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第44話 とても、幸せに暮らしていますよ

「治療には、彼女……エイラさんの、大きな犠牲を必要とします」


 リネアの言葉に、僕は一瞬、思考が止まった。


「詳しく、聞かせてもらえるか」


 リネアはこくりと頷くと、その禁断の儀式の名を、淡々と口にした。


「クレリックの母から受け継いだ禁術、『血分けの儀』。それは、《《血縁者》》の魂の一部を分かち与えることで、欠損を補う秘術です」


 彼女の説明は、感情が抜け落ちている。


「術者となる血縁者――この場合、エイラさんですね。彼女が自らの魔力回路と、その身に宿す寿命の一部を、弟であるヨナス君に『移植』する。それが、彼の命を救う、唯一の方法です」


 魔力と、寿命。


「そん、な……」


「犠牲は大きいです。だから、あの場ではエイラさんにお伝えできませんでした」


 先天的な魂の欠損を、健康な血縁者からの『移植』によって補う。

 その理屈自体は、僕の知る異世界の医学的見地から見ても、極めて合理的だ。

 特定の代謝酵素の多くは肝臓でつくられる。

 よって、正常な酵素をつくれる健康な肝臓を移植することで治療ができる。

 理論的にはそれと同じなのだろうが……。


 だが、しかし……。


「エイラさんに伝えるべきだろうか」


「私ならば」リネアは言った。「《《最愛の弟の命》》を救えるのであれば、どのような代償を払っても構いません。救えたかもしれないのに、救えなかった、と後悔して生きていくのは嫌です」


(……後悔、か)


 その言葉が、僕自身の心の奥底に眠る、癒えることのない傷を抉った。

 母を救えなかった、あの日の無力感。

 もし、あの時に戻れるなら。

 もし、万に一つの可能性でもあったのなら。

 僕は、きっと……。


 一番残酷なのは、選択の機会すら与えられないことだ。

 「あの時、もし知っていたら」と、永遠に答えの出ない問いを、暗闇の中で繰り返すことだ。

 僕が彼女の可能性をここで勝手に判断し、情報を隠すことは、彼女に未来永劫の後悔を押し付けることと同じではないか。


「行こう。エイラさんの元へ」


◇◇◇


「エイラさん」


 僕は彼女の冷たい手を握った。


「君の弟を救える可能性が、たった一つだけある。でも、それは君に、あまりにも大きな代償を求めるものだ。僕の口から伝えるのは、本当に心苦しい。だけど、君には知っておく権利があると思う」


 僕は、彼女の瞳をまっすぐに見つめながら、『血分けの儀』の詳細を、言葉を選んで伝えた。

 彼女の魔力と、寿命の一部を、弟に移植するという、その残酷な希望を。


 エイラの顔から、さっと血の気が引いていく。

 その瞳が絶望と希望の間で激しく揺れる。


「今すぐ決める必要はない。君が、君自身の心で納得できるまで、僕たちは待つ。だから、今夜は、ゆっくりおやすみ」


 僕にできるのは、ただ、彼女の選択に寄り添うことだけだった。


◇◇◇


 その夜、僕は宿屋の自室の窓辺で、一人、思考の海に沈んでいた。

 少年の発作を止められるのは、あと一回か二回が限界だろう。

 残された時間は、少ない。


 ――コン、コン。


 控えめなノックの音に、僕は思考を中断された。

 そこに立っていたのは、リネアだった。


「旦那様。少しだけ、お時間を」


「どうしたんだい?」


「エイラさんの元へ行ってまいります」


「どんな話をするの?」


「似たような経験をした、知人の話を」


 僕も、彼女と共に行くことにした。


◇◇◇


 僕たちは、エイラの家の扉を叩いた。


 しばらくして、ゆっくりと扉が開かれる。

 そこに立っていたのは、泣きはらした瞳のエイラだった。


「……どうぞ」


 力なく僕たちを招き入れた彼女は、再び弟のベッドの横に座り込んだ。

 重い沈黙が、部屋を支配する。


 僕がどんな言葉をかけるべきか、必死に探していた、その時だった。


「エイラさん」


 リネアが口を開いた。

 エイラの前に進み出る。


「あなたのそのお気持ち、私にはわかりません。ですが」


 リネアは一度言葉を切ると、静かに続けた。


「似たような選択を迫られた知人の話なら、知っています。……もし、あなたの決断の、ほんの少しでも参考になるというのなら。お話を聞いてはいただけませんか」


 その申し出に、エイラはこくりと小さく頷く。


 リネアは、ゆっくりと語り始めた。


「……昔、あるところに、誰よりも優しい心を持った『主』と、愚かな『従者』がおりました」


 その声は静かだが、不思議なほどクリアに響いた。


「主は、その優しさゆえに世間から誤解されがちでしたが、従者にとっては、世界でただ一人の、かけがえのない方でした。ですがある時、主は事故で、その未来さえ閉ざしかねないほどの大怪我を負ってしまったのです」


 その物語を語るリネアの横顔からは、一切の感情が視えない。


「どんな名医も、どんな秘薬も、主の傷を完全に癒すことはできなかった。ただ一人、彼に仕える従者であった、その女を除いては」


 彼女は、一度、言葉を切った。


「女は、禁術とされる儀式を執り行いました。自らの身体の一部を、主の失われた部分を補うために、捧げたのです。……結果、主の傷は奇跡的に癒え、以前と変わらぬ日々を取り戻すことができるようになりました」


 エイラの嗚咽が、いつの間にか止んでいた。

 彼女は、ただリネアの横顔を、食い入るように見つめている。


「その、従者さんは。その後、どうしているのですか……? ご自身の、一部を、失って……」


 エイラが、震える声で尋ねた。


 リネアは、初めて、ほんのわずかに、穏やかな笑みを浮かべて見せた。


「とても、幸せに暮らしていますよ」


 その声には、一片の曇りもなかった。


「彼女が失ったものなど、些細なものです。なぜなら、敬愛する主が、今も息をして、笑って、生きている。そのお姿をそばで見続けられる……。それ以上の幸せは、彼女にはありませんから」


 エイラは、自身の涙をぐいっと拭った。

 その瞳は、今までにないほど強い光を目に宿している。


「……私、決めました」


 エイラは、はっきりと告げた。


「お願いします。私の、全てを……あの子のために捧げます」


「……それでこそ、姉です」とリネアが言った。


◇◇◇


 禁断の『魂の移植手術』は、エイラの家の、一番大きな部屋で執り行われた。


「――始めます」


 リネアの静かな号令が響く。

 ベッドには、ヨナスとエイラが、隣り合って横たわっていた。


 僕の役割は、二人の魂の状態を【神の瞳】で視続け、その変化を的確にナビゲートすることだ。

 シリヤは、リネアの指示に従い、移植に伴う魂の拒絶反応を、その精密な魔力操作で抑制する。

 そして、この禁術の全てを知るリネアが、全体の指揮を執る。


 三位一体。

 誰か一人でも欠ければ、この奇跡は成し得ない。


「シリヤさん、エイラさんの魂のソウル・コアから、魔力回路を慎重に切り離してください。旦那様は、そのバイパスの確保を」


「了解!」

「わかった!」


 僕の【神の瞳】には、光の糸のように絡み合った、二人の魂の姿が視えている。

 シリヤの放つ極小の魔力のメスが、エイラの魂の核から、丁寧に、一本、また一本と、魔力回路を剥離させていく。

 僕は、その切り離された回路の末端が暴走しないよう、僕自身の魔力で、一時的な行き先を作ってやる。


「拒絶反応の兆候あり! ヨナス君の魂が、エイラさんの魔力を異物と認識し始めています!」シリヤが叫ぶ。


 その悲痛な声に、リネアが僕を振り返った。


「旦那様、あなたの『共感』の御力をお貸しください……!」


 リネアの、普段からは想像もつかない、祈るような、切迫した声が響く。


「お願いします、二人の魂に思い出させてあげてください……! 彼らが、分かたれることのない、ただ一つの魂なのだと……!」


 僕は、その魂の叫びに応えるように、二人の魂に、強く、深く、意識を潜行させる。

 大丈夫だ、と。

 これは、君を傷つけるものではない、と。

 ただ、ひたすらに、語りかけ続ける。


 やがて、ヨナス君の魂の抵抗が、ふっと和らいだ。


「接続、完了しました。あとは……」


 リネアの額に、玉の汗が光る。

 最後にして、最大の難関。

 エイラの寿命を司る、魂の根幹そのものを、ヨナスの魂へと繋ぎ合わせる、最後の工程。


「……大丈夫です、旦那様」


 リネアが、僕の心を見透かすように、静かに言った。


「すでに、経験がありますから」


「え?」


 リネアの指先から放たれた、一条の光の糸が、二つの魂を、確かな絆で結びつけた。


 その瞬間、部屋を満たしていた魔力が、穏やかな光の粒子となって、きらきらと舞い始める。


◇◇◇


 やがて、ヨナスが、ゆっくりと目を開けた。

 その隣で、エイラもまた、力なく、しかし、安らかな笑みを浮かべていた。


「……お姉ちゃん……?」


「ヨナス……よかった……本当によかった……」


 二人の瞳から、涙が溢れ出す。

 魔力を失った姉と、新しい人生を得た弟。


 僕たちは、ただ静かに、祝福するように見守っていた。

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