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第54話 旦那様との子どもがほしいです

「私はヘレンナ。ヘレンナ・リムスキーと申します」


「リムスキー管理官の、奥様ですか?」


「はい」


「……奥様、落ち着いてください」僕は声を潜めた。「ここは人目につきます。詳しいお話は、私たちの宿で伺いましょう」


 僕の提案に、彼女はこくりと頷いた。

 僕たちは足早に喫茶店を後にした。


◇◇◇


 宿屋の一室。

 ようやく人目を気にせず話せる状況になった。


「それで……旦那さんを助けてほしいということでしたが」


 ヘレンナさんは深く息を吐いて語り始めた。


「夫は……もともと、とても心優しい人でした。子供たちの未来のためだと、誰よりも熱心に魔力炉の計画を進めていたのです。それなのに……」


 彼女の言葉が、途切れ途切れになる。

 僕の【神の瞳】には、彼女の魂に絡みつく、夫を想う深い『悲しみ』と、どうすることもできない『無力感』の鎖が視えていた。


「突然、何もしなくなったんです。いまでは、毎日、お酒を飲むばかりで、食事もほとんど食べません」


「断定はできませんが、おそらくは深刻な『心の傷』が原因でしょう。ご主人と直接お会いできれば、僕なら救えるかもしれません」


「本当ですか……!?」


「ええ。僕の専門は、そういう『心の傷』を癒すことなんです。ですが、そのためには、ご主人と直接、二人きりで話をする必要があります」


「ですが……」ヘレンナさんは目を伏せる。「私どもは魔力炉の職員官舎に住んでおります。厳重な警備があります」


「旦那さんを外に連れ出すのは、どうでしょうか?」


 僕の提案に、ヘレンナさんは力なく首を横に振った。


「それは…難しいかと存じます。夫は心身ともに衰弱しきっており、部屋から一歩も出ようとはしません。それに、仮に外へ出せても、厳重な監視の目を掻い潜るのは至難の業です」


「そうですか……。では、やはり僕が中へ入るしかありませんね」


 ヘレンナさんは、はっとしたように顔を上げた。


「危険すぎます! ですが……」彼女は続けた。「物理的な警備でしたら、私に協力できることが。警備兵の交代は、深夜二時。東棟の廊下が、ほんの数分だけ無人になります。ですが、通路には魔術的な探知結界が張り巡らされていると聞いています……」


「……よくそんな情報を知っていますね」


「……私、いまは家庭に入っていますけれど、もともと情報局出身なんです。つい、そういう隙を見つけてしまうんです。職業病ですね」


 一瞬、僕たちを罠にはめようとしているのではないか、と疑ったが……。

 『神の瞳』で見る彼女の心は、嘘をついているようには視えない。

 まあ、納得できる話ではあった。


「……十分です、奥様。その数分があれば、僕たちなら潜入できます」


 父上に相談し、リムスキーとの面会を取り付けるという手もあるが……。

 父上と交渉をしている時間がもったいない。

 さっさと侵入したほうが早いだろう。


◇◇◇


 宿屋に戻った僕は、仲間たちに計画の全容を打ち明けた。

 物理的な警備の穴はヘレンナさんが見つけてくれた。

 問題は魔術的な監視だ。


「なるほど。つまり、物理的な警備の死角と、魔術的な監視網、その両方を同時に突破する必要がある、と」


 腕を組んで思案していたシリヤが、ふっと自信に満ちた笑みを浮かべた。


「面白い。私の出番ですね」


 彼女は懐から水晶盤を取り出すと、指先でなぞりながら説明を始めた。


「この魔力炉の監視システムは、私がアカデミーに在籍していた頃の基礎理論が応用されています。いわば、私の庭のようなもの。宿屋から遠隔で妨害魔法をかけ、監視魔道具に『ループ映像』――数分前の正常な光景を繰り返し見せ続けることができます。ですが……」


 シリヤは僕の目をまっすぐに見て言った。


「この魔法を維持できるのは、頑張っても一時間程度が限界です。その間に、全てを終わらせてください」


「ああ、任せてくれ」


◇◇◇


 深夜二時。

 闇に溶け込むように、僕とリネアは職員官舎の東棟に潜んでいた。

 いまのところ、特に問題なく侵入できた。

 シリヤの妨害魔法は完璧に機能しているようだ。


 ヘレンナさんの情報通り、巡回していた警備兵の足音が遠ざかり、廊下に完璧な静寂が訪れる。


「……行こう」


 僕の合図で、音もなく廊下へと滑り出す。

 だが、管理官の私室へと続く最後の通路に差し掛かった時、僕は足を止めた。


「リネア、ストップ」


 僕の【神の瞳】には、肉眼では視えない、青白い魔力の糸が、網目のように廊下を覆っているのがはっきりと視えていた。

 シリヤの広域妨害では干渉できない、独立した局所的な探知結界だ。

 この糸にわずかでも触れれば、即座に警報が鳴り響くだろう。


「これは……聞いていた話と違いますね」


 リネアが囁く。

 おそらく、ヘレンナさんですら気づいていなかった、追加のトラップなのだろう。


 さて、どうしたものか……。


 僕は目を閉じ、意識を結界の魔力の流れだけに集中させる。

 無数の魔力の糸は、複雑に絡み合いながらも、一定の法則を持って脈動している。

 そして、その脈動の中に、ほんの一瞬だけ、全ての糸が緩み、人が一人通れるだけの『隙間』が生まれる瞬間があった。


「リネア。あの壁際の柱の影、床から一メートルの高さ。0.5秒間だけ、結界に穴が空く。……通り抜けられるかい?」


 常人には不可能としか思えない要求。

 だが、リネアは完璧な無表情のまま、静かに頷いた。


「――旦那様のご命令とあらば」


「じゃあ、タイミングを教えるね」


「どのようにお伝えいただけるのですか?」


「えっと、いまだって言うから」


 僕の提案に、リネアはほんの少しだけ眉をひそめた。


「音を聞いていては遅いと思われます。周期は一定の間隔ですか?」


「うん、そうだね。正確に三秒に一度、0.5秒間だけ開く」


「それならば」


 そう言って、リネアは僕の手を取った。


 急に手を掴まれたので、驚いた。

 ひんやりとした彼女の指先が、僕の手に絡みつく。

 なんだか、気恥ずかしい。


「穴が空いたタイミングのときに、手をぎゅっと握ってください。そのリズムを記憶します」


 僕はこくりと頷き、再び意識を結界の脈動に集中させる。

 握られた彼女の手は、驚くほど柔らかい。


 ―――三、二、一、今。


 僕は結界の穴が開くタイミングに合わせ、彼女の手を一度、強く握った。

 もう一度、三秒後。

 再び、強く握る。


 リネアは目を閉じ、僕が伝えるリズムに全神経を集中させている。

 緊迫した状況の中、こうして手を繋いでいると、まるで互いの心臓の鼓動までが一つに同調していくような、不思議な感覚に陥った。


 数回繰り返した後、リネアは静かに目を開けた。


「……覚えました」


 彼女はそっと僕の手を離すと、ふっとその場に屈み込む。


 次の瞬間、彼女の身体はまるで重力から解放されたかのように、しなやかに宙を舞った。

 壁を蹴り、空中で身を翻す。

 その動きは、音もなく、獣のように滑らかだ。


 魔力の糸が最も緩んだ、コンマ数秒のタイミング。

 彼女は、僕が伝えた完璧なリズムで、僕が示した座標を、まるで針の穴に糸を通すかのように、通り抜けてみせた。


 結界の向こう側、柱の影に着地したリネアは、何事もなかったかのように僕を振り返る。

 そして、懐から取り出した一本の銀の糸で、結界の魔力供給源となっている床下の水晶に干渉し、僕が通るための一時的な安全な通路を確保してくれた。


「お見事」


 僕が小さく賞賛すると、彼女は「当然のことでございます」と、静かに一礼した。


 僕たちは、再び歩みを進めた。


◇◇◇

 ヘレンナさんの手引きで、リムスキー管理官の部屋へと入った。


 扉を開けた瞬間、むわり、とカビ臭い匂いがした。

 安物の蒸留酒と、長い間掃除されていない部屋の淀んだ空気。


 部屋の隅、安楽椅子に沈み込むように、一人の男が座っていた。

 手には空の酒瓶が握られ、その目は虚空を彷徨っている。


「……誰だ。出ていけ。私に構うな……」


 か細く、掠れた声。


「リムスキーさん。僕はアーリングと申します。奥様の依頼で、あなたを救いに来ました」


「救う、だと……?」彼は、自嘲するように、乾いた笑いを漏らした。「救いなど、ない。私のような罪人に、そんな資格はない……。私には……何もできなかったんだ……!」


 僕は本格的に【神の瞳】を発動させる。

 彼の魂の正体を暴き出すために。


 そこにあったのは、どす黒く、そしてあまりにも重厚な『罪悪感と無力感の鎧』だった。

 その鎧は、鋭い棘を内側に向けて、彼の魂そのものを絶えず苛んでいる。


 僕は、静かに彼の前に膝をついた。


「……辛かったでしょう」


「……なに?」


「あなたは、無力だったのではない」


 僕は、彼の虚ろな瞳を、まっすぐに見つめ返した。


「あなたは、愛する者を守るため、たった一人で地獄に耐えてきたのです」


 彼の肩が、ぴくりと震えた。


「お話を聞かせていただけますか?」


 僕の言葉を受け、彼は、深く息を吐いた。


「私は……」彼の唇が、震える。「私は、知ってしまったんだ……! この魔力炉の、地下……! あそこは、地獄だ……! 村から『お勤め』に来ている子供たちが、『苗床』にされて……! 魂から、絶望のエネルギーを搾り取られている……!」


 堰を切ったように、彼の口から嗚咽が溢れ出す。


「止めようとした! だが、私には妻子が……! 逆らえば、家族の命はないと脅された……! 私は……私は、可愛い子供たちが泣き叫ぶ声を、すぐそばで聞きながら……! 何も、できずに……! ただ、報告書にサインをするだけだった……っ!」


 彼の頬を、大粒の涙が次から次へと伝い落ちる。

 彼の魂を苛んでいた『罪悪感と無力感の鎧』が、その涙と共に、ガラガラと崩れ落ちていった。


 僕は、泣きじゃくる彼の震える肩を、ただ静かに、さすり続けていた。


◇◇◇


 どれほどの時間が経っただろうか。

 嗚咽が途切れ、部屋に静寂が戻った頃、リムスキー管理官はゆっくりと顔を上げた。

 涙で濡れたその瞳には、長い間失われていた、人間の光が戻っていた。


「……ありがとうございます。アーリング様」


 リムスキー管理官は、壁にかけられた一枚の絵画を静かに取り外す。

 そして、その裏の金庫から、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。


「これは、私が密かに書き写しておいた、地下研究施設への、秘密の潜入ルートです」


 彼は、その地図を僕の前に差し出した。


「どうか、この『希望』を、あなたに託させてはいただけませんか。囚われた子供たちを……あの子たちを、救ってください……!」


「お約束します。必ず」


 僕が力強く頷くと、彼は崩れるようにその場に膝をつき、安堵の涙を流した。

 部屋の外で待っていたのであろうヘレンナさんが、静かにドアを開ける。

 夫の姿を見て、彼女は声もなく泣き崩れ、そして僕に何度も、何度も頭を下げてくれた。


◇◇◇


 僕とリネアは無事に職員官舎を抜け、街へと戻った。


「旦那様、さすがでございます」


「いや、きみがいないと無理だった。リネアのおかげだよ。本当にありがとう」


「……ご褒美をおねだりしてもよろしいですか?」


 僕は驚いた。

 リネアがそんなことを言ったのは、はじめてのことだったからだ。


「うん。なんでもいいよ」


「旦那様との子どもがほしいです」とリネアは、いつもの無表情で言った。

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