第74話 ある若い英雄の物語
ひやりとした空気が肌を刺す、隠された武器庫。
僕の手の中には、ずしりとした重みがあった。
鞘に収められたままの、美しい長剣。
一度も血を吸うことなく、主の未来と共に封じられた、『約束の剣』。
この剣に触れた瞬間、僕の【神の瞳】を通して、二つの魂の悲痛な叫びが流れ込んでくる。
(侯爵の、息子を失った深い後悔と。そして、騎士になるという約束を果たせなかった、息子の無念)
僕は剣を手に武器庫を出て、亡き息子の部屋へと戻った。
この部屋こそが、侯爵の時が止まった場所だ。
彼の魂を救済するのに、ここ以上の舞台はない。
「テクラさん。あなたに、危険な役目をお願いしてもいいでしょうか」
「……はい。何なりと」
「侯爵様を、この部屋へとお連れしてください。若様の部屋で、異変が起きている、と」
僕の言葉に、テクラは息を呑んだ。
「危険ではありませんか?」
「大丈夫」僕は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。「必ず侯爵様を救います。だから、僕を信じて、彼をここまで連れてきてください」
僕の言葉に、テクラは一瞬だけ唇を噛み締めた。
だが、瞳から迷いは消える。
静かに頷いた。
彼女は何も言わず、一礼すると、決然とした足取りで部屋を出ていった。
「アーリング様、よろしいのですか」とヴィルデが心配そうに尋ねる。
「ここから逃げるという手もあるけれどね」
テクラに逃走するルートを確保してもらうこともできただろう。
だが、ここで片付けておいたほうが良さそうだ、という判断だった。
僕たちは、この時が止まった部屋で、『主役』の登場を待った。
壁に掛けられた若き日の息子の肖像画が、結末を見届けるかのように、こちらを見つめているような気がした。
どれほどの時間が経っただろうか。
廊下の向こうから足音が近づいてくる。
一つはテクラのものだ。
そしてもう一つは……重く、引きずるような、苦悩に満ちた足音。
やがて、部屋の扉が静かに開かれた。
そこに立っていたのは、どこか怯えたような表情の老侯爵だった。
彼は息子の部屋に立つ僕たちの姿を確認した。
そして、僕が手にしている『約束の剣』に気づいた瞬間、その顔色を変えた。
「アーリング殿……! なぜ、その剣を……!」
侯爵の魂が激しく揺らぐのが視えた。
僕は、その好機を逃さなかった。
剣を部屋の中央にあるテーブルへと置く。
「この剣がどこにあったか、ですか。……あなたが、最も目を背けたかった場所ですよ」
「なっ……!?」
「息子さんの、果たされなかった『約束』と共に、あなたがその手で封印した場所です。違いますか?」
侯爵は激しく動揺し、反発する。
「黙れ! 何も知らぬお前が、知ったような口を……! あの子は、臆病風に吹かれて、無様に……!」
その呪いの言葉を、僕は遮るように静かに告げた。
「ええ、何も知りません。だからこそ、僕はここに来たのです」
僕は、テーブルの上の剣を指し示す。
「この剣に込められた、あなたと息子さんが交わした、本当の約束を果たすために。そして、あなたの魂を縛る偽りの悲劇を、終わらせるために」
「あの子は、無駄死にしたのだ……!」侯爵が叫ぶ。
「その絶望は、本当にあなた自身のものですか?」
「……何だと?」
「僕の眼には視えます。あなたの心の中にある『天秤』が、何者かの悪意ある力によって、無理やり『絶望』へと傾けられているのが。息子さんへの純粋な愛が、偽りの重りで歪められているのです」
僕の『診断』に、侯爵の魂は明確な混乱に陥った。
「何を……馬鹿なことを……」と否定しながらも、その瞳には初めて「疑念」の色が浮かんでいた。
(……あと一押しだ)
この亀裂を決定的なものにする、最後の証拠が必要だ。
僕は【神の瞳】を部屋全体へと広げた。
そして、僕は気づいた。
テクラの魂は『罪悪感』の闇に沈んでいた。
なにか隠している……とまでは言わないが、語っていないことがあるのではないか。
「テクラさん」
僕が優しく呼びかけると、彼女の肩がびくりと震えた。
「あなたは、あの日、何を見たのですか? あなたがずっと心に秘めていることが、侯爵様を救う最後の鍵になるかもしれない」
僕の言葉は、彼女が必死に保っていた心の均衡を崩壊させた。
テクラは、その場に崩れるように膝をついた。
そして、嗚咽混じりに、その罪を告白した。
「申し訳……ございません……! 若様が……若様がお亡くなりになったのは……私の、せいなのです……!」
その衝撃的な告白に、侯爵がはっと息を呑んだ。
「……どういうことだ、テクラ! 説明しろ!」
侯爵の問い詰めるような声に、テクラはただ「私が……私が……」と繰り返すばかり。
僕は、そんな彼女の魂の奥底を、深く、深く視た。
ああ、そうか。
彼女の罪悪感は、自分が逃げ遅れたせいで、若君に戦うという選択をさせてしまった、という悲しいサバイバーズ・ギルトだったのか。
そして、その罪悪感という名の分厚い殻の中にこそ、若き騎士が英雄として戦った、あまりにも気高い真実の記憶が封じられている。
僕は、テクラと侯爵の前に静かに立った。
「言葉で説明する必要はありません。侯爵様……そしてテクラさん。もう一度、真実と向き合う時です」
僕は、泣きじゃくるテクラの前に膝をつき、その震える手を、そっと握りしめた。
「大丈夫。僕が、そばにいる」
彼女は、こくりと力強く頷く。
僕は目を閉じ、意識を集中させた。
【神の瞳】を、これまでにないほど深く、強く発動させる。
「――来たれ、追憶の光よ。閉ざされた真実を、今、この場に照らし出せ!」
僕がそう詠唱した瞬間、僕とテクラを繋いだ手から、眩いばかりの黄金色の光が溢れ出した。
光は無数の粒子となり、部屋の中をきらきらと舞い始める。
現実の風景が、陽炎のように揺らめき、その向こう側に、過去の光景が、まるで幻灯のように浮かび上がってきた。
◇◇◇
そこは木漏れ日が優しく降り注ぐ、静かな森の中道だった。
二人の若い男女が、少しだけぎこちない距離を保ちながら歩いている。
侯爵の息子と、侍女のテクラだ。
『見てくれ、テクラ! 推薦状をいただいたんだ! 来月には、晴れて王都の騎士団へ入隊できる!』
若者は、一枚の羊皮紙を誇らしげに掲げ、少年のような無邪気な笑顔を見せた。
テクラもまた、心からの喜びを浮かべて祝福の言葉を述べている。
やがて、若者は意を決したように足を止め、テクラに向き直った。
『……テクラ。騎士団へ行く前に、どうしても君に伝えておきたいことがあるんだ。僕は……君のことが、好きだ。もし、君さえよければ、僕が騎士になった暁には……』
真っ直ぐな、魂からの告白。
だが、テクラは悲しげに微笑むと、静かに首を横に振った。
『……もったいないお言葉でございます。私はしがない侍女の身。若様のお相手など、到底務まりません』
その答えを予期していたのだろう。
若者は寂しそうに笑った。
そして、彼は、まるで全てを見透かしたかのように、静かに問いかけた。
『テクラ、きみは……父上のことを、愛しているんだろう』
その言葉に、テクラは驚いたように目を見開いた。
だが、何も答えず、ただ困ったように、そしてどこか慈しむように、穏やかに微笑むだけだった。
その、切ない沈黙を破ったのは、獣の咆哮だった。
木々の奥から、本来この森に生息するはずのない、巨大な牙を持つ漆黒の魔獣が姿を現したのだ。
『なっ……!? なぜこんな場所に……!』
若者の顔から血の気が引く。
だが、彼は即座にテクラの前に立ちはだかり、腰の剣を抜き放った。
『テクラ、逃げろ! 早く屋敷へ!』
『ですが、若様!』
『いいから行け! 僕は騎士になる男だ! 君一人守れなくてどうする!』
彼はテクラの背中を強く押し、一人で魔獣へと立ち向かっていく。
逃げるテクラの視点。
何度も振り返りながら、森の奥へと駆けていく彼女の目に映るのは――。
傷だらけになりながらも、決して退かずに戦い続ける、英雄の後ろ姿だった。
やがて、彼は最後の力を振り絞り、魔獣の懐へと飛び込んだ。
相打ち覚悟の一撃が、魔獣の心臓を深々と貫く。
同時に、彼の腹もまた、魔獣の鋭い爪によって引き裂かれていた。
魔獣が断末魔の叫びと共に崩れ落ちる。
若者もまた、その場に膝から崩れ落ちた。
駆け寄るテクラに抱きかかえられ、彼は途切れ途切れに、最後の言葉を紡いだ。
「……テクラ……無事、か……?」
「若様! お気を確かに!」
「……はは……僕は……騎士の……ように、誰かを……守れただろうか……」
それが、彼の最後の言葉だった。
彼の瞳から光が消え、その手から、愛用の剣が力なく滑り落ちる。
テクラの悲痛な叫びだけが、静まり返った森に響き渡った。
◇◇◇
黄金色の光の粒子が、ゆっくりと霧散していく。
亡き息子の部屋に、再び現実の静寂が戻ってきた。
老侯爵は、その場に立ち尽くしていた。
その頬を、大粒の涙が次から次へと伝い落ちている。
「……ああ……あの子は……」
嗚咽が漏れる。
「あの子は……逃げたのではなかったのか……。臆病者では、なかったのか……。守るために、たった一人で……英雄として……!」
息子の、真実の姿。
それは、植え付けられた歪んだ記憶とは異なる、あまりにも気高く、そして誇り高い、一人の騎士の物語だった。
その真実の光が、彼の魂に深く根を張っていた呪いを焼き尽くしていく。
彼を縛り付けていた『天秤』の見えざる重りが、音を立てて砕け散ったのが、僕の【神の瞳】にははっきりと視えた。
絶望に濡れていた彼の瞳に、初めて、息子への誇りの光が灯る。
正気に戻った老侯爵は、僕の前に進み出ると、深々と頭を下げた。
「アーリング殿。大変なご迷惑をおかけしてしまいました。どのようにお詫びを申し上げればよいか……」
「いえ、侯爵様は操られていただけですから。あなたがお優しい人間だということを、僕は知っています」僕は少し間をあけてから言葉をつづけた。「僕が知りたいのは、このような事象を起こしているのが誰なのか、ということです。なにか知っていることはありませんか?」
僕の問いに、老侯爵の顔から血の気が引いた。
彼は震える手で口元を覆い、恐怖に揺れる瞳で部屋の扉や窓を何度も確認する。
まるで、壁の向こうに誰かが聞き耳を立てているのを恐れるかのように。
「アーリング殿。申し訳ございません。何も言えません」
何も、言えない?
どういうことなのだろうか?
そのような魔法がかけられている、ということではなさそうだ。
「大丈夫です」僕は彼の震える手を、両手で強く握りしめた。「もう、あなたは一人ではありません。僕がいます。僕の仲間たちがいます。何があろうと、僕があなたを守ります」
僕の言葉に、老侯爵の瞳に、ようやくかすかな決意の光が灯った。
彼は一度だけ深く息を吸い込むと、それでもなお、その名を口にすることを拒んだ。
代わりに、彼は震える手で、自らの胸元に飾られていた、貴族としての位を示す勲章を指差した。
それは国王から直接下賜された、ミズール家の栄誉の証。
その中央には、この国を統べる者の象徴が、緻密な彫金で刻まれている。
ノルガルド王家の紋章、『世界樹を抱く双頭の鷲』。
それはつまり――。




