第51話 私達は、ずっと前から、家族です
グローヴィーク村を出発し、僕たちの馬車が再び北を目指し始めてから、数日が過ぎた。
車窓から見える景色は、日を追うごとにその表情を変えていく。
なだらかな丘陵は次第に険しさを増し、豊かな緑は白樺や針葉樹の森へと姿を変えていった。
そして、ついにその日は訪れた。
少し疲れて、うとうとしていたところだった。
「……着きましたよ。旦那様」
リネアの声に促され、僕は窓の外に目を向けた。
息を、呑んだ。
目の前に広がっていたのは、僕が今まで見たどんな景色よりも、壮大で、そしてどこか神聖な気配を纏った、圧倒的な大自然だった。
切り立った崖が、鏡のように静かな湖へとその影を落としている。
岩肌の厳しい環境に根を張り、健気に咲く紫色の小さな花々。
凍てつくほどに澄み切った空気が、肺を満たすたびに、思考までがクリアになっていくようだ。
「私の生まれ育った村です。ナール・リムグレーペと申します。リムグレーペの近く、という意味です」
「……すごいな」
そんな、ありきたりの言葉しか返せなかった。
隣にいるリネアは、その故郷を見て、目を細めていた。
どういう感情だろう。
懐かしいのか。
母のことを思い出して悲しいのか。
あるいは、その双方なのかもしれない。
やがて馬車は、村の入り口へとたどり着く。
家々は小綺麗に手入れされ、道端には可愛らしい花が植えられている。
「意外と新しい家が多いんだね」
「私が住んでいた頃は、随分と過疎が進んでいましたが」リネアが説明してくれる。「数年前、新造の魔力炉ができてからは、補助金が多く出ているようです。移住者も増えているようですね」
なるほどな、と思った。
とにかく、新しくてきれいな街になっていた。
◇◇◇
宿で荷を解いた後、僕はリネアを誘った。
二人きりで、少し散歩がしたい、と。
リネアがかつて住んでいた故郷で、一緒の時間を過ごしたかったのだ。
僕たちは、村を見下ろす、見晴らしの良い丘を目指して、ゆっくりと坂道を登っていく。
リネアは何も言わない。
ただ、僕の半歩後ろを、静かについてくるだけだ。
僕は少しペースを落とし、リネアの隣に立った。
そして、彼女の手を引いて、隣を歩いてもらった。
やがて、僕たちは丘の頂上にたどり着いた。
そこには整然と墓標が並んでいる。
「このあたりの共同墓地です」リネアが言った。「……母が眠っています」
リネアが、ぽつりと呟いた。
リヴ・スティエル。
父のかつての仲間であり、そして、僕の愛する人の、母親。
僕たちは、しばらくの間、ただ黙って墓標に手を合わせた。
吹き抜ける風が、僕たちの髪を優しく揺らす。
(リネアは、僕が必ず幸せにします。だから、どうか僕たちのことを見守っていてください)
心の中で誓う。
顔を上げると、どこまでも高く澄んだ青空が、僕たちを見下ろしていた。
アスラグのことや、いろいろなことを忘れ……。
この村で、リネアと一緒に静かに暮らしてもいいかもしれない、なんて思ってしまうほどに、素晴らしい風景だった。
◇◇◇
「……あれ? もしかして、リネア?」
声のした方へ振り返る。
そこに立っていたのは人の良さそうな女性だった。
その腕には、小さな赤ん坊が安らかな寝息を立てて抱かれている。
「やっぱり、リネアだ! 久しぶり! 全然変わらないね!」
「……カァリ。久しぶり」
カァリという女性は、リネアの幼馴染らしかった。
彼女は屈託のない笑顔でリネアの肩を叩くと、その視線を僕へと移した。
「もしかして、旦那様?」
「旦那様……」まあリネアから旦那様と呼ばれてはいる。「あ、ああ。アーリングだ。よろしく」
「まあ、リネアにこんな素敵な人が……。なんだか、私まで嬉しいわ」
カァリは自分のことのように喜んでくれると、ふと、腕の中の赤ん坊を見下ろした。
「この子、先月生まれたの。天国のおじいちゃんとおばあちゃんに紹介しようと思って。よかったら、リネアも抱いてみない?」
「え……?」
リネアの完璧な無表情が、初めてわかりやすく揺らいだ。
戸惑い、逡巡するように、彼女の視線が赤ん坊と僕の間を彷徨う。
「大丈夫よ。ほら、抱いてみて」
カァリに促されるまま、リネアは、まるで壊れ物に触れるかのように、その小さな命を腕に抱いた。
その、瞬間だった。
僕は、見てしまった。
完璧なメイドの仮面が、音を立てて剥がれ落ちるのを。
彼女の瞳から、驚くほどの、慈愛に満ちた柔らかな光が溢れ出すのを。
それは、僕が今まで一度も見たことのない、あまりにも優しく、そして美しい、「母」の顔だった。
すやすやと眠る赤ん坊の、小さな頬を、リネアがそっと指で撫でる。
その光景は、まるで一枚の聖母の肖像画のように、僕の胸を強く、強く打った。
(……ああ)
僕の心の奥底で、今まで感じたことのない、温かい感情が芽生えていくのを感じた。
(いつか……)
この、美しい場所で。
この、澄み渡る空の下で。
(いつか、リネアと、僕たちの子供と……こんな風に、静かに暮らせたら……)
それは、僕が初めて抱いた、彼女との『家族』としての未来だった。
◇◇◇
「上の子もね、すごく優秀で、もう四つになるんだけど、しっかり者でね。去年の暮れに、村の『お勤め』に行ったのよ。寂しくなったけど、あの子が村の役に立てるなんて、母親として、本当に誇らしいわ」
カァリは、腕の中の赤ん坊に視線を落としながら、幸せそうにそう語った。
だが、僕の【神の瞳】は、その穏やかな魂の輝きの表面に浮かぶ、ごく微細な『染み』を見逃さなかった。
それは、病でも呪いでもない。
もっと根源的な、思考そのものにかけられた、見えない枷。
『お勤め』という言葉の意味を、深く考えることを放棄している、不自然な『思考の停止』という名の、歪み。
(……なんだ、これは)
ぞくり、と。
言いようのない悪寒が、背筋を駆け上がった。
「お勤めとは、どういう意味?」とリネアが尋ねた。
その問いに、カァリは一瞬、きょとんとした顔をした。
「え? お勤めはお勤めよ。新しくできた魔力炉、あるでしょう? あそこで、王国の未来のために働くの。『特別英才育成プログラム』っていうのに選ばれてね。特別な才能がある子だけが、将来、リヴ様みたいなクレリックになれるよう、最高のお勉強をさせてもらえるの」
彼女は晴れやかな笑顔でそう答えた。
「それにね、国から『育成支援金』っていうお給金までいただけるのよ。あの子が村と国のために頑張ってくれてるおかげで、私たちの暮らしもすっかり楽になって……。本当に、親としてこれ以上の誇りはないわ」
「私がいた頃は、そんな制度はなかったと思うけれど」
リネアが静かに指摘すると、カァリは「ああ、そうよね」と頷いた。
「魔力炉ができてから新しく始まった、村のための素晴らしい制度なの。少しの間、親元を離れるのは寂しいけど、子供の将来のためだし、村のためになるのなら、ってね」
僕は、なんとなく違和感があった。
まだ言語化できない。
リネアに目配せをすると、彼女は小さくうなずいた。
「立派なお子さんね」とリネアが言った。「また、話を聞かせてくれる?」
「ええ! リネアも帰ってきてくれて嬉しいわ! またゆっくりお話ししましょうね!」
最後まで無邪気な笑顔を浮かべ、カァリは赤ん坊を抱き直して丘を下っていく。
リネアが僕の耳元で囁いた。
「なんだか、少し怪しいですね」
◇◇◇
丘を下る帰り道。
リネアが、ぽつりと呟いた。
「赤ちゃん、可愛かったですね」
「うん」
僕は頷きながら、先ほどの光景を思い出していた。
聖母のように、慈愛に満ちた表情で赤子を抱くリネアの姿。
「君が赤ちゃんを抱いている姿、すごく綺麗だったよ。似合っていた。いつか、僕達もあんなふうに、家族になれたらなって思ったよ」
それは、僕の偽らざる本心だった。
「……《《私達は、ずっと前から、家族です》》」とリネアは返す。
僕とリネアは小さな頃から一緒だった。
ずっと前から家族も同然といえば、たしかにそのとおりだ。
ふと、リネアの足が、ぴたりと止まった。
彼女はうつむいたまま、動かない。
やがて、その肩が微かに震え始め、ぽたり、と地面に涙の染みができた。
「リネア? どうしたの? 僕、何か変なこと言ったかな?」
慌てて彼女の顔を覗き込む。
その完璧な仮面は崩れ、瞳からは大粒の涙がとめどなく溢れていた。
リネアは嗚咽をこらえながら、ゆっくりと首を横に振った。
そして、涙に濡れた顔を上げて、無理やり作ったような、泣き笑いの表情で僕を見つめた。
「すみません。違うんです」彼女の声は震えていた。「ただ……あまりにも、幸せすぎて……。旦那様の言葉が、嬉しくて、涙が、止まらなくて……。本当に、ごめんなさい」
そうか……。
僕の言葉が、泣くほど嬉しかったのか。
彼女への愛おしさで胸がいっぱいになり、そんなリネアの華奢な身体を、力の限り抱きしめた。
「びっくりしたよ……。そっか。よかった」
僕の腕の中で、リネアは声を殺して泣き続けた。
「……ごめんなさい」
リネアが最後につぶやいた、その謝罪の意味は、さっぱりわからなかった。




