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第55話 あんたたちは、親子揃って罪深いね

「旦那様との子どもがほしいです」というリネアの言葉を、僕は思い出していた。


 全身が鉛のように重かった。

 心地よい気だるさと、それ以上の満ち足りた感覚が、僕の思考を鈍らせる。


 隣を見ると、僕の腕を枕にするように、リネアが安らかな寝息を立てていた。

 いつも完璧に結い上げられている銀髪が、シーツの上に無防備に散らばっている。

 普段の完璧なメイドの仮面が剥がれ落ちたその寝顔は、僕が今まで見たどんな彼女よりも、ずっと幼く見えた。

 どうしようもなく愛おしい。


 腕の中にある温もりだけが、現実だった。

 ……もし、ここに新しい命が宿っていたとしたら。

 その想像は、途方もない幸福感を僕にもたらした。


 しばらくの間、ぼんやりとリネアの寝顔に見とれていると……。


 ふと、リネアがまぶたを開いた。


「……おはよう、ございます。旦那様」


「うん、おはよう、リネア」


 彼女はゆっくりと身を起こすと、事務的な声色で言った。


「言うかどうか迷っていたのですが……。例の『魔力炉』の最高管理責任者は、グレンフェル公爵……あなたのお父上ですね」


 その言葉で、僕の意識は甘い夢から現実へと引き戻される。


「……どう思う?」


「結論を出すにはデータが少なすぎます」とリネアは言った。「ただ、お父上がどこまで、この魔力炉のことを知っているのか、あらかじめ、いろいろと想定して動く必要があるでしょう」


 実に婉曲的な表現だった。

 つまり、父がすべてを知っている可能性も、何も知らない可能性も、どちらも考慮して動かなければならない、ということだ。


 いずれにせよ、確かめる必要がある。

 父と、直接話さなければ。


 僕がそう決意を固めた、まさにその瞬間だった。


 窓の外に、巨大な影が舞い降りる。


 バサッ、と翼の音がして、僕たちの部屋のバルコニーに、一羽の巨大な鷲が音もなく着地した。


 月光を浴びて鈍色に輝く鋼のような羽。

 全てを見透かすかのような、鋭く、そして知的な瞳。


 大鷲は、部屋の中の僕たちの姿を認めると、その嘴で、こつ、こつ、と窓ガラスを叩いた。


 そして、僕たちの脳内に、直接、どこか面白がるような声が響いてきた。


『……おっと。邪魔したかね? なにやら、お楽しみの最中だったようだが』とグローアの声がした。


「うわあああっ!?」


「ひゃっ!?」


 僕とリネアは、悲鳴を上げてシーツにくるまり、慌てて散らばった服を手繰り寄せ始めた。


◇◇◇


 慌てて服を身に着け、どうにか体裁を整える。

 バルコニーでは、気だるげな美女が手すりにもたれかかっていた。

 グローアだ。


 彼女は僕とリネアの真っ赤な顔を見比べ、心底面白そうに、その唇に笑みを浮かべていた――が。

 不意に、その視線がリネアに固定され、表情が真剣なものになった。


「……あんたはリヴの子だね? 魔力の波長がよく似ている」


「はい」とリネアは静かに答えた。


「ふぅん」グローアはリネアをじっと睨みつけた。「あんたは、知っているのかい?」


 リネアは――ほんの一瞬だけ、唇を固く結んだ。

 だが、すぐにいつもの完璧な無表情に戻ると、「はい」と静かに答えた。


 知っている?

 いったい、どういう意味だ?

 リネアは、何を知っているんだ?


 グローアの視線が、僕に移る。


「坊っちゃんは?」


「知りません」


 僕が口を開くより先に、リネアが即答した。

 僕は何を知らないんだ? わけがわからない。


「なるほど」グローアは深く息を吐いた。「あんたは……いや、あんたたちは、親子揃って罪深いね」


 次は、リネアは何も答えなかった。

 ただ、静かに床の一点を見つめている。


「まあ、私は罪人も嫌いじゃない。むしろ、何も考えずにのうのうと生きている『普通』の人間よりも、苦しみながらも、罪を負いながらも必死に生きている人間のほうが好ましいと言える」


「ありがとうございます」リネアは、そこで初めて顔を上げた。「アスラグ様の件はお聞きになっていますか?」


「ああ。聞いている。馬鹿な子だよ、本当に……。それで、その赤子は?」


「いまはヴィルデ様が見てくださっています。ただいまお連れします」


 リネアが部屋を出ようとするのを、僕は手で制した。


「待ってくれ、リネア。その前に……」


 僕はグローアに向き直った。

 今しかない。


「グローアさん。僕の父と連絡を取りたいんですが、なにか方法はありませんか?」


 僕の問いに、グローアは意外そうな顔で僕を見返した。


「……あの堅物と、かい? まあ、昔のよしみで、緊急時用の魔力回線を一本だけ、繋いだままにはしてあるがね」


 彼女は肩をすくめてみせる。


「もっとも、あいつがまだそれを使えるようにしているかは、あたしにもわからん。最後に使ったのは、もう何十年も前の話だ。……試してみるかい?」


「お願いします」


 僕が力強く頷くと、グローアは「やれやれ」と呟きながら、指先で空中に複雑な魔法陣を描き始めた。


 古びた回線が、鈍い光を放ちながら起動する。

 やがて、光は安定し、僕たちの目の前に、見慣れた書斎の光景を映し出した。


◇◇◇


 窓辺に立ち、静かにこちらに背を向ける、一人の男。

 僕の父、グレンフェル公爵だ。


『――久しいな、グローア。くたばっていなかったか』


 父は、振り返らない。

 その声には、微かな皮肉が滲んでいた。


「ああ、久しいね、公爵『様』。あんたこそ、つまらない椅子の上で、まだ生きていたのかい。……それより、あんたの息子が話したいことがあるらしくてね」


 グローアが、僕に目配せをする。

 僕は一歩前に出ると、映像の向こうの父に向かって、深々と頭を下げた。


「ご無沙汰しております、父上。……アーリングです」


 父は、ゆっくりとこちらを振り返った。

 その瞳に、感情はない。


「……リムグレーペの件か。お前の報告は、すでに受けている」


 父は言葉をつづけた。


「魔力炉の地下で、非道な実験が行われているという噂……そして、アスラグという魔術師の暴走。嘆かわしいことだ。全ては、現地管理官の無能さが招いたことよ。奴め、まんまと経歴を詐称した魔術師一人に良いように利用されおって」


 現地管理官……リムスキー氏のことか。


「リムスキー氏に責任があるという話になっているのですか?」


「そう報告を受けている」と父は答えた。


「僕は、彼もまた被害者だと感じました」


「アーリング。お前がそう言うのであれば、そうなのかもしれんな」父は深くため息をついた。「これは、表沙汰にできん。我が公爵家の失態が露見すれば、他の貴族どもがここぞとばかりに牙を剥く。これは命令だ。誰にも気づかれることなく、アスラグを『処理』し、この騒動の全てを秘密裏に収拾せよ。お前になら、できるな?」


 僕は即答しなかった。

 本当に、父上は、この魔力炉のことを知らなかったのか?

 いろいろな思考が脳裏をよぎる。


 けれども。

 ひとまず、眼の前の問題を解決していくしかない。


「――御意」


 僕は、静かに、そして深く、頭を垂れた。


「……よろしい」


 父は満足げに一度だけ頷くと、一方的に通信を切断した。

 揺らめいていた書斎の光景が、陽炎のように掻き消える。

 後に残ったのは、重い沈黙だけだった。


◇◇◇


 しん、と静まり返った部屋で、最初に口を開いたのは、グローアだった。

 彼女は腕を組み、僕の顔をじっと見つめていた。

 その表情から、先ほどまでのからかうような色は完全に消え失せている。


「見事な『御意』だったじゃないか」


「見事な『御意』ってなんですか」


 思わず、素で返してしまった。

 ごくごく普通の『御意』だっただろう。


「まあ、これで大義名分は得たわけだ」


 グローアは、ふっと、遠い目をした。


「昔のあいつに、少しだけ似ていたよ。人を救うためなら、どんな嘘でも利用して前に進む、あの青臭いところに、な」


 僕は黙ってグローアの話をきいていた。

 僕の知っている父とは、まったく違う。


「奴は、自分の信じる『正義』のためなら、どんな非情な手段も厭わない。仲間さえも、平気で駒として切り捨てる。そういう人間になっちまった。……だが、昔のあいつが見せたかった景色の続きを、あんたなら見せてくれるのかもしれないね」


 グローアは微笑んだ。


「期待してるぞ。次期当主」


「いえ……僕はもう、追放された身ですから」


「ふん、つまらんことを言うな」とグローアは呆れたように言った。「爵位なぞただの飾りに過ぎん。家を継ぐのは、血じゃない。器だ。……お前さんには、それがある。あの堅物には、もうないがね」


 グローアはリネアを見た。


「これから、お前たちが歩む道は地獄だろう。でも、きっと、お前たちなら、地獄だろうが踏破できるだろう。精々頑張りな」

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