第47話 猫吸いと、人吸い
僕たちの活躍によって、渓谷の魔物『ミラージュ・キメラ』が討伐された。
その報せは瞬く間に村中を駆け巡った。
住民たちは、僕達を村を挙げての祝宴で迎えてくれた。
「おお、英雄様たち! さあ、こっちで一番いい酒を飲んでくれ!」
「ヴィルデ様、ビルギット様! あなた方の武勇伝、もっと聞かせてくださいまし!」
広場の中央に設けられた焚き火を囲み、村人たちは陽気に歌い、踊り、そして僕たちを称賛の言葉で迎えてくれる。
特に、大活躍したヴィルデとビルギットの周りには、ひときわ大きな人だかりができていた。
「えへへ、そんなに褒められると、照れちゃいますね」
「うむ。だが、これも主君であるアーリング殿の完璧な指揮があってこそだ」
はにかみながらも誇らしげなヴィルデと、冷静に、しかしその瞳の奥に確かな喜びを宿すビルギット。
そんな二人を、僕は少し離れた場所から、温かい気持ちで見守っていた。
本当に、良い仲間たちに恵まれたものだと思う。
だが、その輪の中に、一人だけいない人物がいた。
(……シリヤの奴、どこに行ったんだ?)
僕たちの頭脳であり、魔法戦のエキスパートであるはずの彼女。
今回の戦いでは、敵の特性が『魔法反射』だったがために、彼女はその天才的な能力を発揮する機会がほとんどなかった。
それが、彼女の繊細なプライドを傷つけてしまったのだろうか。
僕は喧騒を離れ、僕たちが宿を取っている部屋へと向かった。
案の定、シリヤはそこにいた。
一人、窓辺の椅子に腰掛け、膝を抱えながら、外の賑わいをどこか寂しげな瞳で見つめている。
「シリヤ。どうしたんだい、こんなところで。みんな、君のことを探していたよ」
僕が優しく声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……アーリングさん」シリヤはつぶやいた。「私は、無力でした」
そして、ゆっくりと言葉をつづける。
「私の専門である魔法は、あのキメラの前では何の意味もなさなかった。皆さんが命懸けで戦っている間、私はただ、足手まといになるのを恐れて、後方で見ていることしかできなかったのです。……結論として、今回の戦闘における私の存在価値は、限りなくゼロでした。いいえ、論理的に言えば、マイナスです。役立たずの魔術師一人分の食い扶持を、無駄に消費しただけですから」
理屈っぽく、早口で、しかし、その声は悲しく震えている。
天才であるがゆえの、高すぎるプライド。
拗ねている。
最高に、面倒くさく。
そして、最高に可愛らしく。
「そんなことはないさ」僕は言った。「きみがいてくれたから、僕は安心して指揮ができたんだ。きみは、僕たちの大切な仲間だよ」
「……気休めは、結構です」
ぷい、とそっぽを向いてしまう。
ああ、もう。
本当に、この天才は不器用だ。
◇◇◇
「シリヤ、君は一つ、大きな勘違いをしている」
僕は、彼女の前にしゃがみこみ、その瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「君の価値は、戦闘能力だけで決まるものじゃない。君のその知識と分析能力が、僕たちをどれだけ助けてくれたか、君自身が一番よくわかっているはずだ」
「ですが、現に、今回の戦闘で私は……!」
「じゃあ、僕が訊こう。君は、自分の力が通用しない敵を前にして、どうすればよかったと思うんだい? 何か、僕が思いつきもしなかったような、完璧な打開策があったとでも?」
「それは……」
シリヤの言葉が詰まる。
論理で武装した彼女は、論理的な問いには、決して嘘をつけない。
魔法を反射する敵の前では、魔術師にできることなど、ほとんどないのだから。
「そうだろう? 君は、君にできる最善を尽くした。ただ、それだけのことだ。誰も、君を責めたりはしないさ」
僕がそう言って、彼女の頭を優しく撫でようとした、まさにその瞬間だった。
「――馴れ馴れしく、触らないでください!」
シリヤは、僕の手をぱしり、と払い除けると、勢いよく椅子から立ち上がった。
そして、信じられないほどの速さで部屋を飛び出し、廊下の奥へと駆け去っていく。
「あ、おい、シリヤ!」
僕が後を追おうとした時には、すでに彼女の姿はなかった。
(……やれやれ。拗ねた天才は、手がつけられないな)
僕はシリヤが逃げていった廊下を追いかけ始めた。
彼女がどこに行ったのか、見当もつかない。
だが、僕には確信があった。
きっと、彼女は僕が見つけ出してくれるのを、心のどこかで待っているはずだと。
宿屋中を探し回り、僕は裏庭へと出た。
月明かりが、静かな庭をぼんやりと照らしている。
その片隅で、数匹の野良猫たちが、のんびりと集会を開いていた。
(こんなところに、いるはずは……)
諦めて踵を返そうとした、その時。
僕の目は、猫の群れの中にいる、一匹の、ひときわ異彩を放つ存在に釘付けになった。
それは、月光を吸い込んだかのように輝く、真っ白な毛並みを持つ一匹の猫だった。
他の猫たちが、だらしなく地面に寝そべっているのに対し、その猫だけは、まるで女王のように、背筋をぴんと伸ばして座っている。
毛づくろいをする仕草一つとっても、どこか理知的で、気品に満ち溢れていた。
他の猫たちと、明らかに馴染めていない。
その、孤高のオーラ。
(……間違いない。あいつだ)
おそらく、ビルギットからグローアが猫に変身していた、という話を聞いていたのだろう。
まさか、それだけで変化の魔法をマスターしていたとは。
さすが天才だ。
◇◇◇
僕がゆっくりと近づくと、他の野良猫たちは警戒してさっと散っていった。
だが、その白猫――シリヤだけは、逃げようとしない。
ただ、ぷい、とそっぽを向いて、僕の存在を完全に無視している。
そのツンとした態度が、いかにも彼女らしかった。
「……見つかっちゃったな、シリヤ」
僕が話しかけると、白猫の耳が、ぴくりと動いた。
だが、それでも彼女は断固としてこちらを見ようとしない。
「すごいじゃないか、その魔法。完璧な猫だ。僕には、君が猫にしか見えないよ」
にゃあ、と。
まるで「当たり前です」とでも言うかのように、彼女は短く鳴いた。
その鳴き声すら、どこか理知的で、高飛車に聞こえるから不思議だ。
「でも、どうしてわかったか、知りたいかい?」
僕がそう尋ねると、白猫はちらり、とこちらに視線を向けた。
その瞳に「まあ、聞いてあげなくもありませんが?」という、ありありとした好奇心が浮かんでいる。
「君だけだよ。こんなに、気品があって、賢そうな猫は。他の猫とは、放つオーラがまるで違う。まるで、王立アカデミーの主席研究員が猫の皮を被っているみたいだ」
僕の言葉に、白猫は「フン」とでも言うように、満足げに鼻を鳴らした。
僕は、そんな彼女の前にしゃがみこみ、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「それにしても、綺麗な毛並みだな。触ってみてもいいかい?」
白猫は、一瞬だけ、びくりと身体をこわばらせた。
だが、すぐに「好きになさい」とでもいうように、再びそっぽを向いてしまう。
その、無言の許可。
僕は、そっとその背中に手を伸ばし、柔らかな毛並みを優しく撫でた。
ゴロゴロ、と。
彼女の喉から、心地よさそうな音が漏れる。
その、あまりにも無防備な反応に、僕の心臓が、きゅん、と小さく音を立てた。
(……やばい、可愛い)
普段の彼女とのギャップが、僕の理性を容赦なく破壊しにくる。
そして、僕の脳裏に、一つの、抗いがたい欲望が芽生えてしまった。
(そういえば、ビルギットが、グローア相手にやっていたな……。猫吸い、とか言ったか)
一度芽生えた好奇心は、もう止められない。
僕も、やってみたい。
この、世界で一番気高くて可愛い猫の香りを、存分に堪能してみたい。
「シリヤ。一つ、試してみたいことがあるんだ」
僕は、有無を言わさず、その小さな身体をひょいと抱き上げた。
「にゃっ!?」
突然の浮遊感に、シリヤが驚きの声を上げる。
僕は、そんな彼女の抵抗をものともせず、そのふわふわのお腹に、顔をうずめた。
「失礼……!」
スウウウウーーーーッ、ハアアアアァーーーーッ……!
ああ、なんて、温かくて、太陽のような、甘い香りなんだ……。
僕の理性が、幸福感で溶けていく……。
その、まさに、瞬間だった。
僕の腕の中で、白猫の身体が、再び淡い光に包まれた。
そして、ふわり、と。
猫の柔らかな感触が、人間の、もっと柔らかくて、滑らかな肌の感触へと、変化した。
「……え?」
僕が顔を上げた時、そこにいたのは、白猫ではない。
顔を真っ赤にして、涙目で僕を睨みつける、人間のシリヤだった。
僕の顔は、彼女の、その、豊かな胸の谷間に、完璧に埋まっていた。
しん、と。
時が、止まる。
数秒の沈黙の後。
「ななな、何をなさるのですか、この変態ーーーっ!」
シリヤの絶叫が、夜の静寂を切り裂いた。
同時に、僕の頬に、彼女の渾身の平手打ちが、クリーンヒットした。
パァン! と、乾いた音が響き渡る。
「ぐえっ!?」
じんじんと痺れる頬を押さえながら、僕は必死に言い訳をする。
「い、いや、違うんだ、シリヤ! これは、その、不可抗力で……!」
「どこが不可抗力なのですか! この、変態! ド変態!」
彼女は、わなわなと震えながら、僕を指差す。
その瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出していた。
「う……うわああああん! 私だって……! 私だって、アーリングさんの、お役に、立ちたかったんです……! ヴィルデさんや、ビルギットさんのように、あなたの隣で、戦いたかった……! それなのに、私だけ、何もできなくて……! 悔しくて、情けなくて……っ!」
ついに、心の壁が、完全に崩壊した。
彼女は、その場にへなへなと座り込み、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
天才の仮面の下に隠されていた、年頃の少女の、あまりにも不器用で、健気な本音。
僕は、ひりひりする頬の痛みも忘れ、そんな彼女の隣に、そっと寄り添った。
「……ごめんな、シリヤ。気づいてやれなくて」
僕は、その震える小さな肩を、優しく、しかし力強く、抱きしめた。
「君は、無力なんかじゃない。君のその頭脳がなければ、僕たちはとっくの昔に全滅していた。君は、僕たちの、誰にも代えがたい『切り札』であり、最高の『相棒』だ。僕は、君を誰よりも信頼している」
僕の言葉に、シリヤはしゃくりあげながら、僕の胸に顔をうずめてきた。
「……ほん、とう、ですか……?」
「ああ、本当だとも」
僕は、泣きじゃくる彼女の頭を、優しく撫でてやる。
「だから、もう泣くなよ。君が笑ってくれていないと、僕も、悲しいから」
その言葉に、シリヤは、涙で濡れた顔を上げて、ほんの少しだけ、はにかむように微笑んだ。
しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻したシリヤが、もじもじと僕の服の裾を掴んだ。
そして、意を決したように、僕の瞳をまっすぐに見つめてくる。
「……アーリングさん」
「ん?」
「その……先ほどの、あなたの行為ですが」
「あ、ああ……本当に、すまなかった」
「いえ、謝罪は結構です。ですが、論理的に考えて、一方的に『吸われる』だけというのは、著しく公平性を欠くかと」
「……は?」
彼女が何を言っているのか、理解が追いつかない。
そんな僕を尻目に、シリヤはすっと立ち上がると、僕の前に仁王立ちした。
そして、顔を真っ赤にしながらも、はっきりと宣言したのだ。
「ですから、その……今度は、私が、あなたを『吸わせて』いただきます。……それで、おあいこ、です」
そう言うと、彼女は僕の返事を待たずに、勢いよく僕の胸へと飛び込んできた。
そして、僕の服に顔をうずめると、僕がさっきやったのと同じように、深く、深く、息を吸い込み始めた。
スウウウウーーーーッ、ハアアアアァーーーーッ……!
「……っ!」
僕の胸に感じる、彼女の柔らかな感触と、吐息の熱。
その大胆な行動に、今度は僕の理性が吹き飛びそうになる。
やがて、満足したのか、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「……これで、貸し借りなし、です」
そう言って、ぷい、とそっぽを向いてしまう彼女の姿は、あまりにも愛おしくて。
僕は、じんじんと痛む頬のことなどすっかり忘れ、ただ、夜空の下で、声を上げて笑うしかなかった。




