第5話 ストーカー
「もう二度と、誰にもアーリング様を渡しません。絶対に。アーリング様は、私だけの光なのですから……!」
腕の中で、うっとりと僕を見上げるヴィルデ。
その翠色の瞳に宿る、燃え盛るような光。
(……あれ? なんかおかしいぞ?)
トラウマを克服した少女が、命の恩人に向ける眼差し。
……にしては、あまりにも粘着質で、独占欲に満ち満ちている。
僕の『神の瞳』が、彼女の心の奥を視ようとする。
だが、そこにはもう『恐怖の茨』も、黒い染みもない。
ただただ、僕の姿だけを映し出す、どこまでも澄み切った、巨大な鏡のような感情が広がっているだけだった。
「え、あ、ヴィルデさん……? その……落ち着いて……」
僕が困惑していると、彼女は無垢に首を傾げた。
「落ち着いていますとも。私は今、生まれて初めて、心の底から満たされているんです。すべて、アーリング様のおかげです」
その穏やかな微笑みは、まるで聖母のようだ。
言っている内容の物騒さを除けば。
僕の脳内で警報が鳴り響く。
これは、ヤバい。
僕の治療は、確かに彼女の心の病を治した。
しかし、その過程でとんでもないバグを発生させてしまったのではないだろうか。
救済の結末が、これか?
◇◇◇
翌朝。
僕が書斎で昨日の出来事を反芻し、頭を抱えていると、控えめなノックの音がした。
「どうぞ」
入ってきたのは、笑顔を浮かべたヴィルデだった。
もう部屋に引きこもっていた頃の面影は微塵もない。
健康的で、溌剌としていて、とても可愛らしい。
……昨日のヤンデレ宣言さえなければ、手放しで喜べたのだが。
「おはようございます、アーリング様」
「あ、ああ、おはよう、ヴィルデさん。体調はもういいのかい?」
「はい、完璧です! それで……早速で恐縮なのですが、一つ、お願いがございまして」
彼女は深々と、美しいお辞儀をした。
「どうか、私をアーリング様のお仕事の助手にしてくださいませんか?」
「……助手?」
「はい。アーリング様からいただいたこの新しい人生、ただ無為に過ごすのではなく、アーリング様のお役に立つことで、社会復帰への第一歩としたいのです。それが、私にとって何よりのリハビリになると思うんです」
リハビリ。
なんと都合のいい、そして断りづらい単語だろうか。
治療者として、患者の前向きな社会復帰の申し出を無下に断ることなど、できるはずもない。
「……わかった。君がそこまで言うのなら。だけど、無理はしないように」
「はい! ありがとうございます、アーリング様!」
ぱあっと顔を輝かせるヴィルデ。
その純粋な喜びに満ちた表情を見ていると、昨日の狂信的な瞳は、僕の見間違いだったのかもしれない、とさえ思えてくる。
こうして、ヴィルデは僕の「通いの助手」になった。
そして、彼女の仕事ぶりは、控えめに言っても完璧だった。
僕が目を通す資料は、内容ごとに完璧に分類され、僕が手を伸ばす前に、スッと差し出される。
まるで、僕の思考を先読みしているかのようだ。
「……すごいな、ヴィルデさんは。気が利くなぁ」
僕がぽろりと感想を漏らすと、背後に控えていたリネアが、完璧な無表情のまま口を開いた。
「旦那様。もし私がお役御免でしたら、旦那様の靴を毎朝舐めて綺麗にする仕事にでも転職いたしますが」
「そんな仕事は存在しない!」
してたまるか!
ともあれ、ヴィルデの献身的なサポートのおかげで、僕の仕事は驚くほど捗った。
この平穏な日常が続くのなら、まあ、いいか……。
昨日のことは、きっと感動のあまり、ちょっとテンションが上がってしまっただけなんだ。
そう、この時の僕は、まだ楽観的に考えていた。
これから始まる、静かな侵食の恐怖に、まだ気づいていなかったのだ。
◇◇◇
最初に感じたのは、些細な「違和感」だった。
「あれ……?」
書斎で仕事中、いつもペン立てに差してあるお気に入りの羽根ペンがないことに気づいた。
確か昨日、寝る前にインクを補充したばかりのはずなのに。
「リネア、僕の羽根ペンを知らないか?」
「旦那様。こちらを」
僕が声をかけると、リネアがすっと新しい羽根ペンを差し出してきた。
以前のものより、少し軸が太く、書きやすそうだ。
「これは?」
「ヴィルデ様が、旦那様のためにとご用意なさいました。『以前のものは少しペン先が摩耗していたので、こちらの方がお疲れにならないかと』とのことです」
「……そうか。ありがとう」
確かに、彼女の言う通りかもしれない。
それにしても、いつの間に……。
僕の知らないところで、僕の持ち物が更新されていく。
小さな、本当に小さな棘が、心の隅にちくりと刺さった。
次の違和感は、その日の夜に訪れた。
ヴィルデが帰り、リネアが用意してくれた夕食を済ませ、自室のベッドに潜り込む。
ふわり、と鼻腔をくすぐる甘い香り。
(……この匂い)
それは、ヴィルデが身にまとっているのと同じ、カレンデュラの花の香りだった。
なぜ、僕の寝室で?
シーツは今朝、リネアが新しいものに替えてくれたはずだ。
「リネア、僕の部屋に誰か入ったか?」
廊下で鉢合わせたリネアに尋ねると、彼女はきょとんと首を傾げた。
「私がたまに旦那様の匂いを嗅ぎながら寝ていますが、それ以外はわかりません」
……それは、いつものことなので良いとして。
きっと、日中ヴィルデと近くで話していたから、香りが服に移っただけだろう。
僕は自分を納得させ、その日は眠りについた。
だが、その日を境に、「違和感」は日常の風景に溶け込むように、少しずつ、しかし確実に増えていった。
本棚に並んだ本の順番が、僕の知らない、より合理的な配置に変わっている。
僕が淹れるよりも、ずっと美味しいコーヒーが、僕が飲みたいと思う数秒前に用意されている。
僕の生活が、僕の知らないうちに、誰かの手によって最適化されていく。
それは快適であるはずなのに、まるで自分のテリトリーに、じわじわと他人の色を上塗りされていくような、言いようのない不気味さがあった。
そして、運命の日が訪れる。
その日も、ヴィルデは夕方まで完璧に僕の助手を務め上げ、「お先に失礼します」と笑顔で帰っていった。
僕が彼女を見送って書斎に戻ると、床に一冊の小さな手帳が落ちているのに気づいた。
ヴィルデの忘れ物だろう。
「やれやれ、届けてやらないと……」
そう思って手帳を拾い上げた、その時だった。
ぱらり、とページが開いて、その中身が僕の目に飛び込んできた。
――そこには、びっしりと、几帳面な文字が並んでいた。
午前7時02分:アーリング様、起床。寝癖が少し右に跳ねていて可愛らしい。
午前7時15分:トイレ(小)。所要時間38秒。健康状態は良好と拝察。
午前8時30分:書斎へ。紅茶をお淹れする。一口飲んで、小さくお息を吐かれた。
午前10時42分:執務中、眉間に皺。難しい案件だろうか。私の力不足を痛感。
午後2時11分:リネアと会話。私のことを褒めてくださった。天にも昇る気持ち。
午後3時05分:トイレ(大)。所要時間4分12秒。少しお腹の調子が……? 明日は消化に良いハーブティーを。
「…………」
僕は、声も出せずに固まった。
なんだ、これは。
僕の一日の行動が、分単位で記録されている。
トイレの時間と内容まで。
これは、ただの観察記録じゃない。
僕という人間を、解剖するように分析した、異常な記録。
全てのピースが、カチリ、と音を立てて繋がった。
なくなった羽根ペン。
ベッドからの花の香り。
完璧すぎるサポート。
僕の生活は、この手帳に記録され、分析され、彼女によって完全に管理・掌握されていたのだ。
◇◇◇
「……リネア、どう思う?」
メモ帳を見せると、リネアは小さく微笑んだ。
「可愛いではありませんか」
「可愛い?」
「はい。私が十年前に通った道です」
先輩面をしてやがる。
というか、通るな、そんな道。
立入禁止にしとけ。
「……どうしたら良いと思う?」
僕がリネアに助けを求めたときだった。
ガチャリ、と書斎のドアが開いた。
「申し訳ありません、アーリング様。忘れ物を……あら?」
戻ってきたのは、ヴィルデだった。
彼女は僕が手にしている手帳を見ると、一瞬、目を丸くした。
しかし、すぐにふわりと、穏やかな微笑みを浮かべた。
「ああ……それ、ご覧になってしまわれたのですね」
悪びれる様子は、一切ない。
まるで、見られても何の問題もないとでも言うように。
僕の声は、震えていた。
「ヴィルデ、さん……。これは……一体、なんだい……?」
問い詰める声が、情けなく上ずる。
すると、彼女は表情一つ変えず、無垢な笑顔のまま、はっきりとこう答えた。
「はい。アーリング様が私に教えてくださった『記録療法』ですわ」
「……きろく、りょうほう……?」
聞いたこともない単語に、僕の思考が停止する。
そんな僕を見て、ヴィルデはうっとりとした表情で、自らの胸に手を当てた。
「ええ。行動や感情を客観的に記録することで、心を客観視し、安定させる……素晴らしい治療法です。私が『恐怖の茨』から解放されたのも、アーリング様が私の心を深く観察し、理解してくださったおかげ」
「いや、僕はそんな……」
「ですから、私も実践しているのです。私の世界のすべてであり、私の光であるアーリング様のことを、一日も早く、深く理解するために。アーリング様が何を考え、何を感じ、何を望んでいらっしゃるのか……そのすべてを記録し、学び、私の魂に刻み込んでいるのですわ」
違う。
そうじゃない。
君がやっているのは……ただのストーキングだ!
心の叫びは、しかし、喉から音となって出てはこなかった。
目の前の少女の、穏やかな微笑み。
その裏側にある、底の知れない狂気。
僕への純粋な好意と、常軌を逸した執着が、彼女の中では何の矛盾もなく成り立っている。
ぞっとした。
心の底から。
僕が恐怖に囚われ、何も言えずにいると、彼女は僕の手にあった手帳を、そっと優しく抜き取った。
「ふふっ。これからも、アーリング様のこと、もっともっと勉強させてくださいね」
そう言って、彼女はにこりと微笑むと、今度こそ満足げに書斎から去っていった。
一人残された書斎で、僕はその場にへなへなと崩れ落ちる。
(僕の治療は……一体、何を産み出してしまったんだ……?)
彼女の「リハビリ」は、まだ始まったばかり。
僕の平穏な日常は、もう二度と戻ってこないのかもしれない。
こうして、僕の診療所は、とうの昔におかしくなっていたメイドに加え、精神を静かに侵食してくる、ヤンデレ助手を新たに迎えることになったのだった。
……ちくしょうめ。どうしてこうなった。




