第52話 私とアーリング様の子です!
僕とシリヤは、ある廃墟の前に立っていた。
リネア、ヴィルデ、ビルギットは近くで待機してくれている。
いまから向かうのは、アスラグが本拠地にしている場所だ。
魔法に耐性のある僕とシリヤだけで突入するのが良いだろう、という判断だった。
崖の上。
そこに、古いサナトリウムがぽつんと建っていた。
眼下に広がるのは、どこまでも続く真っ白な氷河だ。
(すごい場所だな……)
真っ白だったはずの壁はあちこちが黒ずんでいる。
壁にはツタがびっしりと絡みついていた。
繊細な飾りがついたバルコニーも、一部が崩れ落ちていた。
だけど、なぜだろう。
尖った塔や、おしゃれなアーチを描く窓の形は、不思議なほどに美しい。
廃墟のはずなのに、どこか神聖な雰囲気すら漂っている。
ボロボロなのに、綺麗。
そんな矛盾した感想が、僕の胸に浮かんだ。
「きれいな場所だね」と僕は言った。
「そうですね」シリヤは言った。「アスラグがグローアさんから魔力通信を受けていた場所が、ここ『白夜のサナトリウム』です。かつて聖女アルマが住まいにされていたとのことです」
聖女アルマ。
大昔の偉人の名だ。
「たしかに美しい建物ですが、気を付けてください」シリヤは建物を指で示した。「おそらく、内部はアスラグによって作り変えられています。いわゆる『工房』ですね。そこは、術者にとっての聖域であり、侵入者にとっては死地。術者の魔術が最大効率で発動し、そして、招かれざる客を排除するための、無数の罠が張り巡らされた……悪趣味な盤上、です」
「うん、わかったよ。慎重にいこう」
僕とシリヤは、廃墟へと足を踏み入れた。
◇◇◇
内部へ足を踏み入れると、そこは拍子抜けするほど静かだった。
埃っぽく、ひんやりとした空気。
色褪せた絵画や、朽ちかけた調度品。
一見すれば、ただの古びた洋館にしか見えない。
「……罠の気配はありませんね」
シリヤが杖を構え、慎重に魔力を探るが、反応はないらしい。
「……僕の『神の瞳』にも反応はないな」
「既存の建物を『工房』にする場合、その構造を可能な限り利用して、外部の魔力探知を欺くのが定石です。そして、その奥深く……多くは地下に、自身の研究の心臓部となる本当の工房を隠すのです」
なるほどな。
つまり、この広大なサナトリウムのどこかに、アスラグが作った本当の研究室へと続く隠し扉があるのだろう。
僕たちは探索を開始した。
シリヤが魔力の流れの不自然な歪みを追い、僕が【神の瞳】で微かな痕跡を探る。
「ダメです。魔力の流れが巧妙に偽装されています。これだけでは特定が困難です」
「いや、待ってくれ」
僕は、一階の突き当たりにある、礼拝堂のような広間で足を止めた。
シリヤの探知にはかからない。
だが、僕の『眼』には視えていた。
「この床下の一点に……なんだろう。魔力じゃないけれど……渦を巻くように集まっている。魂の痕跡というか……」
僕が指差したのは、祭壇が置かれていたであろう場所だ。
少しだけ高くなっているが、何の変哲もない石畳だった。
僕の言葉を受け、シリヤがその場所に魔力解析を集中させる。
「なるほど……物理的な扉ではなく、認識阻害の術式で隠蔽された『門』ですね。あなたの眼がなければ、完全に見過ごしていました。お見事です」
シリヤが杖で床を叩いた。
すると、僕が示した石畳が青白い光を放つ。
そして、地下へと続く階段へと姿を変えた。
◇◇◇
地下の研究室は、上の階の静かな荒廃とは別世界だった。
塵一つなく磨き上げられ、壁の魔術水晶が明滅を繰り返している。
つい最近まで使われていた、生々しい気配があった。
その部屋の中心、机の上に、一冊の黒い革張りの研究日誌が置かれていた。
シリヤがそれに近づいた、まさにその瞬間だった。
―――ゴウッ!!!
背後の扉が轟音と共に閉鎖され、僕たちは完全に閉じ込められた。
罠だ。
「……来ます!」
シリヤが叫ぶ。
その言葉を合図にするかのように、研究室の壁面を走っていた魔術回路が、一斉に冷たい燐光を放ち始めた。
ちり、ちり、と。
まるで星屑が瞬くように、壁からプリズムのような光の粒子が無数に滲み出してくる。
虹色の塵は、僕たちの周囲をゆっくりと漂い始めた。
やがて、光の渦は、徐々に人の輪郭を形作る。
すらりとした手足、魔術師のローブ、そして……腰まで伸びる、美しい髪。
やがて、光が収束し、そこに一人の女性の姿が幻となって現れた。
神経質そうな眼鏡の奥から、僕たちを――いや、僕の隣に立つシリヤを、じっと見据えている。
アスラグ。
彼女は、まるで僕たちの驚きを楽しむかのように、薄い唇に笑みを浮かべていた。
「やあ、シリヤ。久しぶりだね」
「……アスラグ」シリヤは杖を握り直す。「ただの記録映像でしょうか?」
「いや、会話もできるよ」アスラグはこともなげに答えた。「まあ、私の研究のひとつ、意識の複製さ。この工房の中限定だけれどね。きみなら、これくらいの魔術、すぐに理解できるだろ?」
挑発。
シリヤの眉がぴくりと動く。
「何が目的ですか? 私たちをここに閉じ込めて、このような茶番を演じる意味は?」
「茶番ね……」アスラグが微笑む。「実はね、きみに頼み事があるんだ」
「頼み事?」あまりにも意外な言葉だったからだろう、シリヤが言葉をそのまま繰り返していた。思考が停止している証拠だ。「どういうこと?」
アスラグは静かに語り始めた。
「私は、道を踏み外した。きみに否定されたあの日から、全てが狂ってしまった。……憎しみを力に変えるため、私は合成獣の研究をつづけていた」
アスラグの瞳には、深い諦観と悲しみが浮かんでいた。
僕の【神の瞳】は、このアスラグには反応しない。
本当のことを言っているのかどうかもわからない。
映像体だからか……。
「でも、心のどこかで、私は願っていた。復讐でも狂気でもない、別の未来を。ただ、純粋な探求者として生きていたかった、あの頃の自分を取り戻したい、と。……その願いが形になったのが、あの子なんだ」
アスラグの幻影が、研究室の端に置かれていた巨大な培養槽へと、そっと手を差し伸べた。
それまで黒く濁った液体で満たされ、不気味な沈黙を保っていた円筒が、彼女の言葉に応えるように、その内側から淡く、柔らかな光を灯し始める。
温かい光が、徐々にその輝きを増していく。
すると、黒い濁りがすうっと消え失せ、培養槽の内部が透き通って見えた。
「……あ……」
シリヤが息を呑む。
僕もまた、目の前の光景に言葉を失った。
透き通った培養液の中、へその緒のように伸びる幾筋もの魔力の光に繋がれ、一人の『赤子』が、まるで羊水の中で眠るように、安らかに浮かんでいた。
閉ざされた瞼、小さく握られた拳、穏やかな寝顔。
それは、あまりにも無垢な生命の姿だった。
「生物の錬成、ですか……? あり得ない……」
シリヤが、目の前の奇跡と禁忌を前にして、かろうじて専門家としての言葉を紡ぐ。
アスラグの幻影は、力なく首を横に振った。
「まあ、錬成というより……肉体のコピーだな。合成獣の研究からの発展系。自分自身を魔物と融合させるのと同時に、逆に、汚染されていない純粋な転生体を合成できないか、という裏の研究だった」
それは、紛れもなく禁忌中の禁忌だった。
「今頃、もうひとりの『私』は合成獣と完全に一体化しているはず。でも、実験の過程で生まれてしまったこの子のことを、どうしても捨てることができなかった。だから、あなたが見つけてくれることを見越して、私……この理性だけの映像体と、この赤子をここに残したわけだ」
「本体のアスラグは、今どこに」シリヤが問う。
幻影は、悲しげに首を横に振った。
「私には、そのデータはない。本体の『私』は、私……意識体をここに残す際、自身の正確な所在地に関する情報を意図的に削除したんだろう」
彼女は、そこで一度言葉を切ると、シリヤの目をじっと見つめた。
「でも、ヒントならある。狂ってしまった彼女が求めるのは、いつだって『力』だ。この北の大地で、最も新しく、そして最も強大な力が集まる場所……。きみほどの頭脳があれば、すぐにわかるだろう?」
その言葉を最後に、アスラグの幻影の身体が、足元からきらきらと光の粒子となって崩れ始めた。
「もう、時間みたいだな」
彼女は、穏やかな顔でシリヤを見つめた。
「ごめんなさい、シリヤ」幻影が言った。「あなたを、私の狂気に巻き込んでしまって……」
シリヤは、ただ息を呑んで立ち尽くす。
「でも、ありがとう。最後に、あなたと話せてよかった。あなたがいたから……私は、あの子という『夢』を見ることができたのかもしれない」
「アスラグ……あなた……」
シリヤが、何かを言おうと唇を開く。
だが、言葉が続かない。
アスラグの幻影は、そんな彼女を見て、救われたように、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「さようなら、シリヤ。私の、たった一人の―――」
最後の言葉が、音になる前に。
彼女の身体は完全に光の粒子となって掻き消える。
後に残ったのは、舞い上がる虹色の塵と、静寂だけだった。
◇◇◇
僕たちを閉じ込めていた、背後の重い石の扉が、静かに、そして滑るように開いていった。
巨大な培養槽から緑色の培養液が静かに引いていく。
赤子を繋ぎとめていた魔力の緒が、そっと解けていった。
僕とシリヤは培養槽のそばに歩み寄った。
そこには清潔で柔らかな純白の布が畳んで置かれていた。
僕は、そっとその布を手に取り、眠る赤子を優しく腕の中に抱きとめる。
確かな生命の重みと、温もりを感じた。
「わぁ、可愛いですね」とシリヤ。
「抱っこしてみる?」
「はい!」
僕は、そのあまりにも素直な返事に、思わず笑みをこぼした。
「わかった。じゃあ、そっとね。首を、しっかり支えてあげて」
僕は腕の中の小さな命を、ゆっくりと彼女の方へ差し出した。
シリヤは、ぎこちなく、そして恐る恐るその腕を伸ばす。
「こ、こう、ですか……?」
彼女の腕に、赤子がすっぽりと収まった。
その瞬間、シリヤの身体がびくりと固まる。
「……温かい、です。それに、とても……小さい……。これが、生命……」
すると、腕の中で、それまで眠っていた赤子が、ふと身じろぎした。
そして、小さな手が、シリヤの胸元のローブを、きゅっと掴んだのだ。
シリヤの瞳が、驚きに見開かれる。
「かわいいですね……」
◇◇◇
再び僕が赤子を抱いていた。
ゆっくりと廃墟のなかを進んでいく。
「最も新しく、最も強大な力……」
静寂の中、シリヤがアスラグの最後の言葉を反芻する。
「ナール・リムグレーペの魔力炉ですね。きっと」
カァリが言っていた、村に富をもたらしたという新しい魔力炉。
たしかに、そこが怪しい。
調査してみる必要がありそうだ。
サナトリウムの外に出ると、待機していたリネアたちが駆け寄ってきた。
三人が、僕の腕の中にいる存在に気づき、ぴたりと動きを止める。
「旦那様、そちらは……」とリネア。
「赤ちゃんですか……?」とヴィルデが目を丸くする。
「アーリング殿、一体、中で何が……!? その赤子は!」とビルギット。
三人の視線が、僕と、僕の隣に立つシリヤの間を戸惑いながら行き来する。
シリヤは、にやりと笑って言った。
「私とアーリング様の子です!」
しん、と。
場の空気が、絶対零度で凍りついた。
「そんなわけあってたまるか!」




