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第85話 俺だけのものになれ

「さあ、アーリング様。治療の時間ですよ」


 ナイフの切っ先が、シリヤの白い喉元に突き立てられている。

 僕とリネアは、動けない。

 第一王女フィヨーラは、その美しい顔に笑みを浮かべたまま、僕に選択を迫っていた。


(くそっ……! どうすれば……!)


 思考が焦りで空転する。


 僕の【神の瞳】は、フィヨーラの魂を蝕む『天秤』の歪みを正確に視ていた。

 だが、視えたところで、打つ手がない。


 物理的にも、魔術的にも、彼女は僕たちを圧倒している。


「早く……! 早く、私だけのものに……!」とフィヨーラがナイフを動かそうとする。


 僕が唇を噛み締めた、まさにそのコンマ数秒の隙間。


「――旦那様」


 背後から、リネアの、ほとんど唇を動かさない、息だけのような囁きが僕の耳に届いた。


「口説いてください」


「……は?」


 思わず、僕の視線がほんの一瞬だけリネアへと泳いだ。


 その僅かな動きをフィヨーラは見逃さなかった。


「どこを見ているのですか!」


 ヒステリックな声が響く。


「私だけを見ていなさい! アーリング様! あなたのその瞳は、私だけのもののはずでしょう!?」


「わ、わかった! わかったから、少しだけ待ってくれ!」


 僕は必死に彼女をなだめ、時間を稼ぐ。


「きみがあまりにも美しすぎて、心の準備がいるんだ。君と向き合うための」


 その言葉は、彼女の歪んだ自尊心を的確に満たしたらしい。

 フィヨーラは「……ふふっ」と満足げに微笑むと、ナイフの力をほんの少しだけ緩めた。


「よろしいでしょう。最高の舞台を用意してさしあげますわ」


 その、一瞬にも満たない、しかし決定的な隙。


 僕がフィヨーラの注意を引きつけている間に、背後のリネアが再び、高速で囁いた。


「思考を飽和させ、隙を作るしかありません。私にお任せください」


 そしてリネアは一瞬、なにか手でサインを送っていた。

 僕の首と、リネアの首を交互に示していた。

 それはシリヤに向けてのものだ。


 それを見て、シリヤは目をぎゅっとつむった。


「リネア、いったい僕はどうすれば……」と囁いた僕の声が変だった。


 僕の声が、聞き慣れた、リネアのソプラノボイスになっていた。


 ―――次の瞬間。


「……始めます」とリネアが僕の声で言った。


◇◇◇


「……フィヨーラ」と僕は言った。


 いや、正確には、リネアが僕の声で囁いているだけだ。

 僕は、少し遅れてその言葉にあわせて口を動かしている。


 僕の声に、フィヨーラの肩がぴくりと震えた。

 彼女の瞳に、警戒と、そして期待の色が浮かぶ。


「……なんですの、アーリング様。今更、命乞いですか?」


「……違う。命乞いなどではない。ただ、お前に、俺の本当の気持ちを、伝えたくなっただけだ」


(俺!? 僕はそんなこと言わないよ……!)


 だが、そのアーリングらしくない言葉こそが、フィヨーラの心を揺さぶる、最初の楔となった。


「……あなたの、本当の、お気持ち……?」


 彼女の瞳が、戸惑いに揺れる。


 リネアは、その好機を逃さない。


「フィヨーラ……。お前を、誰にも渡すものか。テレヴォも、このメイドも、お前と比べるべくもない。お前は美しい。……俺だけのものになれ」


(うわああああああ! なんだその台詞は! 恥ずかしすぎる!)


 自分の声で、聞いたこともないような独占欲に満ちた愛の言葉を聞かされる。

 それは、拷問以外の何物でもなかった。

 僕の顔が、羞恥でみるみるうちに熱くなっていくのがわかる。


 だが、その拷問は、フィヨーラにとっては、至上の福音だったようだ。

 彼女の瞳から、警戒の色が完全に消え失せた。

 その頬が、ほんのりと上気し、うっとりとした表情で僕を見つめている。


「アーリング……様……」


 彼女の魂が、歓喜に打ち震えているのが、僕の【神の瞳】にははっきりと視えた。

 長年、彼女が心の奥底で渇望していた、ただ一つの言葉。

 誰よりも優先され、誰よりも強く求められること。

 リネアは、僕ではない偽アーリングの一面を完璧に演じきることで、フィヨーラの心の、最も柔らかい場所を的確に貫いたのだ。


 シリヤの喉元に突きつけられていたナイフが、力なく、だらりと垂れ下がった。

 彼女を縛り付けていたギフトの力も、完全に霧散している。


 ―――今、しかない。


◇◇◇


 フィヨーラが、偽りの愛の言葉に完全に酔いしれた、その一瞬の隙。


 それを、リネアが見逃すはずがなかった。


 音はなかった。

 彼女は呆然と立ち尽くすフィヨーラの腕から、いとも容易くシリヤの身柄を奪い返した。


 同時に、僕とリネアの声帯が、再び元のあるべき場所へと戻る。


「――っ!?」


 腕の中の温もりが消え、フィヨーラは、はっと我に返った。

 全てが偽りだったのだと、ようやく理解したのだろう。


「……裏切ったのですね」


 その声は氷のように冷たかった。

 先ほどまでの恍惚とした表情は消え失せ、その美しい顔には、憎悪の色が浮かんでいた。


「アーリング様アアアアアアアアアアアアアッ!!」


 狂気の絶叫が響き渡る。

 だが、僕たちはもう、その声に足を止めることはなかった。


「行くぞ!」


 牢獄の鍵を手に、僕たちはフィヨーラの寝室から脱出する。

 目指すは、本来の目的地――第二王女テレヴォが囚われている、主観測室の鳥籠だ。


 背後から、愛と憎しみが入り混じった、狂気の叫び声が追いかけてくる。

 まもなく侍従たちも追いかけてくるだろう。


 そんななか。


「ふふ……」と笑うシリヤ。


「何笑ってるんだ」


「俺だけのものになれ……ぷぷぷ」


「笑うな!」


 ちくしょう!

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