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第76話 シリヤさんは、旦那様に抱かれたいですか?

 湯煙の向こうで、月がおぼろげに滲んでいる。


 僕の髪を、リネアの細くしなやかな指が、優しく梳いていく。

 泡立てられた石鹸の、花のようないい香りが鼻腔をくすぐった。


(……ああ、生きているな)


 ようやく一息をつくことができた。

 王都への帰路にある宿場町で、僕達は少し豪華な宿を取った。

 そこは月を見ることのできる、風流な露天風呂があった。

 そこで、リネアに一緒に入らないか、と誘われたのだ。


 たしかに、それは僕の『はじめて』の異性と入るお風呂だった。


「……はい。終わりましたよ」


 リネアが、桶で優しく泡を洗い流してくれる。

 これで終わりか、と少しだけ名残惜しく思った、その時だった。


 僕の頭にあった彼女の手が、ゆっくりと僕の肩へと滑り落ちる。


 そして。

 背中に、柔らかく、温かい感触が、ぴったりと寄り添った。

 リネアが、僕を後ろから抱きしめていた。


「リ、リネア……?」


 驚いて振り返ろうとする僕の背中に、彼女は顔をうずめる。


「……ミズール家のお屋敷でのことは、本当に、心配いたしました」


 絞り出すような、か細い声。


「ですから……もう、私のそばを離れないと、約束してください。旦那様がどこかへ行ってしまわれるのは……もう、嫌です」


 僕は、彼女の腕にそっと自分の手を重ねた。


「ああ、約束するよ。僕は、もうどこにも行かない」


 僕がそう誓った、まさにその瞬間だった。


 ―――ザブンッ!


 静寂を破り、何かが湯船に落下する、盛大な水音が響いた。


「うわっ!?」


 湯煙の中、ばしゃばしゃと必死にもがいているのは、一匹の美しい白猫だった。


「にゃ、にゃああああっ! にゃっ、ごぼごぼ……!」


 ただの猫じゃない。

 あれは……。


「シリヤ!?」


 なぜ、こんなところに!?

 僕たちの様子を屋根の上からこっそり窺っていたのか。

 そして、足を滑らせて、見事に湯船へとダイブしてしまった、と。


「大丈夫か!?」


 僕は慌てて、お湯の中でもがく彼女の身体をひょいと抱き上げる。

 濡れた子猫のように……というか、実際、濡れた子猫であるシリヤが、僕の腕のなかで、ぷるぷると震えている。

 その、あまりの可愛らしさに、一瞬だけ、見とれてしまった。


 だが。

 僕の腕の中で、彼女の身体がぴたり、と固まった。

 濡れた毛の隙間から覗く紫色の瞳が、ゆっくりと、僕の顔から下へと……僕の、その、むき出しの身体へと、焦点を結んだ。


「にゃっ!?」


 短い悲鳴。

 次の瞬間、彼女の瞳がぐるんと白目を剥いたのがわかった。

 天才魔術師の、論理的思考が完全にショートした瞬間だった。


 ―――『ボンッ!』


 間抜けな音と共に、僕の腕の中の感触が、ふわり、と変わった。

 子猫の重みではない。

 もっと柔らかく、しなやかで、そして、圧倒的なボリュームを持つ、人間の少女の感触へと。


 湯煙が、ゆっくりと晴れていく。

 僕の腕の中には、顔を真っ赤にして固まっている、裸のシリヤがいた。


「…………」

「…………」

「…………」


 僕と、リネアと、シリヤ。

 三人の間に、気まずい沈黙が流れる。


 やがて、その沈黙を破ったのは、シリヤの絶叫だった。


「こ、これは論理的にありえません! 私の完璧な計算が、このような現象を引き起こすはずは……! い、いえ、そもそも私はここにいない! これは幻覚です! ああ、そうですとも!」


 支離滅裂なことを叫びながら、彼女は僕の腕から飛び降りると、目にも止まらぬ速さで脱衣所へと駆け込み、そのまま姿を消してしまった。


 後に残されたのは、呆然とする僕と、やれやれと、深いため息をつくリネアだけだった。


「……旦那様も、お人が悪い」


「え、僕のせいなのか、これも!?」


 リネアは完璧な無表情のまま、しかし、その瞳の奥は明らかに笑っていた。


◇◇◇


 その夜、僕はなかなか寝付けずにいた。

 隣のベッドでは、リネアが小さなデスクライトをつけ、静かに書物を読んでいた。

 その知的な横顔は、昼間の艶っぽさとはまた違う魅力がある。


(……やれやれ。これから、どんな顔してシリヤに会えばいいんだ)


 僕がベッドの中でごろりと寝返りを打った、その時だった。

 枕元に、ふわり、と軽い重みがかかった。


 見れば、一匹の白猫が、僕の枕のすぐ隣にちょこんと座っている。

 シリヤだ。

 彼女は、ぷい、とそっぽを向いて、僕の存在などまるで意に介していない、という態度を貫いている。


(……どこから入ってきたんだ?)


 一瞬不思議に思ったが、すぐに思い至った。

 たしかに今夜は気持ちのいい風が吹いていたから、寝室の窓を少しだけ開けておいたのだ。きっと、あの隙間から忍び込んできたのだろう。


(……いや、気まずいなら、こっちに来るなよ!)


 僕の内心のツッコミも虚しく、彼女はそこを動く気配は一切ない。

 それどころか、僕の枕を少しだけ自分のほうに引き寄せ、我が物顔で毛づくろいを始めた。

 完全に、ここを自分の寝床と定めたらしい。


 僕がこの不器用な天才をどうしたものかと思案していると、リネアがぱたん、と本を閉じる音がした。

 彼女は、僕の枕元を占拠する白猫を一瞥する。

 そして、ふぅ……と、深いため息を一つだけついた。


 リネアは有無を言わさぬ声で、こう告げたのだ。


「人間の姿で、こちらへいらっしゃい」


 彼女が指し示したのは、僕の身体の、左側のスペースだった。

 右側には、すでにリネアが滑り込んでいる。


 白猫――シリヤは、びくりと身体をこわばらせた。

 だが、リネアの『命令」に、彼女は抗うことができなかったらしい。

 もじもじと数秒逡巡した後、『ボンッ』と小さな音を立てて、人間の姿に戻った。


 そして、顔を真っ赤にしながらも、おずおずと、僕の左側の布団へと滑り込んできた。


 右には、リネア。

 左には、シリヤ。


 僕は、二人の美少女に両脇を固められ、完全に身動きが取れなくなってしまった。

 右からはリネアの、そして左からはシリヤの甘い香りがする。

 二人とも、どんな顔をしているのか……怖くて、確認することすらできない。


(……これ、天国なのか? それとも、地獄なのか……?)


 僕の問いに、誰も答えてはくれなかった。


 やがて、少しの間が空いて……。


 ふと、リネアが口を開いた。


「シリヤさんは、旦那様に抱かれたいですか?」


 何を言ってるんだお前は。

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