第72話 賢者の逃走
「早く解けえええええええっ!」
「しーっ」
僕が再度叫んだ瞬間、ヴィルデが人差し指を僕の唇に当て、悪戯っぽく微笑んだ。
「アーリング様、そんなに大きな声を出したら、見張りの人が来ちゃいますよ?」
そう言うと、彼女の指先が、僕の太ももを内側からゆっくりと、なぞるように撫で上げてくる。
「ひゃっ!? な、何をするんだ!」
「ふふっ。抵抗できないアーリング様も、素敵です」
「ええ、誠に」と、キルステーナさんも僕の逆側に回り込むと、僕の腰のあたりを真剣な顔つきでつんつんと突つき始めた。「このあたりがアーリング様の力の源泉なのですね。大変興味深いです」
(この聖女、絶対楽しんでるだろ!)
僕が羞恥と怒りで顔を真っ赤にしていると、まさにその時だった。
―――コツ、コツ、コツ……。
扉の向こう、石の廊下を、規則正しい足音が近づいてくる。
本当に、見張りが来てしまった。
(ほら、言わんこっちゃない!)
ヴィルデとキルステーナは、慌てて僕から離れると、何事もなかったかのように壁際に立った。
(……やれやれ)
足音は、扉の前で一度だけ止まり、やがてゆっくりと遠ざかっていく。
どうやら、中の異変には気づいていないらしい。
ふう、と僕が安堵の息をつくと、ヴィルデがようやく僕の縄を解いてくれた。
「すみません、アーリング様。少し、はしゃぎすぎてしまいました」
「私もです。神に仕える身として、あるまじき行為でした。どうか、お許しを」
しおらしく謝る二人に、僕は「もういいよ」と溜息混じりに答えた。
ようやく自由になった手首をさすりながら、僕は思考を切り替える。
まずは現状の確認だ。
「キルステーナさん、きみ、魔法は使える?」
「いいえ、残念ですが……」キルステーナは目を伏せた。「聖なる力はありますが、攻撃力はありません。小さな火花が出せる程度です」
「そうか。ありがとう」
僕はワインセラーの中をゆっくりと見渡した。
埃を被った古いワインの樽。
無数に転がる空き瓶。
壁の染み。
そして、キルステーナの出せる火花。
「二人とも、聞いてくれ。ここから脱出するための、作戦を思いついた」
僕の言葉に、二人は僕を見つめ返してきた。
「この屋敷の使用人たちは、精神を操られているだけだ。だから、できれば武力行使はしたくない」
「では、どうするのですか?」とキルステーナさん。
「僕たちは誰一人傷つけず、この密室から脱出する。そのための鍵は――『火事』だ」
「火事……ですか?」とヴィルデが驚きの声を上げる。
「ああ。もちろん、本当に火事を起こすわけじゃない。火事が起きたと屋敷中の人間に『誤認』させるんだ。僕たちは、自力で脱出するんじゃない。彼らに『救出』させるんだ」
「なるほど……」とヴィルデがうなずく。
「僕たちは、老侯爵にとって保護すべき大事な客でもある。もし僕たちが火事で死んだら、彼らは僕の父上に対して責任を取れない。だから火事が起きれば、彼らは僕たちの安否確認と救出のために、必ずこの扉を開けるはずだ」
「たしかに、それは可能かもしれませんが……」キルステーナが言った。「どうやって、火事と誤認させるのですか?」
「このワインセラーにあるものだけで、非殺傷の『発煙筒』を作る。僕の【賢者の知識】によれば、それは可能だ。……異世界の言葉で言えば、『科学』のようなものかな。一つだけ注意点がある。発生する煙は刺激が強い。目や喉を直撃すれば、しばらくは何もできなくなる。扉が開いた瞬間に噴き出すこの煙が、僕たちの目くらましになる。作戦実行時は、必ず濡れた布で口と鼻を覆うんだ。いいね?」
僕の言葉に、ヴィルデとキルステーナは、一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに力強く頷いた。
「アーリング様のおっしゃる通りに」
「ええ。あなたを信じます」
「よし。では、始めようか」
◇◇◇
「まず、ヴィルデ。そこの一番古いワイン樽の底を見てくれ。おそらく、長年の熟成で、澱のようなものが溜まっているはずだ。それを、空き瓶に集められるだけ集めてほしい」
「はいっ!」
僕の指示に、ヴィルデは即座に動いた。
(ワインの澱に含まれる酒石酸カリウムと豊富な糖分……。これが第一の燃料だ)
次に、僕は壁際で埃を被っていた木箱へと目を向けた。
「キルステーナさん、そこの木箱の中に、おそらくワインの品質を保つための乾燥剤……生石灰が入っているはずだ。できるだけ、粒の細かいものを選んで持ってきてほしい」
「承知いたしました」
聖女様が、埃まみれの木箱を漁る。
なんともシュールな光景だが、彼女は嫌な顔一つせず、すぐに目的のものを探し出してくれた。
(第二の材料、酸化カルシウム。粒が細かいほど反応面積が増え、反応速度が上がる。そして、これを活性化させるための『水』……いや、この場所ならもっと最適なものがある)
僕の脳内にある【賢者の知識】が、異世界の化学式を高速で展開していく。
(完璧な化学式とは少し違う。だが、この世界の物質の特性を考慮すれば、この組み合わせで莫大な煙を発生させられるはずだ……!)
ヴィルデが集めたワインの澱を、僕は別の空き瓶に移し替えた。
そして、その瓶を慎重に傾け、上澄み液だけをゆっくりと捨てる。
底に残った、粘土のようなペースト状の物質。
これこそが、僕たちの錬金術の核となる、高純度の燃料だ。
「ヴィルデ、君の狩猟用のナイフで、この古いコルクを、粉末状になるまで細かく削ってほしい」
「お任せください!」
ヴィルデは、コルクを削り始める。
彼女の指先は、驚くほど繊細で、正確だった。
あっという間に、木屑のようなコルクの粉末が出来上がっていく。
「よし。そのコルク粉末と、先ほどのペースト、そしてこの生石灰を、ボトルの中で丁寧に混ぜ合わせるんだ」
僕の指示に、二人は完璧に従ってくれた。
ボトルの中で、三つの物質がゆっくりと混ざり合っていく。
そして、僕は近くのワインラックから、安物の赤ワインを一本手に取った。
「最後に、これが『起爆剤』になる」
僕は真剣な顔で二人に告げる。
「僕の合図で、このワインをボトルの中に少量だけ注ぎ込む。いいかい、生石灰は水……つまりこのワインと反応した瞬間、凄まじい熱を発生させる。異世界でいうところの『駅弁』の加熱剤と同じ原理さ」
「えきべん……ですか?」
ヴィルデが不思議そうに首を傾げた。
キルステーナも初めて聞く単語にきょとんとしている。
「ああ。僕が知る別の世界の話だ。汽車っていう鉄の乗り物の中で食べる、特別な弁当があってね。紐を引くだけで、火を使わずに温かくなる仕掛けなんだ」
「よくわかりませんが、すごいですね!」とヴィルデ。
「発生した熱が、ボトルの中の燃料を一気に燃焼させ、大量の煙を発生させる。タイミングが命だ」
僕の言葉に、二人の顔に緊張が走る。
僕はヴィルデに頼んで、彼女が着ていた革の上着から、細長い革紐を一本切り出してもらった。
それを、ボトルの口から垂らす。
導火線だ。
残るは、最後の工程。
この、ただの混合物に、命を吹き込むための『火種』だ。
僕は、キルステーナさんに向き直った。
「キルステーナさん。君の力が必要だ」
「はい。何なりと」
「君の『聖なる力』を、指先に、極限まで集中させてほしい。そして、僕がワインを注ぎ込んだ直後、この革紐の先端に、ほんの小さな『聖なる火花』を灯すんだ。できるかい?」
それは、彼女が普段行う「癒やし」とは全く異なる、力の使い方。
だが、彼女の瞳に迷いはなかった。
「……やってみます」
彼女はゆっくりと目を閉じ、指先に全神経を集中させる。
その白い指先に、ふわり、と。
神々しいほどの、淡く、清らかな光が灯り始めた。
「こんな感じのもので大丈夫ですか?」
「うん、それなら大丈夫だ。きっとうまくいくよ」
◇◇◇
作戦決行の時は、すぐに訪れた。
再び、廊下を巡回する見張りの足音が近づいてくる。
足音が、扉の前で止まった。
「――今だ!」
僕が叫び、ボトルにワインを注ぎ込む。
ボトルの中で、じゅわっ、と液体が瞬時に沸騰するような音がした。
「キルステーナさん!」
「―――はっ!」
僕の叫びに呼応し、彼女の指先から放たれた『聖なる火花』が、革紐の先端へと飛び移った。
ジジジ……と、革紐が燃え、火種がボトルの中へと落ちていく。
―――シュゴオオオオオオッ!
次の瞬間、ボトルの中から、凄まじい勢いで白い煙が噴き出し始めた。
急激な発熱反応が燃料に引火し、ボトル内で起きた不完全燃焼が濃密な煙を生み出していた。
「ヴィルデ、扉の隙間へ! ボトルは少しだけ上向きに、煙が天井に向かうように置くんだ!」
「はいっ!」
僕の指示通り、ヴィルデは煙を噴き出すボトルを掴むと、鉄の扉の下にある、わずかな隙間から計算された角度で廊下へと滑り込ませた。
これで、噴出する煙は僕たちの足元ではなく、廊下の天井へと向かっていく。
廊下に置かれた発煙筒は、その性能を遺憾なく発揮した。
濃密な白煙が、あっという間に廊下を満たしていく。
ただの煙ではない。
ワインの澱を燃やしたことで発生する、焦げ臭く、そしてむせ返るような強烈な匂いが、パニックをさらに加速させるだろう。
扉の向こうから、見張りの叫び声が聞こえてきた。
「火事だ! 火事だぞ! 地下のワインセラーからだ!」
「なんだこの匂いは!? 煙で前が見えない!」
(――来た!)
僕はヴィルデとキルステーナさんに目配せする。
僕たちは即席の濡れ布で口元を覆うと、弱々しく咳き込みながら、ありったけの声で叫んだ。
「助けてくれ! 煙が……! 誰か、扉を開けてくれ!」
僕たちの悲痛な叫びが、彼らの『善意』を突き動かす最後の引き金となった。
警報の鐘がけたたましく鳴り響き、屋敷中に、パニックが伝染していくのがわかった。
やがて、複数の足音が扉の前へと集まってくる。
「大変だ! アーリング様たちが中に!」「もしものことがあったら侯爵様に顔向けできない!」「早くお助けするんだ!」
―――ガコンッ!
重い金属音。
外から、かんぬきが引き抜かれる音だ。
緊張が、走る。
「キルステーナさん、いまだ!」
「はいっ!」
僕の背後で、キルステーナさんが両手に聖なる力を集中させる。眩い光が、彼女の指の間から溢れ出した。
殺傷能力はゼロだが、ただ一瞬だけ、動きを止める光を!
―――ギィィ……と、重い鉄の扉が開かれていく。
煙の中に、必死の形相をしている使用人たちのシルエットが浮かび上がった。
「ご無事ですか、アーリン――」と使用人が言った瞬間だった。
「―――今だッ!」
僕の指示に従い、キルステーナさんが、祈りと共にその両手を突き出す。
彼女の手から放たれた光が、廊下一帯に満ち溢れた。
「うわっ……!?」
「な、なんだ……この光は……?」
浴びた者の敵意や闘争心、そして思考そのものを、一瞬だけ真っ白に染め上げてしまう、聖なる浄化の光。
警備兵たちは絶叫するでもなく、ただ金縛りにあったかのように、呆然とその場に立ち尽くした。
「行くぞ!」
僕達は駆け出した。




