第71話 さあ、来てください! 私を襲いなさい!
ひやりとした石の感触。
鼻腔をくすぐるのは、埃と、熟成されたワイン、そして微かなカビの匂い。
使用人たちが遠ざかっていく足音を確認してから、僕は体を起こした。
ゆっくり瞼を開くと、そこは薄暗い石造りの部屋だった。
壁一面に並んだワインラックが、ここが屋敷の地下にあるワインセラーであることを示している。
僕の近くにはヴィルデが転がっていて、幸せそうな表情で眠っている。
(……やられたな)
僕達の手足は、荒縄で固く拘束されており、身動きを取ることができない。
そして、ヴィルデの近くに、もうひとりの人間が転がっていた。
そこにいたのは、純白のローブに身を包んだ女性だ。
うーん、どことなく見覚えがあるような……。
女性が寝返りをうち、こちらを向いた。
「……キルステーナさん!?」
どこからどう見ても聖女キルステーナだった。
彼女もまた眠った状態で拘束されている。
なぜ彼女がここに?
……まあ、彼女もなんらかの治療の過程でこの侯爵家にたどり着き、ヴィルデと同じように睡眠薬入りの紅茶を飲まされたのだろう。
状況は最悪だ。
唯一の出口である分厚い鉄の扉は、外から固く施錠されている。
外部との連絡も絶たれ、完全に孤立無援……か。
手足を縛っているということは、トイレはどうすれば良いのだろうか?
そこまで考えていない?
あるいは、ここは一時的に捕縛しているだけで、どこかへ連れて行くつもりか?
ひとまず、行動に出るしかない。
「ヴィルデさん、起きてくれ!」
僕はまず、一番近くにいるヴィルデに声をかけた。
だが、彼女は寝息を立てたまま、起きる気配がない。
深く眠っているようだ。
(……仕方がない)
次に狙うはキルステーナだ。
僕はもじもじと這いながら、彼女の元へと移動した。
情けない姿だが、今は格好など気にしていられない。
「キルステーナさん、起きてください」
僕は彼女のそばにたどり着くと、先ほどと同じように声をかける。
彼女もヴィルデと同じように深い眠りに落ちていたが、僕の【神の瞳】には、彼女の魂が微かな聖なる光の加護で守られているのが視えた。
聖女としての彼女自身の力が、無意識に薬の効果を弱めているのかもしれない。
これなら、いけるかもしれない。
【神の瞳】の力を使い、薬によって強制的に閉ざされた彼女の意識の扉を、外からノックするように、呼びかける。
(キルステーナさん、聞こえるかい? 僕だ、アーリングだ。目を覚ますんだ!)
僕の魂からの呼びかけが、彼女の意識の深層に届いたのだろうか。
彼女自身の聖なる力が、僕の声に呼応するように、内側から薬の効力を打ち消し始めるのが視えた。
「ん……」
やがて、彼女の瞼が微かに震え、ゆっくりと開かれた。
その青い瞳が、僕の姿を捉える。
「アーリング、様……? ここは……ああ、わかりました。天国ですね。そうか、私、毒を飲まされて死んじゃったんですね。だから、アーリング様がお迎えにいらっしゃったと。わかりました。私、現世では禁欲していましたから、天国では奔放に生きることにします。さあ、来てください! 私を襲いなさい!」
彼女はそう言うと、ぎゅっと目をつぶった。
(……聖女様の発想が斜め上すぎる!)
薬で思考が混乱しているのだろうが、それにしても禁欲生活の反動が凄まじい。
僕は、あまりのことに一瞬言葉を失ったが、すぐに気を取り直して、冷静に事実を告げた。
「……いや、ここは現世だよ」
「え?」
僕の言葉に、キルステーナさんの動きがぴたりと止まった。
ぱちぱちと数回まばたきをした後、彼女の視線がゆっくりと周囲の埃っぽいワインセラーへと注がれる。
そして、自分の両手が荒縄で縛られていることに気づき……最後に、僕の顔を見た。
彼女の白い頬が、首筋から耳まで、一瞬で林檎のように真っ赤に染まっていく。
「…………」
しん、と。
気まずい沈黙が、薄暗いワインセラーを支配した。
「あ、あ、あの、アーリング様……!? い、今の発言は、その、薬のせいで見た幻覚と言いますか、夢の続きと言いますか……! 決して私の本心などでは……!」
しどろもどろに言い訳を並べ立てる彼女に、僕はできる限り優しい笑みを浮かべて頷いた。
「うん、わかってる。大丈夫だよ」
「ですから、どうか! 今のことは、お忘れください! 記憶から完全に抹消してください! お願いです!」
「大丈夫だよ」
「私がアーリング様に襲われる願望を持つふしだらな女性だということは、絶対にお忘れください!」
「大丈夫だって言ってんだろ!」
思わず、最大音量でツッコんでしまった。
いや、大声はまずいって。
見張りが来るかもしれない。
(……墓穴を掘るタイプか、この聖女様は)
僕は咳払いを一つして、この気まずい空気を断ち切るように、本題を切り出した。
「キルステーナさん。君の力で、ヴィルデさんを起こせないかな?」
「は、はいっ! 承知いたしました!」
僕が話を本筋に戻すと、彼女はこれ幸いとばかりに、勢いよく頷くのだった。
キルステーナは、僕と同じように、もじもじと這ってヴィルデの元へ移動する。
……その動作が妙に扇情的に見えたので、僕は思わず目を逸らした。
そして、キルステーナは聖なる癒やしの力を、ヴィルデへと注ぎ込んだ。
「……んん……アーリング様……?」
聖女の力は強力だった。
あっという間に、ヴィルデも無事に意識を取り戻した。
「おはよう」と僕が言った。
ヴィルデは状況を把握すると、まず隣にいる聖女様に驚きの声を上げた。
「キルステーナ様!? なぜここに……」
「そうだった。僕も聞きたかったんだ。どうしてここに?」
僕の問いに、キルステーナは真剣な表情で答えた。
「はい、実は……ある高貴な方の治療をしている最中に、その方が身につけていた『呪具』の存在に気づいたのです。お名前は申し上げられませんが……。その魔力の痕跡を辿った結果、この港町スティッレハウンと、ミズール家の老侯爵様に行き着きました」
彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
「侯爵様は、噂に違わぬ人格者でした。私の話を真摯に聞いてくださり、屋敷への滞在まで許可してくださった。……だから、油断してしまったのです。彼が差し出してくださった紅茶を、何の疑いもなく……」
「……僕たちと、全く同じだな」
僕が苦笑すると、彼女はこくりと頷く。
状況を理解したヴィルデが、悔しそうに顔を歪め、僕に謝罪する。
「すみません、アーリング様。私が不甲斐ないばかりに……軽率に紅茶を飲んでしまって……」
「いや、君のせいじゃない。あの状況では誰でも飲んでしまうさ。気にしないでくれ」
「ですが……!」
「お二人の信頼関係、素晴らしいですね」
なおも食い下がろうとするヴィルデを、キルステーナの冷静な声が制した。
「ですが、感傷に浸っている時間はないようです。この状況、どう打開いたしましょうか」
彼女の言葉に、僕たちも我に返る。
そうだ、まずはこの拘束を解かなければ。
すると、ヴィルデが意を決したように顔を上げた。
「でしたら、私に考えがあります。この縄くらいなら、外せると思います」
「え?」
僕とキルステーナが驚くのを尻目に、ヴィルデは「少し、痛いですが」と呟いてぎゅっと目を閉じた。
次の瞬間、信じがたい光景が僕たちの目の前で繰り広げられた。
―――ゴキッ!
鈍い、骨が軋む音。
ヴィルデは、自らの肩の関節を、こともなげに外してしまったのだ。
そして、ありえない角度に曲がった腕を巧みに操り、いとも容易く縄から抜け出してみせた。
「……ひっ!?」
聖女様から、らしからぬ悲鳴が上がる。
ヴィルデは外れた関節を「えいっ」という掛け声と共に元に戻すと、何事もなかったかのように自身の縄を解き始めた。
「狩りをしていると、たまに罠にかかってしまうことがありまして。その時のための、護身術です!」
えへへ、と悪戯っぽく笑う彼女の姿に、キルステーナは若干引き気味の顔で「そ、そうですか……」と頷いている。
ヴィルデは自身の縄を解いた。
これで僕たちも自由の身だ。
「ヴィルデさん、助かったよ。さあ、僕の縄も頼む」
僕がそう言って助けを求めると、ヴィルデは「はいっ!」と元気よく返事をして、僕の方へと近づいてきた。
だが、彼女は僕の縄に手をかけることなく、僕の身体をぺたぺたと触り始めた。
「……あの、ヴィルデさん?」
「いえ……」
ヴィルデは、真剣な顔つきで僕の腕や胸の筋肉を確かめるように揉んでいる。
「こうして抵抗できないアーリング様を、隅々まで調査できる機会は滅多にありませんので。ふむふむ、無駄のない、しなやかな筋肉……さすがです」
(……こいつ、完全に楽しんでやがる!)
「遊んでないで、早く解いてくれ!」
「まあまあ、そう焦らないでください」
ヴィルデはくすくすと笑うと、「では、まずはキルステーナ様からですね」と言って、あっさりとキルステーナさんの縄を解いてしまった。
「ありがとうございます、ヴィルデさん」
自由になったキルステーナさんが、優雅に立ち上がる。
よし、次は僕の番だな。
だが、僕のそんな淡い期待は、聖女様の一言によって無慈悲に打ち砕かれた。
「確かに、ヴィルデさんのおっしゃる通りですわ」
キルステーナは僕の隣にしゃがみ込むと、ヴィルデと一緒になって、僕の体を検分し始めた。
彼女の冷たい指先が、僕の首筋をそっとなぞる。
「ひゃっ!?」
「なるほど、このあたりが敏感なのですね。アーリング様の身体構造は、神に仕える身として、大変、学術的にも興味深い。これは神聖なる観察の時間といたしましょう」
(この聖女も完全に確信犯じゃねえか!)
先ほどの「天国」発言は、やはり彼女の本性だったらしい。
真面目な顔で、とんでもないセクハラを始めた。
「さあ、ヴィルデさん。アーリング様を、隅々まで、心ゆくまで観察いたしましょう」
「はいっ、キルステーナ様! では、私は弱点を探ってみますね! えいっ!」
ヴィルデの指が、僕の脇腹を的確にこちょこちょっとくすぐる。
「んんっ!? や、やめ……っ
「あら、ここが弱点でしたか」
「ふふっ、可愛い反応です」
二人の美少女が、縛られて動けない僕を囲んで、キャッキャウフフと責め立ててくる。
僕の理性と、別の何かが限界を迎えようとしていた。
「早く解けえええええええっ!」
僕の悲痛な叫びが、薄暗いワインセラーに虚しく響き渡るのだった。




