第57話 人として、死にたい。
「論理的帰結として、その……キスを……していただけない、でしょうか。それが、この任務を完遂するための、最も合理的で、確実な手段かと存じます」
「…………は?」
僕の思考は、完全に停止していた。
凍りついた空気の中、最初に沈黙を破ったのは、リネアだった。
「――それが、最も合理的な判断です」
僕とシリヤの視線が、驚きと共に彼女へと注がれる。
「旦那様。シリヤ様の魔術が不安定になれば、我々三人はここで溺死するかもしれません。作戦遂行のため、彼女の精神を安定させることは、最優先事項かと」
その言葉は、完璧な正論だった。
あまりにも、完璧すぎる正論。
「ですが……」リネアは、そこで一度、言葉を切った。「これは、あくまで私の『提言』です。最終的なご決断は、旦那様がご自身でお決めください」
彼女は、僕に全ての選択を委ねた。
いったいリネアが何を考えているのか、さっぱりわからない。
「……わかった」
僕は、ゆっくりとシリヤに向き直る。
シリヤは顔を真っ赤にして俯いていた。
僕は、彼女の震える肩にそっと手を置くと、その顔を優しく上げさせた。
涙に濡れた紫色の瞳が、不安げに僕を見つめ返してくる。
リネアが見ている。
その視線が、痛いほど背中に突き刺さる。
僕は、ゆっくりと顔を近づけた。
そして、シリヤの、震える唇に、そっと自分の唇を重ねた。
柔らかく、そして、温かい感触。
それが、シリヤにとって初めてのキスなのだと、すぐにわかった。
数秒にも、永遠にも感じられる時間。
僕がゆっくりと唇を離すと、シリヤは呆然と、夢見るような表情で僕を見つめていた。
「……あ……」
彼女の頬が、今まで見たどんな時よりも、鮮やかな赤色に染まっている。
天才が見せるその無防備な一面は、とにかく愛らしかった。
◇◇◇
重い沈黙の中、僕たちは潜入を再開する。
シリヤの魔術は完全に安定を取り戻していた。
『空気の球体』は静かに、そして滑るように水中を進んでいく。
やがて、僕たちの視界の先に、人工的な光が見えてきた。
魔力炉の施設から漏れる光だ。
僕たちはついに魔力炉の内部へと、その第一歩を踏み入れた。
「ここが……A区画か」
僕はリムスキー管理官から託された地図を広げ、小声で確認する。
「職員たちの居住エリアや物資の搬入口がある、施設の心臓部から一番遠い場所です」とリネアが補足する。
「居住エリア、ですか」シリヤが周囲を見渡し、眉をひそめた。「にしては、あまりにも無機質で……生活感が全く感じられませんね。それに、静かすぎます」
「ああ。本来なら、職員たちの往来がもっとあってもいいはずだが……」
僕の呟きに、リネアが静かに答えた。
「だからこそ、なのでしょう。旦那様。リムスキー管理官は、この施設で最も警備が手薄になる場所を、意図的に潜入ルートとして選んだのです。警備の目も、施設の異常も、ここならまだ届きにくい」
「なるほど。論理的ですね」とシリヤはうなずいた。
どこまでも続く、長い通路。
壁に埋め込まれた魔術水晶が、青白い光で僕たちの影を不気味に伸ばしている。
その時、通路の先から、規則正しい、複数の足音が聞こえてきた。
「旦那様」
リネアの警告に、僕たちは咄嗟に、近くにあった巨大な配管の影へと身を隠した。
やがて、足音の主が姿を現した。
魔力炉の職員らしき、数人の男女だった。
だが、その姿は、僕の背筋を凍りつかせるには十分だった。
「……様子が、おかしいですね」
シリヤが息を呑むのがわかった。
僕も、目の前の光景に違和感を覚えていた。
職員たちの顔には表情がない。
極度の緊張と疲労……そして、全てを諦めきったかのような深い絶望の色だった。
「操られているんじゃ、ない……」
僕は【神の瞳】を発動させながら、確信を持って呟いた。
彼らの魂は空っぽなどではない。
むしろ、あまりにも多くの重い感情で、黒く、どろどろに澱んでいた。
(子供たちを傷つけているという『罪悪感』。家族を人質に取られている『恐怖』。そして、この地獄から決して逃れられないという『絶望』……!)
「彼らは、脅されているんだ」
僕が、そう言った、まさに瞬間だった。
規則正しく行進していた職員たちの一団。
その中の一人の若い女性が、ふと、何の脈絡もなく足を止めた。
彼女の隣を歩いていた男が、周囲を警戒しながら、必死に声をかけていた。
「アネッテ、歩け。止まるな……見られているぞ。歩かないと、殺される……!」
だが、その必死の呼びかけも、アネッテと呼ばれた女性には届いていない。
他の職員たちは、一瞬だけ彼女に憐れむような視線を向けたが、すぐに目を伏せた。
何も見なかったかのように無感情に行進を続けていく。
『……また一人、仲間が死ぬのだ』
彼らの魂が発する、声にならない諦めの声が、僕の心に重く響いた。
アネッテは、自分の両手をおそるおそる目の前にかざし、じっと見つめている。
「……まずい」僕は【神の瞳】を発動させながら、呟いた。「精神が、飽和している」
僕の脳内に、彼女の壊れかけた心の声が、断片的なイメージと共に流れ込んでくる。
(きれいな手……アマリエの髪を、撫でてあげた手……。違う……この手は……汚れてる……汚れてる……汚れてる……)
罪悪感のループが、彼女の理性の最後の糸を、ぷつりと断ち切ったのだ。
アネッテは、虚ろな瞳のまま、誰に言うでもなく呟いた。
「……もう、やめなきゃ」
彼女は、静かに踵を返した。
さきほど声をかけていた同僚も、それ以上は何もできず、唇を噛み締めながら列へと戻っていった。
通路の天井にあるダクトが、音もなく静かに開いた。
そこから一体の合成獣が床に降り立つ。
蜘蛛のような多関節の脚、カマキリのような鎌を持つ、静かなる処刑人。
僕は剣の柄に手を伸ばした。
「待ってください!」シリヤが僕の腕を掴んだ。「今動けば、私たちの潜入が……!」
「罠の可能性もございます」リネアも冷静に僕を制する。
二人の言う通りだ。
ここで動くのは、あまりにもリスクが高い。
だが、僕の耳には、【神の瞳】を通して、壊れながらも前に進もうとする彼女の、最後の願いが聞こえていた。
(アマリエ……母さんは……せめて、人として……)
人として、死にたい。
その、あまりにも悲痛な願い。
合成獣の鎌が、無慈悲に振り上げられる。
「―――見殺しになんてできない!」
理屈じゃなかった。
僕の身体は、思考より先に動いていた。
合成獣の複眼が、新たな侵入者である僕たちを捉えた。
ターゲットを変更し、その鋭い鎌が僕たちを薙ぎ払わんと高速で迫る。
「旦那様、右へ!」
リネアの警告と、僕が回避行動を取るのはほぼ同時だった。
だが、攻撃は一つではない。
死角から伸びてきたもう一方の鎌を、リネアが漆黒の短剣で弾き返す。
キィン! と甲高い金属音が響き、火花が散った。
「くっ……!」
リネアの体勢がわずかに崩れる。
合成獣のパワーは彼女の予測を上回っていたようだ。
追撃の刃が、無防備になった彼女へと迫る。
「――お前の相手は、こっちだ!」
僕は合成獣の側面に回り込み、魔力を込めた剣でその多関節の脚の一つを斬りつけた。
致命傷にはならない。
だが、注意を引くには十分だった。
合成獣の意識が僕へと向き、リネアへの追撃が止まる。
僕とリネア。
二人の完璧な連携が、猛攻を捌き切り、ほんのコンマ数秒の、しかし決定的な隙を生み出した。
その一瞬を、天才が見逃すはずがない。
「――ファイアボール」
静かなシリヤの詠唱が響いた。
初級魔術だ。
魔術を志す者なら、誰もが最初に習うであろう、あまりにも基本的な魔法。
だが、シリヤの杖先に現れた炎の玉は、僕たちが知るそれとは似ても似つかぬ代物だった。
完璧な球体。
極限まで圧縮され、まるで小さな太陽のように白く輝く、凝縮された熱量の塊。
魔力構造の無駄を一切削ぎ落とし、理論上の最大効率を叩き出した、完璧な数式によって導かれた答えだった。
白光の球体は鋭い音と共に放たれる。
それは合成獣の核に衝突しても、爆発しなかった。
ただ、吸い込まれるように核と融合し――その存在を、内側から消滅させた。
ガラスが砕けるような甲高い音を立て、合成獣は光の粒子となって霧散する。
一瞬の、完璧な連携だった。
アネッテは、へたり込んだまま、呆然と僕たちの顔を見比べている。
「……な、ぜ……?」
震える声で、彼女は尋ねた。
「なぜ、助けたの……? 私も、あなたたちも、もうここから生きては出られないのに……!」
僕は、とっさに手を差し伸べていた。
「もう大丈夫です。僕達は、あなた方を助けに来たんです」
「助けに……」
アネッテの瞳から、今まで堪えていた大粒の涙が、音もなくこぼれ落ちる。
彼女は僕の手を握った。
「……助けてください」
僕は、ぎゅっと彼女の手を握り返した。




