第48話 学習性無力感
ミットダール村での祝宴が終わり、僕たちは再び北を目指した。
リムグレーペに向かう道中、最後の宿場村である『グローヴィーク』に到着したのは、それから数日後のことだった。
だが、村に足を踏み入れた瞬間、僕は違和感を覚えた。
「……なんだか、元気がない村ですねぇ」とヴィルデ。
ヴィルデの言う通りだった。
宿場村は静まり返っていた。
道行く人々の顔には生気がない。
ひとまず、僕たちは村に一軒だけあった宿屋の扉を押した。
カラン、と寂れた鐘の音が鳴る。
だが、出迎えはない。
カウンターの奥で、主人が頬杖をつき、虚ろな目で窓の外を眺めているだけだった。
僕たちが入ってきたことに気づいてはいるだろうに、その視線は微動だにしない。
「……すみません。部屋は空いていますか?」
僕が声をかけると、主人は億劫そうに、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「……ああ、空いてるよ。好きなだけな。どうせ、他に泊まる客もいやしねえ」
その声は、諦めに満ちていた。
主人は大きなため息をつくと、カウンターを拭くでもなく、ただ埃っぽいその上を指でなぞった。
「見ての通りさ。この村はもう、心臓が止まっちまってるんだよ」
彼の視線の先、窓の外には、巨大な水車が静かにその姿を晒していた。
村に入ったときから見えていたものだ。
だが、それはぴたりと動きを止めている。
「あの大水車は、ただの粉挽きじゃねえ。初代様が古代の叡智で作られた、特別なもんでな。あれが回ってねえと、この村の鍛冶場の火も、畑に水を引くこともできやしねえ……。なんとか、高い報酬を払って、外部から修理工を呼んでいたんだがな。ついに匙を投げちまって、もう、数ヶ月もこの調子さ」
併設された酒場で飲んでいた商人も、ふらふらと寄ってきて会話に加わってくる。
「全くだ。修理できるかもしれない、鍛冶師の娘は、工房に引きこもったきり。この村はもう、終わりだよ」
「鍛冶師の娘さんというのは?」僕は聞いた。
「イルディっていうんだがな。あの子が槌を握ってくれりゃあ、話は別なんだがな。もう、何年も工房に引きこもったきりだ」と商人は答えた。
「なにか事情があるのでしょうか」
「さぁな……」
◇◇◇
僕は、その足で村外れにあるという鍛冶場へと向かうことにした。
リネアが、当たり前のように僕の半歩後ろをついてくる。
ヴィルデ、ビルギット、シリヤは宿屋で待機してもらっていた。
あんまり大人数で押しかけても、警戒されてしまうだけだろう。
静まり返った村の道を二人で歩く。
石畳の隙間からは雑草が伸び、打ち捨てられた荷車が道の隅で朽ちかけていた。
ふと、隣を歩くリネアが、静かに口を開いた。
「旦那様。ただ立ち寄っただけの村ですが、また人助けをなさるのですか」
「人助け、というか……まあ、僕に救えるなら、救いたいとは思うかな」
僕が少し照れながらそう答えると、リネアは完璧な無表情のまま、ぴしゃりと言った。
「それを、世間では人助けと呼びます」
「……まあ、それはそうだね」
◇◇◇
やがて、僕たちは目的の鍛冶場へとたどり着いた。
そこは、村全体の停滞を象徴するかのように、全てが錆びつき、埃を被っていた。
工房の奥、薄暗がりの中で、一人の少女が膝を抱えていた。
「こんにちは、きみがイルディさん? 少し、お話を聞かせてもらえないかな」
彼女は警戒心を露わにした瞳で、こちらを睨みつけた。
「……あんた、誰?」
「僕はアーリング。ただの旅の者だよ」
「こんな寂れた鍛冶場に何の用?」
ぶっきらぼうで、棘のある物言いだった。
「村の人から聞いたんだ。君なら、あの壊れた大水車を直せるんじゃないかって。でも、直さない理由があるのかな」
少女はこちらをじっと見る。
「いや、べつに直してほしいってわけでもない。単純な疑問だよ」
彼女は、深々とため息をついた。
「……無駄だよ」
か細く、全てを拒絶する響きを帯びた声。
「あんなもの、直したって意味がない。父さんも、じいさんも、あの水車に人生を捧げて、結局、何も報われなかった。……あれは、人を不幸にするだけの、『呪いの遺産』なんだ」
僕は、彼女の魂の根源を理解するために、【神の瞳】を深く、強く発動させた。
―――次の瞬間、僕の意識は、彼女の記憶の奔流へと引きずり込まれていった。
◇◇◇
僕の目の前に広がるのは、活気に満ちた、今の姿が嘘のようなグローヴィーク村だった。
視界が低い。
僕は、幼いイルディの視点を追体験しているのだ。
村の中心で、巨大な水車が力強く回っている。
その前で、村人たちから「ありがとう!」「さすがだ!」と笑顔で肩を叩かれている、一人の男。
イルディの父だ。
彼は、天才だったイルディの祖父が遺したこの水車を、誇らしげに、そして愛情を込めてメンテナンスしている。
父は、幼い彼女にとっての英雄だった。
だが、時の流れは残酷だ。
視界が、数年飛ぶ。
老朽化した水車は、頻繁に止まるようになった。
父は、油と汗にまみれ、昼も夜もなく修理に没頭している。
その背中は、以前よりずっと小さく、やつれて見えた。
村人たちの声も変わっていた。
「まだ直らないのか」
「先代は天才だったが、息子はダメだな」
尊敬は、いつしか苛立ちと侮蔑に変わっていた。
そして、あの日。
僕は、幼いイルディと共に、見てしまった。
尊敬していた父が、商人たちから胸ぐらを掴まれ、罵倒されている姿を。
「お前のせいで暮らしがめちゃくちゃだ!」
父は、何も言い返さなかった。
ただ、悔しそうに唇を噛み締めていた。
父が過労で倒れ、そのまま帰らぬ人となった日。
村には、涙も、感謝もなかった。
ただ、「結局、直せなかったじゃないか」という、冷たい囁きだけが、幼い彼女の心を、深く、深く抉ったのだ。
◇◇◇
「―――っ」
意識が、現在へと引き戻される。
僕の額には、びっしょりと汗が浮かんでいた。
目の前には、何も知らずに膝を抱えるイルディの姿。
だが、今の僕には、彼女の魂が発する、声にならない悲鳴がはっきりと聞こえていた。
(……なるほどな)
僕の脳裏に、彼女の魂の姿が改めて映し出される。
そこに視えたのは、病でも呪いでもない。
ただ、彼女の魂そのものを雁字搦めに縛り付ける、黒く重い『学習性無力感』の鎖だった。
報われない努力を憎むあまり、努力そのものを放棄してしまった、悲しい魂の姿。
(……また、厄介な患者さんに出会ってしまったな)
だが、視えたのなら、道はある。
◇◇◇
その夜、宿屋の一室。
僕はベッドに腰掛け、昼間の出来事を反芻していた。
「何を考えていらっしゃるのですか?」と隣のリネア。
「ああ、イルディのことをね」
リネアが黙った。
あれ? と思い、そちらを見ると。
「私のことを考えていたわけではないのですね」と言った。
うーん、いつもと同じ無表情だが、すねているようだった。可愛い。
「まあいいです。旦那様。昼間のイルディというお嬢さんの件ですが、なぜあれほどまでに、心を閉ざしてしまわれたのでしょう。ただ頑固というだけではない、何か根深いものを感じました」
彼女の問いに、僕は頷いた。
「あれはね、『学習性無力感』っていう、心の病に近い状態なんだ」
「学習性無力感といいますと?」
「ああ。例えば、檻に入れられた動物が、どんなに暴れてもそこから出られないとする。それを何度も繰り返すうちに、動物は『何をしても無駄だ』ということを『学習』してしまうんだ。そうすると、たとえ誰かが檻の扉を開けてやったとしても、もう二度と、そこから逃げようとはしなくなってしまう」
僕の説明に、リネアは静かに目を伏せた。
「……自ら、希望を捨ててしまう、と」
「その通り。イルディさんも同じだ。尊敬するお父さんの、命を削るほどの努力が、何度も、何度も裏切られる光景を、彼女は見てきた。だから、彼女の心は学んでしまったんだ。『頑張ったって、どうせ報われない』ってね。彼女を縛っているのは、物理的な檻じゃない。彼女自身の、その悲しい『学習』なんだよ」
僕は、決意を込めて言葉を続けた。
「だから、彼女に必要なのは『頑張れ』という言葉じゃない。『君の頑張りには、ちゃんと意味があるんだ』ってことを、彼女自身がもう一度、体験できるような、ほんの小さな成功体験なんだ。ほんの、小さなきっかけさえあれば……」
僕の話を聞きながら、リネアが手元で小さな銀のロケットを、柔らかい布で丁寧に磨いていた。
「それは、君のお母さんの形見……だっけ?」
「はい」
静かに答える彼女の横顔は、いつもより少しだけ、柔らかく見えた。
その、瞬間だった。
―――パキン。
乾いた、小さな音が響いた。
「あ……」
リネアの手の中で、古びたロケットの留め金が、ぽっきりと折れてしまっていた。
長年の使用で、金属が疲労していたのだろう。
リネアは呆然と、壊れたロケットを見つめる。
僕の胸が、きゅっと締め付けられる。
(助けてあげたい。何とかして、力になりたい)
その純粋な想いが、僕の思考を駆け巡った瞬間、閃いた。
そうだ。この村には、いるじゃないか。
心を閉ざした、最高の職人が。
「リネア」
僕は、彼女の肩にそっと手を置いた。
「君さえよければ、あの鍛冶場のイルディさんに、修理を頼んでみない?」
僕の提案に、リネアはじっと黙った。
どういうことなんだろう。
べつに、断るならすぐに断ってもいいし。
迷うようなことでもない気がするが……。
数秒の沈黙の後、彼女は意を決したように、こくりと一度だけ、力強く頷いた。
「……はい。旦那様が、そうおっしゃるのでしたら」
「リネアがいやなら、良いんだけどね」
「いやではありません」
若干の躊躇いがあるようにも感じたが……。
まあいいか……。
◇◇◇
翌日、僕とリネアは、再びあの鍛冶場を訪れた。
「イルディさん。君に、一つだけ、お願いがあるんだ」
僕は、彼女の前にしゃがみこむと、壊れた銀のロケットをそっと差し出した。
「これは、僕の大切な人の、かけがえのない形見なんだ。でも、壊れてしまった。この村で、こんなに繊細な銀細工を直せるのは、君しかいないと聞いた。どうか、直してはもらえないだろうか」
イルディは、僕の言葉に反応を示さない。
ただ、その視線が、僕の手に乗せられたロケットへと、ほんのわずかに動いた。
これは依頼であると同時に、治療でもあった。
「これは、ただの修理依頼じゃない。ある人の、大切な思い出を守るための、君にしかできない仕事なんだ」
僕の隣で、リネアが息を呑むのがわかった。
イルディの指が、ぴくりと動く。
彼女は僕の手からロケットを受け取った。
その指先が、壊れた留め金の感触を確かめるように、そっと触れる。
―――その、瞬間だった。
彼女がロケットを傾けた拍子に、その内側から、小さな石がころり、とこぼれ落ちた。
手のひらサイズの、淡く光る『魔術水晶』。
「あ」とリネアが小さく声を漏らす。
水晶は、工房の床に落ちた衝撃で、ふわり、と柔らかな光を放ち始めた。
そして、その光が、僕たちの目の前の空間に『像』を映し出したのだ。
「―――え?」
僕は、自分の目を疑った。
そこに映し出されていたのは、一人の青年だった。
歳は、今の僕と同じくらいだろうか。
見慣れない、冒険者のような革鎧に身を包み、少し照れたような笑顔を見せている。
僕が知る、冷酷で、感情の欠片も感じさせない彼とは、似ても似つかぬその姿。
(父、上……?)
僕の思考が、完全に停止する。
光が消え、工房に再び静寂が戻る。
「……お母さんの形見なんだっけ」
「はい」とリネアは短く答えた。
疑問が生まれる。
パーティーメンバー全員の集合写真なら、まだわかる。
でも、僕の父だけの『像』を?
結婚していただろうし、子どももいただろうに……。
不自然なように思えた。
「『像』は切り替えもできます」
リネアが言って、その『魔術水晶』を拾い、なにか操作をしていた。
そして、その水晶から映し出されたのは……。
「あ、これ、僕だ」
「はい。おそらく、旦那様が生まれたときに、公爵様がかつてのパーティーメンバー全員に送ったのでしょう」
なるほど。
それならわからない話でもない。
「……イルディさん。頼む。これ、直せるかな?」
イルディは何も言わず、ロケットを手に取った。
「……やってみるよ」
彼女は、工房の壁に立てかけられていた、埃を被った一丁の槌を、その手に取った。
錆びつき、冷え切っていたはずの、鉄の槌。
「明日までに、なんとかしてみる」とイルディは言った。
カン、と。
高く、澄んだ音が、静まり返っていた工房に響き渡った。




