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第83話 ――お楽しみ中でございますか?

 湯気が視界の全てを白く染めていた。

 ここは第一王女フィヨーラ専用の浴室らしい。


(……最悪だ)


 僕の身体を抱きかかえているのは、フィヨーラ王女その人だ。


「さあ、綺麗になりましょうね。なんて良い子なのかしら」


 その声は、慈愛に満ちた聖母のようだ。

 その指先が僕の喉元を優しく撫でるたびに、うっかり、ごろごろと喉を鳴らしてしまう。

 そんな場合じゃないのはわかっているが、どうもさっきから思考が猫に寄ってしまっている。


(まずい、まずい、まずい……!)


 変身魔法の限界時間が、刻一刻と迫っている。

 もう、余裕はない。


 フィヨーラの指が、石鹸を泡立て僕の身体を洗い始める。

 その手つきは優しかった。

 だが、その優しさこそが、今の僕には何よりの拷問だった。


(早く、ここから逃げ出さないと……! リネアとシリヤも、僕を待っているはずだ……!)


 焦り、逃げようとするが、すぐに捕まってしまう。


「こらこら、逃げちゃだめですよ」


 楽しげに僕をいさめると、彼女の指はさらに大胆に、僕の身体の隅々までを洗い始めた。そして、ついにその指先が、僕の下腹部へと辿り着く。


「あら、まあ……」


 フィヨーラは、何かを発見したかのように、くすりと小さく微笑んだ。


「あなた、男の子でしたのね。ふふっ、元気でよろしい」


(なっ……! やめろ、そんなところまで見るな!)


 尊厳が音を立てて砕け散る。

 羞恥で身体中の毛が逆立つのがわかった。

 だが、僕の意思とは裏腹に、猫の身体は正直だ。

 彼女の温かい指先の感触に、尻尾がぴんと硬直してしまう。


 もはや、僕にできることは何もない。

 ただ、この小さな獣の身体で、されるがままになっているだけだった。


 やがて、フィヨーラは僕の身体を清め終えると、満足げに微笑んだ。


 そして、あろうことか、僕を腕に抱いたまま、自らも湯船の中へとその身を沈めてきたのだ。

 湯がざあっと音を立てて溢れ出す。


 彼女の豊かな胸の谷間に、僕の顔が埋まる形になった。

 柔らかく、温かい感触。

 花の香り。


 リネア、すまん……。

 不可抗力なんだ……。

 僕は喜んでなんかいないんだ……。


 そう思った、次の瞬間だった。


 僕の身体の芯で、何かが、ぷつり、と切れる感覚があった。


(―――あ)


 タイムリミットだ。


 ―――『ボンッ!』


 間抜けな音と共に、僕の身体を包んでいた変身の光が弾けた。

 猫の小さな身体が、一瞬にして膨張する。

 湯が、爆ぜるように飛沫を上げた。


 しん、と。

 浴室に静寂が落ちる。


 僕は生まれたままの姿で、裸の王女の腕の中にいた。

 彼女の、驚きに見開かれた瞳が、至近距離で僕を捉えている。


 僕の思考は完全に停止した。

 終わった。


 こうなったら、焦っても仕方がない。

 というか、なんとかするしかない。


「やあ、久しぶりだね」と場にそぐわない言葉を口に出してみた。


「あ、え? あ、はい……。え?」フィヨーラは混乱しているようだ。「……久しぶりといいますか、正確には二年三ヶ月と四日、そして二時間十五分三秒振りです」


 細かく覚えすぎだ。

 記憶力がやばすぎるだろ。


「さて、そろそろのぼせそうだから、僕は出ることにするよ」


 そう言って、ごくごく自然に(?)湯船から出ようとしたときだった。


 ぬっ、と。

 湯の中から伸びてきた白い腕が、僕の手首をがしりと掴んだ。

 華奢な見た目からは想像もつかない、凄まじい握力だ。


「お待ちくださいませ」


 フィヨーラの声は、先ほどまでの混乱が嘘のように、静かで、冷たい響きを帯びていた。

 僕がぎょっとして彼女の顔を見ると、その美しい瞳が、ゆっくりと、僕の全身を舐めるように観察していた。

 値踏みされているような、不快な視線。


 やがて、彼女の唇の端が、ゆっくりと吊り上がっていく。

 それは、獲物を見つけた捕食者の笑みだった。


「……そう。そういうことでしたのね」


 彼女は、全てを理解したとでも言うように、うっとりとため息をついた。

 だが、次の瞬間、その表情から笑みがすうっと消え、氷のように冷たい猜疑の色が浮かんだ。


「アーリング様……。会いたかった。ずっと、お会いしたかったです。でも……どうして、ここに? まさか……あの女のため?」


 あの女。

 第二王女テレヴォのことだろう。


 僕が肯定も否定もできずにいると、フィヨーラの瞳が、深い絶望に揺らめいた。


「ああ、やはり……! 可哀想に……。可哀想なアーリング様。あなたも、テレヴォに騙されているのですね」


 フィヨーラは言葉をつづける。


「あの女は、人の心に巧みに入り込む魔物なのです。私から、父様の寵愛も、母様の笑顔も、そして……幼い頃のあなた様とのささやかな思い出までも、全て奪っていった……!」


 憎悪と悲しみが入り混じった、魂からの叫び。


 僕の【神の瞳】には、彼女の魂を蝕む病巣がはっきりと視えていた。

 全ての事象を妹の陰謀と結論づけてしまう、強迫的なパラノイア。

 そして、その根源にあるもの……。


 それは、ミズール老侯爵を歪めたのと同種の力だった。

 悪意ある誰かによって傾けられた、例の『天秤』がもたらす、決定的な歪みだった。


「でも、もう大丈夫ですわ」


 フィヨーラは微笑んだ。

 だが、その瞳の奥は、底なしの狂気に満ちている。


「私が、あなたのその『病』を、治してさしあげます。ええ、『治療』してさしあげなければ……」


 冗談じゃない!

 治療されるべきは、僕じゃなくてきみのほうだ!


 この女は、本気だ。


 僕は残された力を振り絞り、彼女の手を振りほどこうともがいた。

 だが、フィヨーラは僕の抵抗に、笑みで応える。


「あらあら、患者様が暴れてはいけませんわ。……少し、お静かになさい」


 彼女がそう囁いた瞬間、僕の手首を掴むその指先に、ありえないほどの冷気が宿った。

 ぞわり、とした悪寒が神経を駆け上がる。

 僕の全身から、一気に力が抜ける。


(なっ……!?)


 動かない。

 脳が「動け」と絶叫しているのに、身体は、ぴくりとも反応しない。


 ギフトだ。

 間違いない。


「ふふっ。無駄ですわ。私のギフト……【人形師の指先】は、触れた対象から、動こうという意思だけを奪ってしまうのです。動きたくても、動けないでしょう?」


 彼女はうっとりと僕の顔を覗き込む。


 抵抗できない僕を、彼女はゆっくりと湯船から引き上げた。

 用意されていたバスローブを羽織らされた。

 湯船から上がったフィヨーラは、いつの間にか肌が透けるほどの薄い絹の寝間着ネグリジェだけを身にまとっていた。

 その姿はあまりにも扇情的だった。

 しかし、その瞳に宿る光はどこまでも理性的で、冷たい。


 寝台まで来ると、彼女は僕をそこに横たわらせた。

 そして、どこから取り出したのか、手錠で、僕の手首をベッドの支柱へと繋いでしまう。


 カシャン、と。

 冷たい金属音が、僕の自由が完全に失われたことを告げていた。


「これで、もうどこへも行けませんわね。私のアーリング様」


 フィヨーラは幸福に満ちた笑顔で、鎖に繋がれた僕の手を両手で包み込んだ。


「……恥ずかしいですが、私の初めてを、あなたに捧げますわ。アーリング様のはじめても、いただきます」


 いや、僕は、はじめてではないんだが……。


 フィヨーラが彼女自身の寝間着の、肩にかかった細い紐にそっと手をかける。

 その指が、今まさに、その守りを解き放とうとした、まさにその瞬間だった。


 ふと、視界の隅、薄暗い天井の梁の上で、何かが、ほんのわずかに動いた気がした。

 月明かりが差し込む窓から遠い、闇に溶けたその場所に、僕は必死に視線を凝らす。


 闇の中に、二つの、青い光点があった。

 いや、光点じゃない。

 瞳だ。


 その瞳が、ゆっくりとこちらを見下ろしている。

 やがて、その主が音もなく身じろぎし、月光の差す場所へと、その姿を現した。


 そこにいたのは、一匹の美しい白猫だった。

 古びた梁の上で、まるで最初からそこにいたかのように、優雅に香箱座りをしている。

 その姿は、間違いない、リネアである。


 彼女は、眼下で繰り広げられるこの痴態を、まるで芝居の一幕でも鑑賞するかのように、静かに見つめていた。

 その完璧な無表情からは、焦りも、怒りも、何一つ読み取れない。

 だが、僕にはわかった。

 あの、ほんの少しだけ呆れたような、僅かな首の傾げ方。

 その目は、雄弁に語っていた。


『――お楽しみ中でございますか?』


 ――良いから、さっさと助けてくれ!

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