第64話 悲しくも美しい天使
「……そうか。最後の患者は、君だったんだな、アスラグさん」
僕が語りかけると、少女の幻影が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞳は、底なしの絶望で、暗く濁っている。
瞬間、世界が反転した。
僕は、彼女の魂が再生し続ける、終わらない地獄――『三つの絶望』の劇場へと、強制的に引きずり込まれていく。
◇◇◇
最初の舞台は、薄暗い一室だった。
豪華な調度品が並んでいるが、どこか息が詰まるような閉塞感がある。
僕の視点は、幼いアスラグのものへと固定されていた。
目の前には、穏やかな笑みを浮かべた、美しい母親マリットが立っている。
その手には、一本の細い鞭が握られていた。
「さあ、アスラグ。『清め』の時間です」
母親の声は、優しい。
だが、その瞳の奥には、狂信的な光が宿っている。
魔術の才能を見せた娘を「罪」と断じ、罰を与える。
それが母親の歪んだ愛情表現だった。
『ぴしっ!』
鞭が空気を切り裂き、小さな背中に赤い軌跡を描いた。
痛い。痛い。痛い。
だが、涙を流すことは許されない。
「どうして泣くのです? これは、あなたのためなのですよ」
母親は、淡々と言葉をつづける。
「これは『愛』です。あなたの魂を罪から守るための、清めなのです。さあ、感謝なさい」
正しさによる、暴力。
逃げ場のない絶望が、僕の精神を直接蝕んでいく。
◇◇◇
二番目の舞台は、冷たい石の廊下だった。
季節は冬。
僕は、十代のアスラグになっていた。
彼女の隠しきれない才能は、ついに母親の狂気を決定的なものに変えてしまったのだ。
「あなたはもう、私の娘ではありません」
冷たく、感情のこもらない声が、背中に突き刺さる。
振り返った先には、氷のような無表情を浮かべた母マリットと、その隣で、ただ泣きながら俯くことしかできない姉ヘルグァの姿があった。
唯一の味方であったはずの姉でさえ、母の狂信の前では無力だった。
「出ていきなさい。魔に魅入られた子は、この家にふさわしくない」
勘当という名の、絶対的な拒絶。
小さな鞄一つを手に、僕は、いや、彼女はたった一人で家を追い出された。
完全な孤独。
世界の全てから、見捨てられたような感覚。
(もう、私はひとりなんだ。ひとりで生きていかなければ……)
空からは、雪が降っていた。
この絶望が、彼女をアカデミーでの成功という、歪んだ渇望へと駆り立てていく。
◇◇◇
そして、三番目の舞台。
そこは、王立アカデミーの大講堂だった。
壇上に立つ、さらに成長したアスラグ。
彼女は、自らの全てを懸けた研究を、震える声で、だが必死に発表している。
これが認められれば、きっと、自分の力だけで生きていける。自由になれる。
だが、その淡い希望は、一人の少女によって、無慈悲に打ち砕かれた。
「――その理論には、三つの致命的な欠陥があります」
聴衆席から立ち上がったのは、シリヤだった。
彼女は、アスラグの理論の矛盾点を、冷徹なまでに完璧な論理で、一つ、また一つと暴いていく。
論破という名の、否定。
周囲から、くすくすと嘲笑が漏れ始める。
その声が、次第に大きな波となり、アスラグの心を、そして僕の心を、ずたずたに引き裂いていった。
母からの暴力。母からの拒絶。社会からの否定。
三つの絶望が、終わることなくループする。
もう、やめてくれ……。
僕の意識が、彼女の絶望に完全に呑み込まれようとした、その瞬間だった。
◇◇◇
(……違う。僕は、絶望に呑み込まれるために、ここに来たんじゃない)
僕は、カウンセラーだ。
アスラグを、この地獄から救い出すために来たんだ。
僕は、悪夢の中で、必死に意識を集中させる。
そして、見つけ出した。
絶望の劇場の片隅で、膝を抱え、ただ泣きじゃくっている、幼いアスラグの魂を。
僕は、その小さな背中に、ゆっくりと近づいた。
そして、その隣に静かに座る。
「……辛かったね」
僕の言葉に、アスラグの肩がびくりと震えた。
「痛かったね。寒かったね。……悔しかったね」
僕は、彼女の絶望を否定しない。
ただ、寄り添い、受け止める。
僕の【神の瞳】が、彼女の魂の、一番奥底にある、純粋な願いを捉えていた。
「君は、ただ自分の力で自由になりたかっただけなんだね」
その一言に、アスラグの嗚咽が、ぴたりと止まった。
彼女は、涙で濡れた瞳で、信じられないものを見るように、僕の顔を見上げた。
「母の期待に応えるためじゃない。誰かに認められるためでもない。君は、ただ、君自身の翼で、どこまでも自由に、飛んでいきたかっただけなんだ」
僕の言葉を、アスラグは黙って聞いていた。
「君の夢は、何一つ、間違っていなかった。君が求めた自由は、誰にも否定されるべきものじゃなかったんだ。ただ、その方法が、少しだけ、遠回りだっただけなんだよ」
僕がそう言って、優しく微笑みかけると。
ループしていた絶望の風景に、ぱっと、温かい光が差し込み始めた。
母が振るっていた鞭は、光の粒子となって消える。
追い出された日の冷たい雪は、祝福の光のシャワーへと変わる。
講堂に響いていた嘲笑は、穏やかな、優しい音色へと変わっていく。
どんな魔法よりも強力な、『共感』と『肯定』という名の、魂を癒す奇跡の力。
それが、彼女を縛り付けていた、全ての呪いを解き放っていった。
◇◇◇
アスラグが、僕の前で、ゆっくりと立ち上がった。
その顔にはもう、絶望の色はない。
ただ、全てを許されたような、穏やかで、安らかな表情が浮かんでいた。
彼女の体が、ふわりと、光の粒子となって、少しずつ透き通っていく。
夜明けだ。
B区画の悪夢のネットワークが、完全に浄化されていく気配がした。
「……ありがとう……」
感謝の言葉。
それを最後に、彼女の魂は、穏やかな光となって、完全に消滅した。
そして、世界は徐々に粒子となり、輪郭を失いはじめる……。
◇◇◇
僕は、精神世界から、ゆっくりと現実へと帰還した。
「……アーリング様!」
仲間たちの、安堵に満ちた声が聞こえる。
僕は、椅子からゆっくりと立ち上がった。
まさにその瞬間だった。
『グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!』
地獄の底から響き渡るような、絶叫。
怪物の咆哮。
突如、礼拝堂のステンドグラスが、一気に割れた。
そして、祭壇の奥、巨大な聖印が描かれていた箇所が、轟音とともに左右に割れていく。
開かれた闇の向こうから、黒い霧が吹き出してきた。
闇の奥で、光が灯った。
そこにいたのは……怪物ではなかった。
純白の、だがどこか禍々しい輝きを放つ、巨大な翼を広げた人型の存在。
その全身は滑らかな曲線を描き、所々に埋め込まれた水晶体が、星々のように瞬いている。
顔に表情はなく。
頭上には光の環が浮かび、背中からは十数枚の羽根が生えている。
美しく、そして神々しい。
それは、アスラグが最も渇望した「自由」を具現化したかのような、空中を翔ける天使の姿。
しかし、その瞳だけは、血のような赤色に染まり、底知れない憎悪と虚無を宿していた。
魂を失い、ただ破壊衝動の塊と化した、本物の合成獣――アスラグだった。
その美しい姿を見て、僕は、悲しいと思った。




