第41話 世界と、愛する人
グレンフェル公爵家の屋敷に僕が足を踏み入れるのは、追放されて以来、初めてのことだった。
案内されたのは、屋敷の最奥にある、父の私室だった。
書斎の主、グレンフェル公爵――僕の父は、窓辺に立ち、月明かりに照らされる庭を静かに眺めていた。
「よく来たな、アーリング」
振り返ることなく、父は言った。
その声は、昔と何も変わらない。
穏やかで、知的で、そして、温度というものが一切感じられない、絶対者の声。
「そこに座れ」
有無を言わさぬ、静かな命令だった。
◇◇◇
僕が革張りの椅子に腰を下ろすと、父はゆっくりと振り返り、僕の正面の椅子へと腰を下ろした。
「辺境での、お前の活躍は聞いている」
父は静かにつづけた。
「心を病んだ者たちを癒やし、訳ありの者たちをまとめ上げ、ついには、忌まわしい合成獣まで打ち破った、と。スヴェレとの試合も見事だった。父として、誇らしい限りだ」
あまり父に褒められた記憶がない。
その素直な言葉に、僕は驚いていた。
「だがな、アーリング。王都は、辺境とは違う」
父の瞳が、僕を射抜く。
「お前も知っての通り、王都は魑魅魍魎が巣食う場所だ。光が強ければ、その影もまた濃くなる。この都の闇は深い」
父は、僕の目をじっと見つめ、諭すように言った。
「アーリング、お前は……優しすぎる。その優しさは、美徳であると同時に、命取りの弱さにもなる。人を信じ、寄り添おうとするその心根は……お前の母によく似ている」
母の名が出た瞬間、僕の心の奥が、ちくりと痛んだ。
父の言葉は、完璧な正論だった。
「……父上は、僕に、どうしろと?」
「辺境へ戻れ」
静かな、しかし、決定的な命令。
「フィエルヘイムで、これまで通り、静かにお前の信じる道を歩めばいい。王都の政争に関わるな。これ以上、都の闇に深入りするな。それが、お前のためだ」
父の心は、読めない。
本当に僕の身を案じているのだろうか……。
たしかに父の言うことにも一理あった。
僕は、もともと王都の政争が嫌で、父から追放されたときに、むしろ喜んだ。
だが……。
いまは、行かなくてはならないところがある。
◇◇◇
「僕はリムグレーペへ行こうと考えています」
僕の宣言に、父の無表情がわずかに揺らいだ。
「リムグレーペか。あのような何もない森に、なんの用だ?」
「ある人物の足取りが、そこで途絶えているんです。まあ、簡単に言えば人探しですね」
「なるほど」父は言った。「人探しであれば、公爵家の私兵を遣わそう。わざわざお前が行くまでもあるまい」
なぜ、父は僕をフィエルヘイムに幽閉したがっているのだろうか?
わざわざ、私兵を貸してまで?
「父上。僕がリムグレーペへ行くと、なにか不都合があるのですか?」
「ああ」父は、あっさりと答えた。「アーリング。認めよう。お前の力は強大だ。だが、過ぎた力は王都に騒乱を及ぼす。この国は、政治的に絶妙な均衡を保っている。この世界を乱したくなければ、これ以上、動くな」
「それでも、僕には救わなければならない人がいます」
僕の言葉に、父は微笑んだ。
「なあ、アーリングよ。世界と、愛する人。どちらかを選ばねばならないとしたら、お前は、どちらを選ぶ?」
「それは……」
即答はできなかった。
少し考えてから答える。
「世界がなければ、そもそも、愛する人も生きていけないのではありませんか?」
「そうかもしれない。だが、それでも、私は後者を選ぶ」
後者。
つまり、愛する人を選ぶということか?
父は、何を言っているんだ?
「最後に、もう一度だけ忠告をしておく。アーリングよ。田舎に帰り、静かに余生を過ごせ。それが、お前にとって、もっとも幸福な人生となるだろう」
「お言葉ですが、僕の人生は、僕が決めます」
父は、僕の言葉に目を細める。
「大きくなったな。アーリング」父は言った。「自分の決めた道を行け。たとえ、その道が地獄につづいていようとも、選んだ責任を取るのだ。私は、そのようにして生きてきた」
地獄か……。
その言葉に、リネアの顔が脳裏をよぎった。
父の言葉には、裏の意味があるような気がしてならなかった。
非常に婉曲的で、真意がわかりづらい。
なにかを伝えようとしているのか。
あるいは、伝えたくないから、そのような表現になっているのか……。
「父上。質問の答えですが……おそらく、僕も世界ではなく、愛する人を選ぶと思います」
「たとえ地獄に堕ちようとも?」
「はい」
僕の答えに、父は満足したように、無言で小さくうなずいた。




