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第46話 マーキング完了です

「旦那様」


 リネアの声。

 僕は目を開けた。


 出陣前。

 準備が終わり、瞑想をしていたのだ。


 リネアは無言だったが、なんだか不満そうな表情をしているように思えた。


「どうしたの?」


「なぜ、私も前線に立たせていただけないのですか? ビルギット様とヴィルデ様だけでは、危険です」


 僕は静かに立ち上がると、彼女の瞳をまっすぐに見つめ返した。


「違うよ、リネア。僕は、君の力を誰よりも信じている。……信じているからこそ、君を前線には出せないんだ」


「……と、おっしゃいますと?」


「今回の敵は、ただの魔獣じゃない。力任せの消耗戦になる。それは、ビルギットとヴィルデの仕事だ」


 僕は、彼女の肩にそっと手を置いた。


「君には、二つの重要な役割がある。一つは、ヴィルデが敵の装甲を破壊した、その一瞬を突いて、完璧な一撃で奴の息の根を止める『切り札』としての役割」


 そして……。


「もう一つが、僕の最後の守護者だ。合成獣の知性はわからないが、司令塔である僕を狙ってくるかもしれない。いざというときは、僕を守っていてほしい。僕は、僕の命を、君に預ける。この役目を任せられるのは、世界で君だけなんだ、リネア」


「わかりました」


 どうやら納得していただけたようだった。


「それはそれとして、旦那様、ひとつ私のお願いを聞いていただいても良いですか?」


「うん? 珍しいね、きみがお願いなんて」


「はい。お願いを聞くと約束してください」


 ……まあ、リネアが僕の嫌なことをお願いしたりはしないだろう。


「いいけれど」


「それでは、噛みたいので、噛みますね」


「ん?」


「だから、噛みます」


「何を? え? どういうこと?」


「私が、旦那様を、噛みます」


「……どうして?」


「噛みたいからです」


 わけがわからなすぎる……。


「それでは」


 リネアが、そっと近づいてくる。

 ふわり、と。

 彼女がいつも身にまとっている、清潔なリネンの香りが、僕の鼻腔をくすぐる。


「失礼いたします」


 囁きと共に、彼女の華奢な手が、僕の肩にそっと置かれた。

 そして、ゆっくりと顔を寄せてくる。


 僕の首筋に、彼女の吐息がかかるのがわかった。

 熱い。


 その、あまりにも生々しい温度に、ぞくりと背筋が粟立った。


 ちくり、と。

 小さな、しかし確かな痛みが、首の付け根に走る。

 彼女が、僕の肌を食んだのだ。

 最初は、甘噛みのような、戯れるような感触。


 だが、次の瞬間。


「……んっ」


 彼女は歯を立てた。

 鋭い痛みが、快感にも似た熱となって、僕の全身を駆け巡る。

 脳が痺れるような、抗いがたい感覚。


 僕は、思わず喉の奥で、くぐもった声を漏らしてしまった。


 しばらくの間、彼女はそのままでいた。

 やがて、名残惜しそうに、ゆっくりと唇を離す。


 そして、リネアは言った。


「マーキング完了です」


◇◇◇


「アーリング様? その首元の赤い傷跡は、どうされたんですか? 虫刺されですか?」


 ヴィルデが不思議そうに僕の首元を覗き込んできた。

 僕は慌てて襟元を隠す。


「……ああ、人刺され。いや、なんでもない、ただの虫刺されだよ」


 しどろもどろな僕の返答に、ヴィルデは「?」と首を傾げている。


 僕は咳払いを一つして、この気まずい空気を断ち切るように、仲間たちの顔を見渡した。

 ヴィルデ、ビルギット、そしてリネア。

 それぞれの瞳に、決意の光が宿っている。


 ……シリヤは、すねて宿にいる。

 またあとでフォローしてあげないとな………。


 さて、雑談は終わりだ。


「――作戦を開始する。行くぞ!」


 それを合図に、僕らは一斉に岩陰から飛び出す。


 眼前に立ちはだかるのは、月光を浴びて不気味な輪郭を浮かび上がらせる、合成獣『ミラージュ・キメラ』。


 奴が、僕の存在を認識した。

 その血に飢えた瞳が、指揮官である僕を、明確な殺意と共に捉える。


 グオオオオオッ!


 地を揺るがす咆哮と共に、キメラの巨体が弾丸のように僕へと迫る。


 だが、僕の心は不思議なほどに静かだった。

 僕の【神の瞳】が、その攻撃の軌道と、ビルギットの盾が受け止めた場合の衝撃値を、瞬時に弾き出していたからだ。


 僕とキメラの間に、銀色の影が滑り込む。

 ビルギットだ。


「――我が主君に、指一本触れさせるものか!」


 ゴッッッ!!!


 想像を絶する衝撃音。

 キメラの突進の威力は凄まじく、ビルギットの巨体を大きく揺さぶった。


「ぐっ……ぅうううっ!」


 ビルギットの口から、苦悶の呻きが漏れる。

 彼女の足が、地面に深い溝を刻みながら、じり、じりと後退していく。


「ビルギット、耐えろ! 必ず隙を作ってみせる!」


「御意に……!」


 キメラは執拗に僕を狙い続ける。


 繰り出される爪撃、叩きつけられる尾の一撃。

 その全てを、ビルギットが紙一重で受け流し、あるいは耐え抜いていく。

 盾は軋み、鎧にはいくつもの亀裂が走るが、彼女の瞳に宿る光は、少しも揺らいでいなかった。


(さすがだな……これが、王国最強と謳われた騎士の防御か!)


◇◇◇


 ビルギットが作ってくれた、コンマ数秒の好機。


 それを、僕が見逃すはずがない。


 僕は意識を極限まで集中させ、【神の瞳】を完全に開く。


 僕の世界から、音が消えた。

 時の流れが、遅くなる。


 ――見えた。


 キメラの魔力循環の、ほんのわずかな『揺らぎ』。


 全身を覆う魔法反射の鱗。

 そのエネルギー供給が一瞬だけ途切れる、致命的なタイミング。

 大気中のマナを吸収するために、首筋の『魔力吸気口』が無防備に開く、その瞬間が。


「――ヴィルデ、今だ! 首筋、右下三枚目の鱗!」


 僕の背後で、ヴィルデが静かに矢をつがえる。


 ヒュッ、と。


 放たれた矢が、夜の闇を切り裂く。

 僕が示した座標へと、寸分の狂いもなく吸い込まれていった。


 ――グシャッ!


 鈍い、肉を抉る音。

 魔法反射の鱗に守られていない吸気口を、ヴィルデの矢が深々と貫いた。


「ギイイイイイイッ!」


 キメラが、今までにない甲高い悲鳴を上げる。

 その巨体が大きく揺らぎ、ビルギットへの攻撃が一瞬だけ止んだ。


 だが、まだだ。

 弱点は、一つじゃない。


「次! 左脇腹、心臓の真横!」


「そこだ! 背中、尾の付け根!」


 僕は、次々と現れるコンマ数秒の好機を、的確に指示し続ける。


 その度に、ヴィルデの矢が、神業のような精度で弱点を射抜いていく。


 一射、また一射と、確実にキメラの生命力を削り取っていく。


 僕たちは最強のチームだ。


◇◇◇


 主要な『魔力吸気口』を全て破壊され、キメラはついに暴走を始めた。

 魔力制御を失い、その身体からは黒い瘴気が、まるで血のように流れ出している。


「グオオオオオオオオオッ!」


 もはや知性などない。

 ただ、目の前の全てを破壊し尽くす、暴威の塊。

 だが、その最後のあがきもまた、僕の【神の瞳】には、予測済みの未来でしかなかった。


「――ビルギット、ヴィルデ! リネアに繋げ!」


「おおおおおおおっ!」


 ビルギットが、残された力を振り絞り、渾身の盾撃シールドバッシュを繰り出す。

 その一撃が、暴走するキメラの巨体を、ぐらりと大きく怯ませた。


「ヴィルデ、核の装甲を砕け!」


 その隙を逃さず、ヴィルデが必殺の一矢を放つ。

 矢はキメラの額の中心――核を覆う最後の硬い装甲に突き刺さり、甲高い音を立ててそれを粉々に砕いた。

 無防備な核が、禍々しい光を放ちながら完全に露出する。


「――リネア!」


 僕が叫ぶのと、彼女の影が動くのは、ほぼ同時だった。

 それまで僕の守護者として、そして戦況を見極める切り札として、完璧に気配を消していたリネア。

 彼女は、まるで最初からそこにいたかのように、怯んだキメラの懐に音もなく滑り込んでいた。


 その手には、いつ取り出したのか、鈍く輝く漆黒の短剣が握られている。


 彼女の動きに、一切の躊躇はない。


 ――ズブリ。


 鈍い、何かを貫く感触。

 リネアの短剣が、露出した魂の核を、深々と、そして正確に貫いていた。


「ギ……ア……」


 断末魔の叫びを上げる間もなく。


 ミラージュ・キメラの巨体は、その形を維持できなくなり、まるで砂の城が崩れるように、さらさらと黒い粒子となって、夜の風に溶けていった。


 静寂が、戦場に戻る。


「……はぁ……はぁ……」


 その場に膝をつく、ヴィルデとビルギット。


 リネアはまったく息が切れていない。さすがだ。


 僕は、膝をつくヴィルデとビルギットの元へと駆け寄った。


「アーリング様……!」


 僕の姿を認めたヴィルデが、弾かれたように顔を上げる。

 その瞳は、きらきらと輝いていた。


「お見事です! 完璧な指揮でした! 私、改めて惚れ直してしまいました!」


「うむ」と、ビルギットも力強く頷く。「まさしく、軍神の采配だった。あなたの的確な指示がなければ、我々に勝利はなかった。このビルギット、生涯あなたに付き従うと、改めて誓おう」


 二人の、あまりにも真っ直ぐで、熱烈な称賛の言葉。

 正直、照れ臭くて、どう反応していいかわからない。


 僕は、そんな彼女たちの賞賛を、苦笑しながら手で制した。


「違うよ。僕だけの力じゃない。僕が指揮官として迷わずにいられたのは、君たちがいてくれたからだ」


 僕は、まずビルギットの瞳をまっすぐに見つめた。


「ビルギット、君の『盾』がなければ、僕たちは一瞬で壊滅していた。君が僕たち全員の命を守ってくれたんだ。ありがとう」


 次に、僕はヴィルデに向き直る。


「ヴィルデがいなければ、僕たちは勝利を掴むことはできなかった。僕の『眼』が見た好機を、寸分の狂いもなく射抜いてくれた君の腕を、僕は誰よりも信頼している」


 僕は、心の底からの、最高の感謝を彼女たちに送った。


「君たちは、僕の誇りだ」


 その言葉に、ヴィルデとビルギットは顔を見合わせ、そして、今までにないほど誇らしげな、最高の笑顔を見せてくれた。

 その笑顔が見れただけで、この戦いの、全ての苦労が報われた気がした。


 僕が安堵の息をついた、その時だった。


 ヴィルデが、おずおずと、しかし期待に満ちた瞳で僕を見上げてきた。


「あ、あの、アーリング様……!」


「どうしたんだい?」


「そ、その……。わたくしたち、頑張りましたので……。その、ご褒美、を……いただけない、でしょうか……?」


 しどろもどろになりながらも、彼女ははっきりとそう言った。


 隣では、ビルギットが「こら、ヴィルデ殿! 主君に対して、なんとはしたないことを!」と慌てて彼女を窘めている。

 だが、そのビルギットも、どこかそわそわと落ち着かない様子で、僕から視線を逸らしていた。


「ご褒美、か。そうだね、もちろん。君たちはそれだけの働きをしてくれた。何がいいかな? 王都に戻ったら、何か美味しいものでも――」


「いえ!」


 僕の提案を、ヴィルデは食い気味に遮った。


「その……最近、シリヤ様が、よくアーリング様に頭を撫でていただいているのを、お見かけしまして……。わ、わたくしも、その……」


 語尾が、消え入りそうになる。

 顔を真っ赤にして俯く彼女の頭が、僕の目の前にそっと差し出された。


 なるほど、そういうことか。


 僕は思わず笑ってしまった。

 その健気な嫉妬が、たまらなく愛おしい。


「ああ、もちろんだよ。おいで」


 僕が優しく言うと、ヴィルデは「はいっ!」と、尻尾があれば、ちぎれんばかりに振っているであろう勢いで、嬉しそうに僕の前に膝をついた。


 僕は、その柔らかい髪を、わしゃわしゃと撫でてやる。


「よしよし。本当によく頑張ったな、ヴィルデ」


「えへへ……」


 ヴィルデは、心の底から幸せそうに、猫のように目を細めて僕の手に頭をすり寄せた。


 その光景を、ビルギットが羨ましそうに、しかし騎士としての矜持からか、固まったまま見つめている。


 僕は、そんな不器用な彼女に、悪戯っぽく微笑みかけた。


「ビルギットも」


「へっ!? い、いや、私は、そのような子供じみた真似は……!」


「いいから」


 僕は、慌てて後ずさろうとする彼女の腕を掴むと、半ば強引に引き寄せた。

 そして、ヴィルデと同じように、その硬い髪を優しく撫でてやる。


「君も、僕の大切な騎士であり、最高の仲間だ。いつも、ありがとう」


「…………っ」


 ビルギットは、顔を真っ赤にしたまま固まっていたが、やがて、観念したように、消え入りそうな声で「……かたじけない」とだけ呟いた。

 その横顔は、今まで見たどんな表情よりも、ずっと「乙女」の顔をしていた。


 そんな僕たちの様子を、少し離れた場所から、リネアが完璧な無表情で見つめている。


「あ、ごめん、リネアは……」


「私は、あとでたっぷり褒美をいただきますので、いまは大丈夫です」


 今夜は眠れるかなぁ……。

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