第42話 ……泣いているのかい?
宿屋の一室。
僕の向かいにはヘルグァが座っていた。
アスラグの行方を追うため、北の大地へ行くことを伝えたのだ。
「アーリング様。この度は、私の妹のことで、本当に……ありがとうございます」
彼女は深々と頭を下げた。
「妹の、アスラグのこと……どうか、よろしくお願いいたします」
「ああ、もちろんだ。できる限りのことをするよ」
アスラグがどういう状況にあるのかはわからない。
できれば、ヘルグァが悲しまないような結末になればよいが……。
「ヘルグァさんは、これからどうするの?」
僕の問いに、ヘルグァはきょとんとこちらを見た。
「これから、どうすると言いますと?」
「どうやって生きていくのか、だよ」
僕の問いに、彼女の表情が歪む。
「……私にはできません」ヘルグァはつづける。「母を……あの家に、一人残して……私だけが、自由になることなど……。私には、母を見捨てることなんて……できません」
アスラグを救いに行く、その前に……。
僕はヘルグァも救いたいと、そう思うのだった。
◇◇◇
「辛かったね」
僕は、彼女が落ち着くのを待ってから言った。
非難も、否定も、同情もしない。
ただ、彼女が抱えてきた痛みを、ありのままに受け止める。
「君は、ずっと一人で、そんな重たい荷物を背負ってきたんだね。お母さんのこと、自分の幸せ、そして家を出ていった妹さんのこと……。全部一人で背負って、本当によく、今まで頑張ってきた」
僕の言葉に、ヘルグァは、はっとしたように顔を上げた。
その瞳から、涙がこぼれる。
瞳は驚きに見開かれている。
きっと、誰にも理解されないと思っていたのだろう。
僕の【神の瞳】には、彼女の心の奥底にある、歪んだ信念の核が、はっきりと視えていた。
それは、黒く、錆びついた『鎖』のように、彼女の魂の中心に深く食い込んでいる。
『私が不幸でいることが、イコールで母への愛の証明』。
なんて、悲しい自己犠牲だろう。
「君は、お母さんを深く愛しているんだ。だからこそ、自分だけが幸せになることは、お母さんを裏切る罪だと感じている。違うかな?」
僕が彼女の心の核心を言語化すると、ヘルグァはこく、こくと、子供のように頷いた。
僕は、その歪みを解きほぐすために、次の言葉を紡ぐ。
「君が、お母さんを大切に想う気持ちは、本物だ。それは、誰にも否定できない、美しいものだよ」
まず、彼女の愛情そのものを肯定する。
その上で、僕は最も重要な問いを投げかけた。
「でもね、ヘルグァさん。少し、冷たい言い方に聞こえるかもしれないけれど、これはとても大事なことなんだ。……お母さんが何を信じ、どう生きるか。それは、お母さん自身の『課題』であって、君の課題じゃないんだ」
「私の……課題じゃ、ない……?」
ヘルグァは、信じられないといった表情で僕の言葉を繰り返す。
「君がどんなに心を尽くしても、君がお母さんの人生を代わりに生きることはできない。逆にお母さんも、君の人生を生きることはできないんだ。君が今、苦しんでいるのは、お母さんの課題まで、全部一人で背負い込もうとしているからなんだよ」
僕の言葉の狙いは、彼女の世界観を揺らがすことだ。
母の人生は、自分の人生と分かちがたく結びついていると信じてきた。
その前提を崩してあげる必要がある。
「お母さんの課題は、一旦、お母さん自身に返してあげよう。僕たちが今、ここで話すべきなのは、たった一つだ」
僕は、彼女の魂に直接語りかけるように、問いを投げかけた。
「――ヘルグァ。君は、これから、どう生きたいんだい?」
それは、彼女が生まれて初めて向けられた、彼女自身のためだけの問いだった。
「母の娘」でも、「教団の信者」でもない、ただ一人の人間としての「ヘルグァ」に向けられた問い。
彼女は答えられなかった。
ただ、混乱したように首を横に振る。
その時、彼女の脳裏に、ふと、遠い日の記憶が蘇ったのが視えた。
教団に心を縛られる前の、優しかった母の姿。
『ヘルグァ、あなたは、あなたの好きなように生きなさい。あなたの笑顔が、お母さんの一番の宝物なんだから』
そんなイメージが、神の瞳を通じて僕に流れ込んできた。
その優しい声が、彼女自身の心の奥底に眠っていた本当の願いを、呼び覚ました。
ヘルグァの瞳から、再び涙が溢れ出した。
「私……私は……」
嗚咽混じりに、彼女の唇から、初めて心の叫びがこぼれ落ちる。
「……アスラグみたいに……ただ、自由に……なりたかった……。好きな本を読んで、知らない街を歩いて……好きな人と、ただ、お話が……してみたかった……っ! 私……笑いたい……! 心の底から、笑いたいんです……っ!」
その言葉を口にした瞬間、彼女を縛り付けていた見えない鎖が、音を立てて砕け散ったのが視えた。
背負う必要のない重荷から解放された彼女の魂が、ようやく、本来の輝きを取り戻し始める。
彼女は顔を上げ、涙の跡が残る顔で、しかし、決意に満ちた、今までにないほど美しい笑顔を見せた。
「怖いです。自分のためだけに生きるなんて、やったことがないから。でも……やってみます」
彼女は、力強く言い切った。
「私……自分の人生を歩みます。母の人生ではなく、私の人生を」
「ああ」僕は、心からの敬意を込めて頷いた。「君が、君自身の力で、その答えを見つけ出した。君が、君自身を救ったんだ。よく、頑張ったね」
「本当に……本当に、ありがとうございました」
ヘルグァは、心の底からの、最高の笑顔で僕を見つめた。
「あなたは、私の人生を、まるごと救ってくれました。このご恩は、一生忘れません」
その言葉だけで、僕のこれまでの苦労は、すべて報われた。
「アーリング様、どうか、私の妹を……よろしくお願いします」
「ああ、任せてくれ」
僕たちは、固い握手を交わした。
◇◇◇
ヘルグァが帰ったあと、僕の膝の上にはリネアがいた。
「……えっと? どうしたのかな?」
急に僕の膝の上に「失礼します」と乗ってきたのだ。
「甘えています」
甘えているらしかった。
不覚にも可愛いと思ってしまった。
僕はリネアの頭を撫でる。
「ヘルグァさんとの浮気も許します」
「いや、浮気とかじゃないからね……」
「許しますから、せめて、いまだけは一緒にいてください」
「ずっと一緒にいるよ」
「いまだけでいいんです」
そう言って、リネアはぎゅっとしがみついてきた。
「……泣いているのかい?」
「いいえ」とリネアは涙声で答えた。




