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第7話 『ファフナー渓谷の悲劇』

 ヴィルデという名の、ヤンデレ助手を迎えた僕の日常は、控えめに言って地獄だった。

 分単位で行動を記録され、トイレの時間まで管理される。

 そして、その狂気の記録を「記録療法ですわ」と無垢な笑顔で肯定する彼女。


「……外の空気を吸ってくる」


 息抜きだ。

 気分転換が必要だった。


 しかし、そんな僕のささやかな願いが叶うはずもなかった。


「旦那様、お待ちください。万が一のことがあっては」

「アーリング様、お一人では危険です。私がお供します!」


 背後から、当然のようにリネアとヴィルデがついてくる。

 結局、僕の散歩は、左右をヤンデレに固められた厳重な護送と化した。


◇◇◇


 そんな、息の詰まるような散歩の最中、村の外れまで来た時だった。

 ふと、遠くの山の向こうから、一本の黒い筋が空へと伸びているのに気づいたのは。


「――あれは……狼煙!?」


 僕が声を上げた直後、村の見張り台から、切羽詰まった声が響き渡った。


「狼煙だ! 隣村のスコグヘイムからだ!」


 平和なフィエルヘイム村の空気が、一瞬で緊張に凍りついた。

 狼煙は、ゴブリンや魔物の大規模な襲撃を知らせる、非常事態の合図だ。


「なんてことだ……! だが、スコグヘイムにはビルギット様がいるはずだ!」

「そうだ、あの『ファフナー渓谷の悲劇』を生き延びた王国最強の女騎士が! ビルギット様が持ちこたえているうちに、俺たちも駆けつけるぞ!」


 村人たちの会話に、僕の思考が追いつかない。

 ビルギット? ファフナー渓谷の悲劇?

 僕が内心で首を傾げた、その時だった。


 隣を歩いていたリネアが、僕の思考を読み取ったかのように、淡々と報告を始めた。


「――旦那様、ご参考までに」


 その声は、まるで百科事典を読み上げるかのように無感情だった。


「ビルギット・ソルヘイム。元王国騎士団第三部隊長。先のオーク大戦における『ファフナー渓谷の悲劇』の唯一の指揮官生存者です。公式記録では英雄的撤退戦とされていますが、実態は彼女が率いた殿部隊――彼女を慕う若手騎士たちを『おとり』とし、壊滅させた上での撤退でした」


「なっ……」


 衝撃的な内容に、僕は息を呑んだ。

 リネアは構わず続ける。


「この件が原因で、彼女は深刻なPTSDとモラル・インジュリーを発症。心を病み、現在は騎士団を事実上左遷され、スコグヘイムにて保護観察に近い名誉職に就いています。よって、彼女の現在の戦闘能力は――期待できないものと判断されます」


 僕の脳裏で、『賢者の知識(グノーシス)』が自動的に情報を整理していく。

 リネアが説明したビルギットの状態。

 それは、僕が知る異世界の医学知識に、恐ろしいほど正確に合致していた。


 強烈なトラウマ体験による、心的外傷後ストレス障害――通称、PTSD。

 そして、自らの道徳観に反する行為を強いられたことで生じる、深刻な心の傷――モラル・インジュリー(道徳的な負傷)。


「……」


 こいつ、なんでそんな軍の内部情報まで知ってるんだ……?

 あと、異世界の知識を、なぜ知っているんだ……?

 僕がいつか書斎で呟いたのを覚えていたのか……?

 いや、それだけでは説明がつかないが……。


 まあ、リネアなら、そういうこともある、と思えてしまうのが不思議だ。


 隣を歩くヴィルデが悲しそうに付け加えた。


「ビルギット様は……私が子供の頃、村の皆が憧れた、本当に強くて優しい英雄でした。でも……」


 ヴィルデが知っているのは、そこまで。

 光り輝く英雄の姿だけだ。


 リネアの情報のおかげで、状況は明確になった。


「旦那様、どうされますか? 放っておきますか?」


「放っておくなんて、できるわけがないだろう」


◇◇◇


 スコグヘイム村の惨状は、僕たちの想像を絶していた。

 家々は燃え盛り、黒煙が空を覆っている。

 そして、村の中心部では、百は超えるであろうゴブリンの群れが、逃げ惑う村人たちに襲いかかっていた。


「ビルギット様はどこだ!?」

「あそこだ! 広場の中心に……!」


 自警団長が指さす先。

 そこには、一人の女騎士が、ただ立ち尽くしていた。


 陽に焼けた肌に、鍛え上げられたしなやかな肉体。

 だが、その腰の長剣は鞘に収められたままだ。


 彼女こそが、この辺境で英雄と称えられる元・王国騎士、ビルギットその人だった。


 だが、その姿は、英雄のそれとあまりにもかけ離れていた。


 彼女は戦っていなかった。

 周囲で村人がゴブリンに惨殺されていく地獄絵図の中で、ただ一人、石像のように固まり、震えているだけだった。


「あ……あ……」


 カタカタと歯の根が合わず、その瞳は虚空を彷徨っている。

 腰の剣の柄に手を伸ばそうとしては、びくりと痙攣したように手を引く。その繰り返し。


 僕の『神の(ディアグノーゼ)』が、彼女の絶望を視る。

 彼女の心を苛む、冷たく、重い【罪悪感の鎧】。

 剣を抜くという行為が、彼女の心臓に突き立てられた見えざる棘を、さらに深く抉るのだ。


「う、嘘だろ……ビルギット様が……!?」

「戦えないのか……!? どうして!」


 救援隊の希望が、一瞬にして絶望へと変わる。


 頼みの綱だった英雄は、錆びついていた。

 いや、自らが作り出した罪悪感の鎧に囚われ、壊れてしまっていた。

 指揮官を失った救援隊は混乱し、ゴブリンの群れがここぞとばかりに押し寄せてきた。

 最悪の状況だ。


 だが、僕の頭は不思議なほど冷静だった。

 この地獄のような光景の中で、僕の思考は、まるでパズルのピースを嵌めるように、最適解を導き出そうと高速で回転を始めていた。


(ゴブリンの数は約120。前衛、中衛、後衛に分かれている。指揮官は後方のシャーマン。ビルギットは戦闘不能。村人たちは烏合の衆。使える駒は……リネアの突破力と、ヴィルデの精密狙撃能力)


 やるべきことは、決まった。


「――全員、僕の指示に従ってください!」


 戸惑う村人たちを尻目に、リネアとヴィルデが即座に僕の前に膝をついた。


「「御意」」


 その絶対的な信頼が、僕の覚悟を固める最後の一押しになった。


「――来たれ、異世界の叡智よ。戦場を我が意のままに描き変えよ!」


 僕は右手を天に掲げ、詠唱を開始する。

 これは、僕が『賢者の知識(グノーシス)』から得た、この世界の魔法体系とは根本的に異なる力。

 敵を直接攻撃するのではなく、戦場のルールそのものを支配する、戦術家のためだけの魔法。


「第一の呪言――【粘着沼の呪言(スティッキー・スワンプ)】!」


 僕が叫ぶと同時に、ゴブリンたちの足元の地面が、まるで意思を持ったかのように黒く変色し、不気味な泥沼へと変化した。


「グギャッ!?」


 勢いよく突進してきたゴブリンの前衛部隊が、次々と沼に足を取られ、身動きが取れなくなる。

 戦場のど真ん中に、巨大な障害物が生まれた瞬間だった。


 僕は間髪入れずに、第二の魔法を放つ。


「第二の恩寵――【神速の恩寵(グレイス・オブ・ヘイスト)】!」


 眩い光が、リネアとヴィルデの二人に降り注ぐ。

 彼女たちの身体能力が、魔力によって強制的に限界突破させられた。


「リネア! 沼に足を取られた先頭集団を蹂躙しろ!」

「ヴィルデ! 後方で指揮しているゴブリン・シャーマンを射抜け! お前ならやれる!」


「承知いたしました、旦那様」

「はいっ、アーリング様!」


 次の瞬間、二つの軌跡が戦場を切り裂いた。


 リネアは、もはや人間の目では追えないほどの速度で泥沼の縁を駆け抜け、身動きの取れないゴブリンたちの首を次々と刈り取っていく。

 その姿は、もはやメイドではなく、戦場を舞う死神そのものだった。


 そしてヴィルデは。

 極限まで引き絞られた弓から放たれた矢が、唸りを上げて空を飛翔する。


 ゴブリンを恐れているようすはない。

 矢は、寸分の狂いもなく、遥か後方で油断しきっていたシャーマンの眉間を正確に貫いた。


「グギ……!?」


 指揮官を失い、前衛は泥沼で壊滅。

 完璧すぎる連携の前に、ゴブリンの群れは一瞬にして統率を失い、烏合の衆と化した。


 呆然と成り行きを見守っていた村人たちが、はっと我に返る。

 彼らの視線は、もはやうずくまる英雄ビルギットにはない。

 ただ一人、戦場を支配し、戦況を覆した、無名の魔術師――僕に注がれていた。


「――全軍、突撃! 残党を狩り尽くせ!」


 僕の号令が、反撃の狼煙となった。

 「うおおおお!」という雄叫びと共に、勢いを取り戻した村人たちが、混乱するゴブリンの群れへと雪崩れ込む。

 もはや、ただの蹂躙だった。


◇◇◇


 戦闘は、驚くほど短時間で終結した。


「……勝ったぞ!」

「すげぇ……あの人はいったい何者なんだ……」


 勝利の歓声が、村に響き渡る。

 沸き立つ村人たちが、僕を取り囲み、称賛の言葉を口々に叫んだ。


 僕はその称賛を軽く受け流した。


 戦場の隅でうずくまる影へと歩み寄った。


 ビルギット。

 彼女は、勝利の歓声がまるで聞こえていないかのように、ただ小さく震え続けていた。


 僕は彼女の前にしゃがみこみ、その震える肩に、そっと手を置いた。

 戦場を支配した「戦術魔術師」の顔ではない。

 いつもの、穏やかな「治療師」の顔に戻って。


「大丈夫。君は悪くない」


 びくり、と彼女の肩が跳ねる。

 ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳は、絶望の色に濁りきっていた。


 僕は、そんな彼女に、できる限り優しい声で語りかける。


「僕の本業は、剣や魔法で戦うことじゃない。君のような、心の傷を癒すことなんだ」


 そして、土と血に汚れた彼女の手に、僕の手をそっと差し出した。


「――ようこそ、僕の【心の診療所】へ。今度は、君を救う番だ」

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