第45話 世界で一番、幸せな手紙
容態を確認しに行くと、ヨナスは静かに眠っていた。
エイラは疲れたようすだったが、ぺこりと僕に頭を下げた。
「アーリング様。こちらへ」
そう言って、エイラは隣の部屋へと僕を誘った。
弟の眠りを妨げないための、彼女なりの配慮なのだろう。
二人きりになった部屋で、エイラは、改めて深々と頭を下げた。
「あの……本当に、ありがとうございました。なんとお礼を言ったらいいか……」
彼女は懐から、古びた布に包まれた小さな何かを取り出す。
そして、それを僕の前に、震える手でそっと差し出した。
「すみません、こんなものしかなくて……。でも、今、私がお礼にできる、たった一つの……母の、形見なんです」
広げられた布の上には、小さな、しかし美しい輝きを放つ青い宝石が一つ。
古い指輪だった。
僕は、その手をそっと、押し返した。
「エイラさん、気持ちは、本当に嬉しいよ。でも、これは君のお母さんの大切な思い出だろう? それを僕が受け取るわけにはいかない」
「ですが、これくらいしか……!」
「代わりと言ってはなんだけれどね」僕は言葉をつづけた。「たまにでいい。君たちが元気にやっていると、そう知らせる手紙を、フィエルヘイムの僕の診療所に送ってほしいんだ。君たちの幸せな日常。僕にとっては、どんな高価な宝石よりも、それが最高の報酬だ」
それは、僕の偽らざる本心だった。
救えなかった命への、癒えることのない後悔。
僕が心の診療所を続ける理由は、いつだってそこに行き着く。
だから、僕が救った命が、その先で幸せに生きてくれていることを知れるならば、それで良いのだ。
「そんな……そんなことで、いいのですか……?」
「それがいいんだ。君からの便りを、楽しみに待っているよ」
僕の言葉に、エイラの瞳から、ぽろ、ぽろ、と大粒の涙がこぼれ落ちた。
「アーリング様。お約束します。世界で一番、幸せな手紙を、必ず、あなたにお届けします」
その言葉だけで、十分だった。
◇◇◇
さて。
僕達は渓谷を抜ける作戦を練るため、ミットダール村の詰め所へと訪れていた。
詰所は、燻った薪の匂いと、男たちの疲労が染みついた、重い空気に満ちていた。
僕たちを出迎えてくれたリーダーの男は若かった。
だが、その顔には年齢不相応の深い皺が刻まれている。
「……旅の方々か。悪いことは言わねえ。今すぐ、この村から引き返しな」
彼は、僕たちの顔を見るなり、か細く、掠れた声でそう言った。
「渓谷の魔物について、詳しくお話を伺いに来ました。僕たちは、ただの旅人ではありません。訳あって、あの渓谷を越えなければならないんです」
僕がそう切り出すと、リーダーは自嘲するように、ふっと力なく笑った。
「……魔物、ね。ああ、そうさ。あれは、確かに魔物だ。だが、俺たちが知るどんな魔物とも違う」
彼は、ゆっくりと語り始めた。
「最初に気づいたのは、見張り台の若い奴だった。『見たこともねえ化け物が、森をこっちに向かってくる』ってな。俺たちも、最初はただの大型の魔物だと思ってた。自慢じゃねえが、この辺りの魔物退治なら、俺たちだって手慣れたもんだったからな」
だが――。
「……違ったんだ。様子を見に行った仲間の一人が、魔力を込めた矢を放った。確かに、奴の身体に当たったはずだった。だが、矢は……カキン、て、妙な音を立てて、弾かれた。まるで、鏡にでも当たったみたいにな」
リーダーは、虚ろな目で虚空を見つめながら、続ける。
「一番、腕の立つ魔法使いのじいさんが、火の玉をぶち込んだんだ。そしたら……信じられるかい? 奴の身体に当たった瞬間、その火の玉が、寸分違わず、そのまま……」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
ごくり、と喉が鳴る。
「――そのまま、跳ね返ってきたんだ。じいさんは、自分の魔法で、黒焦げになっちまった」
その一言が、この場の空気を完全に凍りつかせた。
「魔法反射……!?」
シリヤが呟く。
「王国の魔術体系において、魔法そのものを完全に反射する能力など、理論上ありえません!」
「だが、事実だ」と男は言った。
魔法が反射されてしまう……。
それは、あらゆる魔術師にとっての天敵だ。
僕たちの最強の切り札であるはずのシリヤが、この敵の前では、完全に無力化されてしまう。
「……それからが、地獄だった。どんな攻撃も、魔法も、奴には通じねえ。俺たちは、ただ、仲間が一人、また一人とやられていくのを、見ていることしかできなかった。……命からがら、ここに逃げ帰ってきたのは、ほんの数人だけだ」
リーダーは震える手で顔を覆った。
魂が壊れてしまっている。
彼の心は、完全に折れていた。
◇◇◇
宿屋に戻った僕たちの間には、重苦しい沈黙が流れていた。
「旦那様」
沈黙を破ったのは、リネアだった。
彼女はテーブルに広げた地図の一点を、その白い指先でなぞる。
「この渓谷を完全に迂回するルートも、存在はします。北の大山脈を大きく回り込む、古の交易路です。ですが……」
彼女は、淡々と、しかし絶望的な事実を告げた。
「その道を踏破するには、最低でも三ヶ月は要します」
三ヶ月。
アスラグの件を考えると、僕たちにそれほど悠長な時間は残されていない。
「迂回路は最終手段だな……」僕は言った。「まだ、打つ手がないと決まったわけじゃない。情報は、聞くだけじゃ不十分だ。僕自身の目で、確かめてみたい」
僕は立ち上がった。
「ヴィルデさん、君の力を貸してほしい。二人で、あの合成獣の正体を暴きに行く」
僕の言葉に、ヴィルデの瞳が、強い光を宿して輝いた。
「はいっ! お任せください、アーリング様!」
◇◇◇
僕とヴィルデは、夕闇に紛れて問題の渓谷へと潜入した。
時折聞こえる獣の遠吠えが、否応なく緊張感を高める。
「アーリング様、あちらです」
ヴィルデが、身を屈めて囁いた。
彼女が指さす先、月明かりに照らされた開けた場所に、「それ」はいた。
自警団リーダーの話通りの、猪の屈強な体躯と爬虫類の鱗を併せ持つ異形の合成獣。
その巨体は、ただそこにいるだけで、圧倒的な威圧感を放っている。
全身を覆う鱗が、月光を鈍く反射し、不気味にきらめいていた。
僕は岩陰から、そっと【神の瞳】を発動させる。
対象の魂と魔力の構造を視るこの能力は、厳密には『ギフト』だ。
訓練で習得する『魔法』とは根本的に異なる力。
果たして、奴の魔法反射を貫通できるか……。
僕の意識が、合成獣へと深く潜行していく。
行ける……!
やはり強力な魔法反射の能力が表層を覆ってはいるが、そのさらに奥、魂に紐づいた魔力の本質的な流れまでは、弾き返せていない。
(……なるほど。これは、とんでもない構造だ)
僕の脳裏に、合成獣の魔力循環システムが、青白い光の回路となって映し出される。
全身を覆う鱗の一枚一枚が、外部からの魔力を完璧に弾き返す、独立した反射板として機能している。
まさに鉄壁の魔術的装甲だ。
だが、その完璧なはずの回路網の中に、僕は致命的な『矛盾』を見出した。
(これほどの巨体と魔力反射能力を常時維持するには、それだけではエネルギーが足りるはずがない。全身が完璧な『反射』、つまりエネルギーの『出力』だけなら、どうやって活動エネルギーを補っているんだ?)
その瞬間、僕の脳裏で【賢者の知識】が閃光のように起動した。
僕の知らない異世界の生物学の知識が、イメージとなって流れ込んでくる。
大気中のマナを直接エネルギーに変換する、魔力的な呼吸器官の存在。
そうだ、完璧な閉鎖系など、生命体としてはありえない。
必ず、どこかにエネルギーの『出入り口』があるはずだ。
僕はもう一度、意識を集中させる。
魔力の流れを、もっと仔細に観察する。
すると、見えた。
首の付け根、そして脇腹の数カ所。
他の鱗とは明らかに逆の流れ……外部から大気中のマナを直接吸収している『魔力吸気口』とも言うべき器官が、確かに存在する。
そこは「反射」ではなく「吸収」を目的としているため、当然、魔法反射の機能を持っていない。
わかった。
わかってしまえば、なんて簡単なことだったんだ。
「ヴィルデさん。一旦戻ろう。わかってしまえば、なんてことはない。僕達なら、あいつを倒すことができる」
ヴィルデは一瞬、呆気に取られたように僕の顔を見つめていた。
そして、その瞳をきらきらと輝かせた。
「はいっ……!」
彼女は、満面の笑顔で力強く頷く。
「どんな絶望的な状況でも、アーリング様は、必ず光を見つけ出してくださりますね。私、信じていました! さすがです、アーリング様! 愛してます!」
……ドサクサに紛れて愛の告白をされていた。




