表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/157

第67話 『北の羅針盤』

 ナール・リムグレーペの村を包む、夜明け前の静寂。

 東の空が、ようやく白み始めた頃だった。


 僕は、まだ皆が寝静まっている宿屋をそっと抜け出し、村を見下ろす丘の上に一人、立っていた。


 凍てつくほどに澄んだ空気が、肺を満たす。


 美しい街だった。本当に。


 僕の背後で、雪を踏む、かすかな音がした。

 振り返るまでもない。

 僕がどこにいようと、彼女は必ず、僕を見つけ出す。


「リネア」


「はい、旦那様」


 いつの間にか隣に立っていた彼女は、いつもと変わらぬ完璧な無表情で、僕と同じように、白み始めた空を見つめていた。


「良いところだね、ここは……」


「はい」


「いつか、いろいろなことが片付いたら、こういうきれいな場所で、僕と一緒に暮らしてくれるかい?」


「……はい」とリネアは答えた。


 僕たちは、しばらくの間、何も言わなかった。

 ただ、言葉にならない想いが、静かな空気の中を流れていく。


 やがて、僕はゆっくりと口を開いた。


「……思い出したよ。君が、僕に全てをくれた、あの日のことを」


 僕の言葉に、リネアの肩が、ほんのわずかに震えた。


「君が僕にくれたこの【賢者の知識】も、君が捧げてくれた、君自身の瞳も……。君が僕を救ってくれたから、今の僕がある。本当に、ありがとう」


 リネアは何も言わない。

 ただ、その完璧な仮面の下で、唇をきつく噛み締めているのがわかった。


「だから、今度は僕の番だ」


 僕は、彼女の冷たい手を、そっと両手で包み込んだ。


「君が僕を救ってくれたように、次は僕が君を救いたい。君が今まで一人で背負ってきたものを……僕が、これからの人生の全てを懸けて、愛で返していく。君が傷つけば、僕の半分も傷つく。……これからは、二人で一つの人生だ」


 僕がそう言って、彼女の瞳をまっすぐに見つめ返すと、ついに、その完璧な仮面が崩れ落ちた。


「……はい……っ」


 嗚咽混じりの、か細い返事。

 それだけで、十分だった。


 僕たちの魂は、この夜明けの誓いと共に、本当の意味で、一つになった。


◇◇◇


 まずは父上に、魔力炉の報告をしなければならない。

 そして、僕は父上にききたいこともあった。

 父は、本当に、あの魔力炉で行われていた残虐な行為を知らなかったのだろうか?


 そういうわけで、僕達は王都を目指していた。


 ……しかし、王都へつづく街道を進み、数日後。

 僕達の前に、絶望的な光景が広がった。


「これは……ひどいな」


 僕の呟きに、馬車の窓から顔を覗かせた仲間たちも息を呑む。

 大規模な土砂崩れが街道を完全に塞ぎ、巨大な岩や倒木が散乱していた。


 そして、その手前では、十数台の豪華な馬車が立ち往生していた。

 馬車の扉には、コンパスと北極星を組み合わせた紋章が描かれている。


「『北の羅針盤ノール・コンパス』……王都最大級の商人ギルドですね」


 シリヤの冷静な分析を聞きながら、僕は馬車を降りた。


 現場は、怒号と混乱の渦に包まれていた。


 その混乱の中心で、一人の若い女性が、気丈に、しかしどこか張り詰めた様子で指示を飛ばしていた。

 年の頃は僕と同じくらいだろうか。

 燃えるような赤毛をポニーテールに束ね、その瞳には強い意志の光が宿っている。


「慌てるな! まずは負傷者の救護を最優先しろ! 迂回路の確保は第二班が担当! 残りは、荷物の被害状況を確認!」


 彼女の指揮は見事だった。

 だが、圧倒的な自然の力の前に、その采配も空しく響く。

 業を煮やしたのか、彼女はヒステリックに叫んだ。


「何をぼやぼやしている! さっさと岩をどかせ!」


「無理ですよ、ギルドマスター! こいつは、人間の力でどうにかなる代物じゃ……!」


 部下の悲鳴にも似た声に、彼女がぐっと唇を噛みしめるのがわかった。


 僕は隣に立つビルギットに視線を向ける。

 ビルギットは、僕の意図を即座に理解し、こくりと小さく頷いた。


 僕は、そんな彼女の元へと、静かに歩み寄った。


「お困りのようですね。よろしければ、僕たちも手を貸しましょうか?」


「……あんたは?」


 若い女性は、警戒心を露わにした瞳で僕を見返す。


「王都に向かっている旅の者です。あなたは、この商人ギルドの……隊長さんですか?」


「ああ。私がギルドマスターのトーヴェだ」


 僕の問いに、彼女はぶっきらぼうに答えた。


 馬車から降りてきたシリヤが、思わずといった様子で口を挟む。


「失礼ですが、『北の羅針盤』のギルドマスターは、もっと年を召した方だと伺っておりましたが」


 シリヤの言葉に、トーヴェは一瞬だけ、寂しげに目を伏せた。


「……父が、半年前に急逝してね。私が、後を継いだんだ」


 僕は、そんな彼女に、改めて微笑みかけた。


「僕の仲間は、少しばかり、力自慢でしてね」


 僕は、背後に控える仲間たちに目配せを送る。


 ビルギットが、僕の意図を即座に理解し、一歩前に出た。


「――ふんっ!」


 彼女が気合一閃、立ち往生していた馬車一台を「よいしょ」と軽々と持ち上げ、道の脇へと退避させる。

 唖然とする商人たちを尻目に、ヴィルデが弓を構えた。

 彼女が放った一本の矢が、行く手を阻んでいた巨大な岩盤の、絶妙な一点を正確に射抜く。

 ピシリ、と。

 岩盤に亀裂が走り、次の瞬間、それは自重に耐えきれず、ガラガラと崩れ落ちた。


 その光景を、トーヴェは信じられないといった表情で見つめていた。


「……あんたたち、一体何者なんだ……?」


「旅のものです」


 僕がそう言って悪戯っぽく笑うと、彼女は呆れたように、ふっと息を吐いた。


「……面白い。気に入った。この借りは、必ず返す」


 彼女の差し出した手を、僕は強く握り返した。


◇◇◇


 僕たちの協力もあり、街道は驚くほどの速さで復旧した。

 トーヴェは、改めて僕の元へやってくると、深々と頭を下げた。


「……助かった。あんたがいなければ、どうなっていたことか」


「いえ、あなたの指揮も見事でした。僕には、あれほどの組織をまとめる才覚はありません」


「謙遜するな。あんたの、あの的確な指示がなければ、復興には一週間くらいかかっていたかもしれん」


 トーヴェは、ふぅ、と一つ大きな息をつくと、少しだけ疲れたように笑った。


「……すまない。少しだけ、休ませてくれ。さすがに、気疲れした」


 彼女はそう言って、僕たちに背を向け、人混みから少し離れた木陰へと一人、歩いていく。

 だが、その背中は、どこか頼りなく、小刻みに震えているように見えた。


(……様子が、おかしい)


 僕が心配になって後を追うと、彼女は木陰で、必死に呼吸を整えようとしていた。

 ぜぇ、ぜぇ、と浅く速い呼吸が、その華奢な肩を苦しげに上下させている。

 ぎゅっと握りしめられた彼女の手は、真っ白になるほど力が入り、微かに震えていた。

 過呼吸の発作だ。


 僕は、彼女を驚かせないよう、ゆっくりと、静かに近づいた。


「大丈夫だよ」


 僕は彼女の隣に静かに立った。

 一声かけてから、その震える背中にそっと手を当てる。

 強張る彼女の身体に構わず、僕はゆっくりと、一定のリズムでその背中をさすり始める。


「僕を見て。……僕の呼吸に合わせてみて。……吸って……」


 僕がゆっくりと息を吸う。


「……吐いて……」


 僕に合わせて、彼女の必死だった呼吸が、少しずつ、穏やかさを取り戻していく。

 やがて、発作が完全に収まった頃、トーヴェは、はっとしたように僕の顔を見上げた。


「……あんた、何者なんだ?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ