姉さんが人の力を奪うギフトで、私は、人に力を与えるギフト。―――『【エーヴィ・キルデ】』(永遠の泉)。私は、1日3回しか使えないし、副作用もあるけどね」
「え、副作用があるんですか」とシリヤ。
「女性は大丈夫。副作用があるのは男性だけ」
テレヴォがそう言って悪戯っぽく微笑んだ、まさにその時。
―――バリンッ!
最後の結界が、ガラスのように砕け散った。
騎士たちが、雄叫びを上げて僕たちへと殺到してくる。
好機は今しかない。
完全に復活し、有り余るほどの魔力をその身に宿したシリヤに叫ぶ。
「―――シリヤ、光を!」
「はいっ!」
僕の号令に、彼女は完璧に応えてくれた。
杖を天に掲げ、増幅された全ての魔力を、一つの魔法へと収束させる。
「―――来たれ、夜を穿つ暁の閃光よ!」
放たれたのは攻撃魔法ではない。
この塔の最上階全てを白く染め上げる、凄まじい『目くらまし』の閃光。
それは、暴力的なまでの純粋な『光』そのものだった。
「ぐっ……!?」
「目、目がぁ……!」
フィヨーラも、親衛隊の騎士たちも、そのあまりの眩しさに視力を奪われ、その場に蹲る。
思考も、動きも、完全に停止した。
僕たちの目の前に、一筋の活路が開かれた。
「―――今だ!」
僕たちは混乱する騎士たちの間を駆け抜けて、螺旋階段へと飛び込んだ。




