第77話 二人の王女
昨夜の、あのリネアの気まずい問いかけ。
その答えが出ないまま夜は明け、僕たちは早々に宿を出発しようとしていた。
リネアは、昨夜の出来事などまるで存在しなかったかのように、いつも通りの完璧な無表情で、淡々と出発の準備を整えている。
ヴィルデとビルギットは、そんな僕たちの微妙な空気を察してか、少し離れた場所で馬の様子を見ていた。
問題はシリヤだ。
彼女は馬車のそばで落ち着きなくうろうろと歩き回り、何か言いたげに僕の方をちらちらと見ている。
天才魔術師の面影はなく、完全に挙動不審だった。
(……まあ、そうなるよな)
僕が苦笑しながら馬車に乗り込もうとした、まさにその時だった。
「あ、アーリングさん! その……出発前に、ほんの少しだけ、よろしいでしょうか!」
意を決したように、シリヤが僕の腕を掴んだ。
そして、皆から少しだけ死角になる、建物の裏へと僕をぐいぐいと引っ張っていく。
「どうしたんだい、シリヤ?」
「昨夜の、リネアさんの問いに対する、私の論理的帰結を、ご報告いたします」
やっぱりそれか!
シリヤは顔を真っ赤にしながらも、早口でまくし立てた。
「……あなたの半径一メートル以内に接近した際の、私の心拍数の上昇率。あなたの声を聞いた際の、脳内におけるドーパミン及びセロトニンの分泌量の異常値。そして、昨夜の入浴時……あなたの裸体を視認した際の、私の魔力回路の暴走レベル。それら全てのデータを統合し、論理的に解析した結果……」
彼女は一旦言葉を止めて、僕の目をじっと見た。
「リネアさんの問いに対する私の答えは……イエス、です! 論理的にも、感情的にも! 私は、あなたに……その『抱かれたい』と! そう、結論付けられました! 以上、報告終わりです!」
敬礼でもしそうな勢いで言い切ると、シリヤは「では!」と踵を返そうとする。
「いや、ちょっと待て!」
僕がその腕を掴んで引き留めた、まさにその瞬間だった。
「――アーリング様。今のお話、私の耳にも、はっきりと届いておりました」
ひょこり、と。
曲がり角から、聖女キルステーナが姿を現した。
(盗み聞きされてたのか!?)
僕とシリヤが固まっていると、キルステーナは僕の前に進み出て、恭しく両手を胸の前で組んだ。
「私もです」
「……へ?」
「私も、アーリング様に抱かれたいです! ええ、聖女としてではなく、一人の女として、切に! 少し乱暴にされるのを希望します!」
きっぱりと、一点の曇りもない笑顔で、彼女はとんでもないことを言い放った。
僕の思考は完全にショートし、隣ではシリヤが「なっ……! 想定外のパラメータが介入……! 計算が、計算が乱れます……!」と小声でパニックに陥っている。
遠くでリネアが、完璧な無表情のまま、こちらを見て小さく頷いたのが見えた。
もうどうにでもな〜れ。
◇◇◇
僕は諦めの境地で馬車に乗り込んだ。
それは新たな地獄の始まりだった。
僕の右隣はリネアが当然のように確保している。
問題は左隣だ。
「アーリング様、長旅でお疲れでしょう。どうぞ、私の膝を枕に。いいえ、むしろ私を椅子代わりにしていただければ幸いです」
「いえ、キルステーナさん。ここは私が左に座り、アーリングさんの精神的負荷を最小限に抑えるべきかと」
シリヤとキルステーナさんが、僕の左隣の席を巡って、熾烈な火花を散らしている。
向かいの席ではヴィルデが「わ、私もアーリング様のお隣が……!」ともじもじしていた。
ビルギットは「主君の隣席を巡る争い……。騎士として、ここは実力で勝ち取るべきか……」などと物騒なことを呟いていた。
僕の平穏は、どうやら王都に着くまでお預けらしい。
結局、キルステーナが僕の左、そしてシリヤが猫の姿で僕の膝に乗るという結論になった。
猫の姿でいるのは、実は人間の状態よりも魔力を消費しないで楽らしい。
迷い猫の店主、グローアが猫の姿でいたのも、同じ理由だろうか……。
◇◇◇
賑やかすぎる道中を経て、僕たちは街道沿いの大きな宿屋に立ち寄った。
ここが王都へ向かう最後の宿泊所だ。
昼食のあとにそのまま王都へ向かうか、あるいは一泊していくかは時間的にも微妙なところだった。
食堂は、王都へ向かう旅人や商人たちでごった返している。
様々な情報と噂話が飛び交っている。
「それにしても、最近、王都は物騒な噂が多いらしいな」
「ああ、聞いたぜ。なんでも、第二王女テレヴォ様が、姉君である第一王女フィヨーラ様の暗殺を企てたとかで、逮捕されたらしいじゃないか」
隣のテーブルに座っていた商人たちの、そんな何気ない会話が、僕の耳に飛び込んできた。
第二王女テレヴォ様が、逮捕?
姉君、フィヨーラ様の暗殺容疑?
(……なんだ、その話は)
僕が眉をひそめた、まさにその瞬間だった。
隣の席で、キルステーナが紅茶に角砂糖を入れようと、小さなトングに手を伸ばしていた。
その指先が、ふと、空中で凍りついた。
カタン、と。
彼女の肘が、すぐそばにあったミルクピッチャーに、ことりと触れる。
ピッチャーが傾ぎ、中のミルクが、あっという間にテーブルの木目へと広がっていく。
だが、彼女は自分の服が汚れるのも、テーブルが染みになっていくのも、まるで気づいていないようだった。
顔からは血の気が引いている。
その青い瞳は、ただ一点、虚空を見つめたまま大きく見開かれていた。
「キルステーナさん!?」
ヴィルデが心配そうに駆け寄るが、彼女の耳には届いていないようだった。
さっきまでの和やかな食堂の空気が、一瞬にして凍りついた。
僕はキルステーナの腕をつかみ、皆に告げた。
「少し、二人で話してくる。皆はここで待っていてくれ」
◇◇◇
僕はキルステーナを連れて食堂を抜け出した。
宿屋の裏手にある、静かな木陰。
キルステーナはまだ震えていたが、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
彼女は意を決したように、僕に向き直った。
「……アーリング様は、二人の王女様について、どの程度ご存知ですか?」
その問いに、僕は記憶を手繰り寄せた。
王都にいた頃、僕も二人の王女とは何度か顔を合わせたことがある。
姉の第一王女フィヨーラ様、そして妹の第二王女テレヴォ様。
二人とも、控えめだが芯の通った、上品で穏やかな女性、という印象だった。
「第一王女のフィヨーラ様については……」僕は考えながら言った。「最近ご病気で心を乱され、些細なことで家臣を何名か追放なさった、という悪い噂を耳にした程度かな。妹君のテレヴォ様については……正直、ほとんど何も。ただ、姉君を誰よりも案じておられる、心優しい方だと」
僕の答えに、キルステーナは「ええ、その通りです」と力なく頷いた。
「スティッレハウンのミズール家に私がいた理由にもつながるのですが、私も、呪具を追ってあそこにたどり着きました」
そうだった。
そのときは、まだクライアントについては話せない、ということだったが……。
「実は、フィヨーラ様の心を蝕んでいるのも、おそらくは同種の呪いだと思われます。そして、その調査を私に依頼したのが、妹君のテレヴォ様でした」
なるほど。
僕は黙ってキルステーナの言葉を待った。
「テレヴォ様は、姉君の変貌がただの病ではないと気づいておられた。そして、呪いを解くことができるかもしれない、とのことで私に接触されたのです」
順当に考えれば、テレヴォの動きに気づいたフィヨーラが、暗殺を企てているという嫌疑をでっち上げ、逮捕させるに至ったのだろう。
しかし、王女を逮捕するだなんて前代未聞だ。
国が揺らぎかねない。
国王は、自分の娘の逮捕許可を出したということだ。
もし、本当に暗殺を企てていたとしても、なかなか逮捕までは至らないはずだ。
なにか理由をつけて国外へ追放したりするのが普通だろう。
「……アーリング様。王女様をお救いいただくことは、できますか?」
僕はキルステーナの瞳をまっすぐに見て答えた。
「正直なところ、僕ひとりの力でどうにかできることではないと思う。でも、きっと、僕達が力を合わせれば、なんとかなるよ。キルステーナさん。きみも、力を貸してくれる?」
「はい! もちろんです! アーリング様……私、ますますあなたのことを、好きになってしまいそうです」
「……ありがとう」
「私達、両思いですね」
そんなことを言って、キルステーナは僕の手をぎゅっと握ってきた。
うーん、めちゃくちゃポジティブな女だなぁ……。




