第70話『貸し』
交易町を離れ、次なる目的地である港町『スティッレハウン』へと向かう日の朝だった。
僕たちの馬車の前で、トーヴェが一本の剣を手に僕を待っていた。
「アーリング」
僕の姿を認めると、彼女は真っ直ぐな瞳で僕を見つめ、その剣を鞘ごと差し出してきた。
それは、貴族が持つような華美な装飾は一切ない。
実用性だけを突き詰めた、無骨だが、洗練された長剣だった。
「これは、我がギルドの『信頼』の証だ。あんたの正義のために使ってくれ」
僕は、その重みを両手で受け止める。
ずしりとした確かな重み。
「……ありがとう、トーヴェ。君の信頼、確かに受け取ったよ」
僕が力強く応じると、彼女は満足げに、そしてどこか嬉しそうに微笑んだ。
僕は仲間たちに向き直り、リーダーらしく咳払いを一つした。
「よし、作戦を伝える。スティッレハウンへの斥候は、索敵能力に長けたヴィルデさんと僕で行くことにする。あまり大人数で動いて、老侯爵に警戒されるのは避けたいからね」
「はいっ! お任せください、アーリング様!」
指名されたヴィルデが、尻尾があればちぎれんばかりに振っているであろう勢いで、目を輝かせた。
だが、その隣から、すうっと冷気が漂ってくるのを感じた。
「…………」
リネアだ。
完璧な無表情のまま、その視線だけが僕に突き刺さっている。
「つまり、私には、ついてくるな、と。そういうことでしょうか、旦那様」
声のトーンはいつも通りなのに、周囲の気温が数度下がった気がする。
絶対零度のオーラだ。
「い、いや、まあ……そう、かな……」
リネアは何も言わない。
ただ、じっと僕の目を見つめてくる。
その瞳は、感情が読めないはずなのに「なぜ」「どうして」「許さない」という言葉が脳に直接伝わってくるかのようだった。
「作戦上、仕方ないだろう!」
半ばヤケクソ気味に僕が叫ぶと、リネアはふっと圧を解いた。
そして、いつもの完璧な所作で一礼する。
「……わかりました。ですが旦那様、これは『貸し』にさせていただきます」
その完璧な微笑みとは裏腹に、彼女の瞳の奥が一瞬だけ、妖しく光った気がした。
背筋に冷たいものが走り、僕は「とんでもない約束をしてしまったのでは……」と未来の自分を憂うしかなかった。
◇◇◇
こうして、僕とヴィルデは馬一頭に二人乗りで、一足先に港町スティッレハウンへと出発した。
僕が手綱を握り、ヴィルデがその後ろに座る。
「ふふっ」
背後から、楽しげな吐息が聞こえた。
次の瞬間、柔らかく、温かい感触が、僕の背中にぴったりと寄り添う。
ヴィルデが、僕の腰にぎゅっと腕を回してきたのだ。
「二人きりで、馬も一頭だけなんて……。なんだか、デートみたいですね、アーリング様」
耳元で囁かれた甘い言葉に、僕の心臓がドクンと跳ねる。
だが、同時に脳裏をよぎるのは、リネアの「貸し」という言葉。
嬉しさと、一抹の恐怖が入り混じった、複雑な心境のまま、僕は馬を進めた。
◇◇◇
カモメの甲高い鳴き声に迎えられ、僕たちは目的の港町スティッレハウンへとたどり着いた。
そこは、僕が想像していた以上に、のどかで、平和な場所だった。
石畳の道を陽気な漁師たちが行き交い、露店では威勢のいい声が飛び交っている。
僕たちは町で一番大きな酒場に入り、昼食がてら、件の老侯爵についての聞き込みを始めた。
「ミズール家の老侯爵様かい? ああ、あの方は立派なお人だよ」
「ただ、まあ……立派な方らしいが、ほとんどお屋敷から出てこられないからねぇ」
町の人々の評判は、上々だった。
だが、その人物像は、どこか厚いベールに包まれている。
僕たちは酒場を後にし、町を見下ろす高台へと向かった。
そこからならば、老侯爵の屋敷が見えるらしい。
高台から見下ろした屋敷は、息を呑むほどに美しかった。
海を望む絶好の立地に建てられた白亜の館。
寸分の狂いもなく刈り込まれた生垣。
色とりどりの花々が咲き乱れる、完璧な庭園。
(……見事なものだな)
僕が純粋な感嘆の声を漏らした、まさにその時だった。
「……アーリング様」
隣に立つヴィルデの声。
振り返ると、彼女は険しい表情で、その狩人の瞳を屋敷の一点へと注いでいた。
「何かが、おかしいです」
「おかしい? 僕には、ただ美しい屋敷にしか見えないけど……」
「いいえ」ヴィルデは、きっぱりと首を横に振った。
彼女は屋敷を巡回する警備兵を指で示す。
「あの兵士たちの動きも……人間味がないんです。まるで時計の針みたいに、ただ決められた場所を、同じ歩幅で往復しているだけ。……あの場所は、生きているものの気配が、あまりにも希薄すぎます」
ぞくり、と。
言いようのない悪寒が、背筋を駆け上がった。
◇◇◇
僕とヴィルデは、意を決して屋敷の門を叩いた。
通された応接室で僕たちを待っていたのは、記憶の中の姿と何一つ変わらない、人の良さそうな好々爺だった。
「おお、アーリング殿ではないか! よく来てくださった!」
その声は、心からの善意に満ちていた。
いまのところ、悪意など微塵も感じられないが……。
僕は【神の瞳】を発動させる。
―――次の瞬間。
僕は視た。
老侯爵の魂は、輝いていた。
彼が人格者であるという噂に、嘘偽りはなかった。
その魂は、慈愛と、善意と、人々への奉仕の精神という、気高い光で満ち溢れている。
だが。
彼の魂は、本来、完璧な均衡を保っているはずだった。
だが今、僕の【神の瞳】には、あるイメージが視えていた。
天秤だ。
天秤の片方の皿に、禍々しい力が『見えざる重り』として乗っている。
魂を蝕んでいるのではない。
傷つけているのでもない。
ただ、その重りが善意の皿を極端に押し下げ、彼の精神のバランスを、巧妙に、そして決定的に崩してしまっているのだ。
僕の脳裏に、彼の歪められた思考が流れ込んでくる。
(最近の若者は、成功に慣れていない。少しばかりの『試練』と『謙虚さ』を与えてやらねば、大成する前に潰れてしまう。私の役目は、彼らが驕り高ぶらないよう、見守ってやることだ)
ああ、そうか。
彼がトーヴェにあの呪いのブローチを渡したのは……心からの『善行』だったんだ。
彼女の類稀なる才能が暴走しないよう、戒めとなる『お守り』を授けた。
彼は、本気でそう信じている。
いや、そう思い込むように、あの天秤によって思考が誘導されているのだ。
僕は、視界を広げる。
この屋敷に仕える、全ての使用人たちへ。
彼らの魂もまた、老侯爵と同じだった。
純粋な忠誠心。
主君を守りたいという、ただそれだけの善意。
だが、その『忠誠心』という善意もまた、見えざる者の力によって歪められている。
『侯爵様はあまりにもお優しい。我々が、あらゆる外部の刺激からお守りせねば』という、排他的な『献身』へと。
(……なんだ、これは)
この屋敷は、監獄だ。
だが、そこにいるのは、悪意ある看守ではない。
自らが檻の番人であることに気づいていない、『悲劇の善人』たち。
彼らの純粋な善意こそが、この老侯爵を外の世界から隔絶し、誰にも救い出させないための、完璧な『善意の檻』を構築しているのだ。
この黒幕の、底知れない悪意。
それは、悪人を操ることではない。
善人の善意そのものを、最も残酷な凶器へと作り変えること。
いったい、誰がこんな手の込んだ監獄を作り上げたのだろう。
そんなことを考えながら、当たり障りのない会話を続けていた、その時だった。
一人の使用人が、銀の盆に載せた紅茶を僕とヴィルデの前にそっと置いた。
「当家自慢のハーブティーです。どうぞ、お口に合えば良いのですが」
その所作、その言葉、そして彼の魂から発せられるオーラ。
その全てが、一点の曇りもない『善意』のおもてなしだった。
悪意も、敵意も、害意も、何一つ感じられない。
僕はカップをそっと口元へ運び、飲んだと見せかけて、そのままカップを置いた。
気をつけてね、とヴィルデに目配せをしようとしたときだった。
ヴィルデが無邪気にカップを傾けてしまっていた。
「美味しいです!」
―――まずい。
ヴィルデの言葉が、途中で途切れた。
彼女の瞳の焦点が合わなくなり、その身体がぐらりと傾ぐ。
「アーリング様……なんだか、急に……眠く……」
ガタン、と音を立てて、彼女は椅子から崩れ落ち、その場ですうすうと寝息を立て始めた。
(……やられた……!)
睡眠薬か。
ここまで即効性があるものということは、なんらかの魔力が込められている可能性が高い。
ここで抵抗しても多勢に無勢だ。
僕は瞬時に覚悟を決めた。
寝たふりをしよう。
「本当ですね。なんだか、僕も……」
僕は、薬が回ってきたかのように、わざと呂律が回らない口調で呟く。
そして、ヴィルデの後を追うように、テーブルに突っ伏した。
「幸せな夢をどうぞ」と侯爵が笑みを浮かべながら言った。




