第67話 『北の羅針盤』
ナール・リムグレーペの村を包む、夜明け前の静寂。
東の空が、ようやく白み始めた頃だった。
僕は、まだ皆が寝静まっている宿屋をそっと抜け出し、村を見下ろす丘の上に一人、立っていた。
凍てつくほどに澄んだ空気が、肺を満たす。
美しい街だった。本当に。
僕の背後で、雪を踏む、かすかな音がした。
振り返るまでもない。
僕がどこにいようと、彼女は必ず、僕を見つけ出す。
「リネア」
「はい、旦那様」
いつの間にか隣に立っていた彼女は、いつもと変わらぬ完璧な無表情で、僕と同じように、白み始めた空を見つめていた。
「良いところだね、ここは……」
「はい」
「いつか、いろいろなことが片付いたら、こういうきれいな場所で、僕と一緒に暮らしてくれるかい?」
「……はい」とリネアは答えた。
僕たちは、しばらくの間、何も言わなかった。
ただ、言葉にならない想いが、静かな空気の中を流れていく。
やがて、僕はゆっくりと口を開いた。
「……思い出したよ。君が、僕に全てをくれた、あの日のことを」
僕の言葉に、リネアの肩が、ほんのわずかに震えた。
「君が僕にくれたこの【賢者の知識】も、君が捧げてくれた、君自身の瞳も……。君が僕を救ってくれたから、今の僕がある。本当に、ありがとう」
リネアは何も言わない。
ただ、その完璧な仮面の下で、唇をきつく噛み締めているのがわかった。
「だから、今度は僕の番だ」
僕は、彼女の冷たい手を、そっと両手で包み込んだ。
「君が僕を救ってくれたように、次は僕が君を救いたい。君が今まで一人で背負ってきたものを……僕が、これからの人生の全てを懸けて、愛で返していく。君が傷つけば、僕の半分も傷つく。……これからは、二人で一つの人生だ」
僕がそう言って、彼女の瞳をまっすぐに見つめ返すと、ついに、その完璧な仮面が崩れ落ちた。
「……はい……っ」
嗚咽混じりの、か細い返事。
それだけで、十分だった。
僕たちの魂は、この夜明けの誓いと共に、本当の意味で、一つになった。
◇◇◇
まずは父上に、魔力炉の報告をしなければならない。
そして、僕は父上にききたいこともあった。
父は、本当に、あの魔力炉で行われていた残虐な行為を知らなかったのだろうか?
そういうわけで、僕達は王都を目指していた。
……しかし、王都へつづく街道を進み、数日後。
僕達の前に、絶望的な光景が広がった。
「これは……ひどいな」
僕の呟きに、馬車の窓から顔を覗かせた仲間たちも息を呑む。
大規模な土砂崩れが街道を完全に塞ぎ、巨大な岩や倒木が散乱していた。
そして、その手前では、十数台の豪華な馬車が立ち往生していた。
馬車の扉には、コンパスと北極星を組み合わせた紋章が描かれている。
「『北の羅針盤』……王都最大級の商人ギルドですね」
シリヤの冷静な分析を聞きながら、僕は馬車を降りた。
現場は、怒号と混乱の渦に包まれていた。
その混乱の中心で、一人の若い女性が、気丈に、しかしどこか張り詰めた様子で指示を飛ばしていた。
年の頃は僕と同じくらいだろうか。
燃えるような赤毛をポニーテールに束ね、その瞳には強い意志の光が宿っている。
「慌てるな! まずは負傷者の救護を最優先しろ! 迂回路の確保は第二班が担当! 残りは、荷物の被害状況を確認!」
彼女の指揮は見事だった。
だが、圧倒的な自然の力の前に、その采配も空しく響く。
業を煮やしたのか、彼女はヒステリックに叫んだ。
「何をぼやぼやしている! さっさと岩をどかせ!」
「無理ですよ、ギルドマスター! こいつは、人間の力でどうにかなる代物じゃ……!」
部下の悲鳴にも似た声に、彼女がぐっと唇を噛みしめるのがわかった。
僕は隣に立つビルギットに視線を向ける。
ビルギットは、僕の意図を即座に理解し、こくりと小さく頷いた。
僕は、そんな彼女の元へと、静かに歩み寄った。
「お困りのようですね。よろしければ、僕たちも手を貸しましょうか?」
「……あんたは?」
若い女性は、警戒心を露わにした瞳で僕を見返す。
「王都に向かっている旅の者です。あなたは、この商人ギルドの……隊長さんですか?」
「ああ。私がギルドマスターのトーヴェだ」
僕の問いに、彼女はぶっきらぼうに答えた。
馬車から降りてきたシリヤが、思わずといった様子で口を挟む。
「失礼ですが、『北の羅針盤』のギルドマスターは、もっと年を召した方だと伺っておりましたが」
シリヤの言葉に、トーヴェは一瞬だけ、寂しげに目を伏せた。
「……父が、半年前に急逝してね。私が、後を継いだんだ」
僕は、そんな彼女に、改めて微笑みかけた。
「僕の仲間は、少しばかり、力自慢でしてね」
僕は、背後に控える仲間たちに目配せを送る。
ビルギットが、僕の意図を即座に理解し、一歩前に出た。
「――ふんっ!」
彼女が気合一閃、立ち往生していた馬車一台を「よいしょ」と軽々と持ち上げ、道の脇へと退避させる。
唖然とする商人たちを尻目に、ヴィルデが弓を構えた。
彼女が放った一本の矢が、行く手を阻んでいた巨大な岩盤の、絶妙な一点を正確に射抜く。
ピシリ、と。
岩盤に亀裂が走り、次の瞬間、それは自重に耐えきれず、ガラガラと崩れ落ちた。
その光景を、トーヴェは信じられないといった表情で見つめていた。
「……あんたたち、一体何者なんだ……?」
「旅のものです」
僕がそう言って悪戯っぽく笑うと、彼女は呆れたように、ふっと息を吐いた。
「……面白い。気に入った。この借りは、必ず返す」
彼女の差し出した手を、僕は強く握り返した。
◇◇◇
僕たちの協力もあり、街道は驚くほどの速さで復旧した。
トーヴェは、改めて僕の元へやってくると、深々と頭を下げた。
「……助かった。あんたがいなければ、どうなっていたことか」
「いえ、あなたの指揮も見事でした。僕には、あれほどの組織をまとめる才覚はありません」
「謙遜するな。あんたの、あの的確な指示がなければ、復興には一週間くらいかかっていたかもしれん」
トーヴェは、ふぅ、と一つ大きな息をつくと、少しだけ疲れたように笑った。
「……すまない。少しだけ、休ませてくれ。さすがに、気疲れした」
彼女はそう言って、僕たちに背を向け、人混みから少し離れた木陰へと一人、歩いていく。
だが、その背中は、どこか頼りなく、小刻みに震えているように見えた。
(……様子が、おかしい)
僕が心配になって後を追うと、彼女は木陰で、必死に呼吸を整えようとしていた。
ぜぇ、ぜぇ、と浅く速い呼吸が、その華奢な肩を苦しげに上下させている。
ぎゅっと握りしめられた彼女の手は、真っ白になるほど力が入り、微かに震えていた。
過呼吸の発作だ。
僕は、彼女を驚かせないよう、ゆっくりと、静かに近づいた。
「大丈夫だよ」
僕は彼女の隣に静かに立った。
一声かけてから、その震える背中にそっと手を当てる。
強張る彼女の身体に構わず、僕はゆっくりと、一定のリズムでその背中をさすり始める。
「僕を見て。……僕の呼吸に合わせてみて。……吸って……」
僕がゆっくりと息を吸う。
「……吐いて……」
僕に合わせて、彼女の必死だった呼吸が、少しずつ、穏やかさを取り戻していく。
やがて、発作が完全に収まった頃、トーヴェは、はっとしたように僕の顔を見上げた。
「……あんた、何者なんだ?」




