第53話 お世話
「私とアーリング様の子です!」
しん、と。
場の空気が、絶対零度で凍りついた。
「そんなわけあってたまるか!」と僕は叫んだ。
シリヤが放った、あまりにも悪趣味な冗談。
その一言が、リネア、ヴィルデ、ビルギットの三人の思考を、完全に停止させていた。
「……は?」
最初に我に返ったのはヴィルデだった。
その瞳から、すうっと光が消えていくのがわかる。
「シリヤ様。今、なんとおっしゃいましたか? 私の聞き間違いでしょうか。もう一度、お聞かせ願えますか?」
聖母のような微笑みを浮かべてはいるが、目は笑っていなかった。
ビルギットは無言で剣の柄に手をかけている。
「ま、待て待て待て! 冗談だ、シリヤの悪い冗談だから!」
僕は慌てて二人とシリヤの間に割って入る。
そして、アスラグの研究室で起きたことを簡単に説明した。
「……というわけなんだ。この子は、僕たちで保護する必要がある」
僕の説明に、ヴィルデとビルギットは、得心がいったようだった。
シリヤは「ちぇっ」と舌打ちをしていた。
やめてくれ、ややこしくなるから。
「保護するといっても、ずっとですか?」
リネアの問いに、僕は腕の中の小さな命を見下ろした。
すやすやと、安らかな寝息を立てている。
◇◇◇
宿屋に戻ると、シリヤが早速動いてくれた。
「グローアさんに魔術で連絡を取りました。最初は驚いておられましたが、事情を話したら納得していただけたようです。二、三日中にはこちらへ迎えに来てくれる、とのことです」
「そうか。ありがとう、シリヤ。それまでの間、僕たちでこの子の面倒を見るしかないよなぁ……」
僕の提案に、三人は顔を見合わせた。
◇◇◇
「ふえぇぇぇん!」
最初の試練は、すぐに訪れた。ミルクの時間だ。
お腹が空いたのか、赤子が泣き出したのだ。
「お任せください!」とヴィルデが胸を張る。「森の恵みこそ最高の栄養です。私が狩ってきた兎のスープを!」
「待て待て!」僕は慌てて止めた。「赤ちゃんにそんな消化の悪いものを飲ませるな!」
今度はシリヤが魔術で温めたミルクを手に、分度器と計算盤を取り出した。
「論理的に最適な授乳角度は……。乳首への吸引圧から逆算した最適な流量は……」
「理屈はいいから!」
シリヤが完璧な角度で哺乳瓶を差し出すが、赤子はぷいと顔を背けてしまう。
「なぜ……!?」と頭を抱える天才魔術師。
「よし、次は私に任せろ!」
満を持して登場したのはビルギットだ。
彼女はおむつを手に、まるで爆弾処理でもするかのような真剣な顔で赤子に迫る。
「これより、汚染物処理作戦を開始する!」
だが、彼女がおむつを開いた瞬間、綺麗な放物線を描いて飛んできた温かい液体が、その顔面にクリーンヒットした。
「なっ……! 奇襲攻撃だと……!? ぐっ……任務、失敗……!」
膝から崩れ落ちる王国最強の騎士。
育児とは、かくも過酷な戦場だったか。
そんな地獄絵図のような状況を、静かに収めたのはリネアだった。
「――皆様、お代わりください」
彼女は、僕たちが散々苦労したミルクを、いとも容易く赤子に飲ませた。
そして、芸術的な手つきでおむつを替え、そして、その小さな身体を優しく抱きしめた。
静寂が戻った部屋で、僕たちはただ、呆然とリネアの横顔を見つめていた。
「すごいな、リネア……。どうして、そんなに手際がいいんだ?」
「旦那様を小さな頃にお世話した経験がありますので」
「え?」
「あの頃の旦那様は、この子の十倍は手がかかりましたから。それに比べれば、容易いことでございます」
うーん、なんだか恥ずかしいなぁ……。
◇◇◇
そんな微笑ましい混乱の中、カァリが訪ねてきたのは、翌日の昼過ぎのことだった。
「リネア、いる? ……あら、なんだか賑やかね」
彼女は、僕の腕の中で眠る赤子に目を丸くした。
「……リネアの子?」
「違います」リネアは即答した。「少々事情がありまして、知人の子を預かっているのです。カァリは、なにか用事があってこちらへ?」
「ええ、そう……。実はね、私の古くからの友人が、子供のことで悩んでいて……。リネアやアーリング様なら、何か力になってくれるんじゃないかと思って」
カァリの友人は、ナール・リムグレーペに新設された魔力炉で働く一人息子を、心から誇りに思っているのだという。
「でもね、最近、なんだか様子がおかしいって言うのよ。『お勤め』に出てから、一度も帰ってこないし……」
彼女は、そこで一度、言葉を切った。
その声が、不安に震える。
「手紙は来るんですって。でも、あの子自身の言葉じゃない気がするって。まるで、誰か別の人が書いたみたいな、きれいな文章なんですって。……ただの考えすぎなら、いいんだけど」
うーん。調査する必要がありそうだな……。
◇◇◇
ナール・リムグレーペの魔力炉で開催されている見学ツアーに、僕とヴィルデは参加していた。
何もかもが完璧だった。
僕たちを出迎えた女性案内人の笑顔も、彼女が語る施設の理念も、その全てが、一点の曇りもない希望の光に満ち溢れていた。
「この『ナール・リムグレーペ中央魔力炉』は、王国の未来を担うクリーンエネルギー供給の心臓部であると同時に、この地に住まう子供たちの未来を育む、学び舎でもあるのです」
僕とヴィルデは、カァリの友人の代理という名目でツアーに参加していた。
案内される地上施設は、どこもかしこも清潔で、最新の魔術設備が整然と並んでいる。
壁には、施設で学ぶ子供たちの、輝くような笑顔の写真が誇らしげに飾られていた。
「素晴らしい施設ですね。子供たちも、さぞかし立派に成長されることでしょう」
僕が当たり障りのない感想を述べると、案内人は「ええ、もちろんですとも」と、満面の笑みで頷いた。
「こちらが、当施設の責任者であるリムスキー管理官です。彼こそ、この計画の中心人物であり、子供たちの未来を誰よりも案じておられる、素晴らしい人格者でして……」
写真の中の管理官は、人の良さそうな、少し気の弱そうな笑みを浮かべていた。
僕は、カァリの友人の息子のことを尋ねてみる。
「素晴らしいですね。それで、友人の息子もこちらでお世話になっているのですが、少し顔を見ることはできませんか?」
「申し訳ありません」と、案内人は心底残念そうに眉を下げた。「彼は今、国家機密レベルの重要なプロジェクトに参加しておりまして、ご家族と言えど面会は固く禁じられているのです。ですが、ご安心ください。手紙は定期的にご家族の元へとお届けしておりますので」
淀みない、完璧な回答。
「では、せめて管理官様に直接ご挨拶だけでも……」
「それが……」
案内人は、さらに声を潜めた。
「リムスキー管理官は、過労がたたり、現在重い病に伏せっておられるのです。医師の厳命により、今はどなたとも面会謝絶となっておりまして……。本当に、申し訳ありません」
◇◇◇
魔力炉の見学ツアーを終えた僕たちは、近くの喫茶店で重いため息をついていた。
敵の守りは完璧で、得られた情報は「管理官は面会謝絶」という絶望的な事実だけだった。
「完璧すぎましたね」とヴィルデが言った。
「完璧すぎて怪しいけれどね……」
「はい。何かを隠そうとしているような気がします」
「同感。まあ、収穫はあった。また次頑張ろうよ」
そう言って、僕がヴィルデの手を握り、励ました。
その時だった。
「……失礼します」
フードを深く被った女性が、僕たちのテーブルの前に静かに立った。
彼女は周囲を警戒しながら声を潜める。
「噂で伺いました。アーリング様ですね?」
「はい。なにか御用でしょうか?」
女性は小声で、囁くように言った。
「どうか、お願いします。私の夫を救ってくださいませ」
「救ってください、とは穏やかじゃないですね。ええ。あなたの力になれたらと思いますが、お名前を伺ってもいいですか?」
「私はヘレンナ。ヘレンナ・リムスキーと申します」




