第4話 治療完了……?
「あなたのおかげで……私、変われるかもしれません」
「ああ、君なら変われるさ」
僕は力強く頷いた。
変わろうという意志の光が、彼女の瞳にはっきりと灯っている。
僕にできるのは、その光が消えないように、守ってやるだけだ。
「ヴィルデさん。もう少しだけ、勇気を出せるかい?」
僕は繋いだままの手に、ほんの少しだけ力を込めて、廊下の先……一階へと続く階段を指し示した。
彼女の表情が、期待と不安の狭間で揺れる。
数秒の沈黙の後、ヴィルデさんはこくりと、しかし力強く頷いた。
その返事だけで、十分だった。
一歩、また一歩。
ぎし、ぎし、と鳴る床板の音が、やけに大きく響く。
それは、止まっていた彼女の時間が、再び動き出した証だった。
そして、ついに僕たちは玄関の扉の前にたどり着いた。
僕たちの世界の、内と外を隔てる最後の境界線。
僕が手をかけようとすると、ヴィルデさんがそれを制するように、自らドアノブに手を伸ばした。
自分で開けたい、という無言の意志表示だ。
「……っ」
ゆっくりと、震える手でドアが開かれる。
隙間から差し込んだ午後の光が、彼女の長い髪をきらきらと金色に染め上げた。
「……あ……」
扉が完全に開け放たれる。
そこに広がっていたのは、彼女が何年もの間、見ることのなかった世界だった。
むわりと頬を撫でる、生暖かい風。
土の匂い、庭に咲き乱れる名もなき花々の甘い香り。
遠くで聞こえる、子供たちのはしゃぐ声。
梢を揺らす風の音。
「……あったかい……」
ヴィルデさんは、おずおずと一歩、外に足を踏み出した。
そして、ゆっくりと天を仰ぐ。
目を細め、久しぶりに全身で浴びる太陽の光を、そのすべてを確かめるように味わっていた。
彼女の瞳から、また一筋、涙がこぼれ落ちる。
その日は、無理に何かをすることはせず、ただ彼女が気の済むまで庭の空気を味わうのに付き合った。
彼女が疲れた様子を見せたのを確認して、僕たちは家の中に戻った。
◇◇◇
あの日を境に、ヴィルデさんの世界は少しずつ、しかし確実に色を取り戻していった。
最初は庭に出るだけだったのが、次の日には庭のベンチに僕と並んで座れるようになった。
その次の日には、リネアが淹れてくれたハーブティーを飲みながら、他愛のない話ができるようになった。
「このお花、なんていう名前なんですか?」
「これはカレンデュラだね。薬にもなるんだよ」
「へえ……綺麗」
彼女が指差す花の名前を教えたり、空を流れる雲の形を二人で眺めたり。
そんな穏やかな時間が、数日間続いた。
僕の『神の瞳』には、彼女を覆っていた『恐怖の茨』が、陽光の下で過ごす時間と共に、日に日にその黒い色を薄めていくのが視えていた。
もう、彼女がゴブリンの幻影に怯えることはない。
外の世界が、彼女にとって「安全な場所」として再認識された証拠だ。
◇◇◇
彼女が外の光にすっかり慣れた、ある晴れた日の午後だった。
僕は「その時が来た」と確信した。
「さて、ヴィルデさん。最後の治療を始めよう」
僕がそう言ってにこりと笑うと、背後に控えていたリネアが、音もなく庭の中央へと進み出た。
彼女が地面に手を置くと、庭の土と、落ちていた木の枝が、まるで生き物のように蠢き始める。
メリメリ、と音を立てて組み上がり、形作られていくそれを見て、ヴィルデさんの顔からさっと血の気が引いた。
「ひっ……!」
数日間の穏やかさで忘れていた恐怖が、一瞬で蘇る。
だが、彼女は以前のように僕の後ろへ隠れるのではなく、僕の服の袖をぎゅっと掴んで、その場で踏みとどまった。
それだけでも、大きな進歩だ。
彼女の目の前で完成したのは、かつて彼女の日常を破壊した、あの忌まわしい化け物――実物大のゴブリンだった。
「ゴ、ゴブリン……!?」
「大丈夫。落ち着いて、ヴィルデさん」
僕は震える彼女の肩を優しく、しかし力強く抱き寄せた。
「よく見てごらん。あれはリネアが土と木でこしらえた、ただの人形だ。リネアが少し魔力を込めているから動くけれど、君を傷つける力は持っていない」
僕の言葉に、彼女はおそるおそる僕の腕の中から顔を覗かせる。
土塊のゴブリンは、その場でのろのろと腕を振り回しているだけで、こちらに近づいてくる気配はない。
確かに、本物のような殺気や獰猛さは感じられなかった。
「どうして……こんな、ことを……」
「君の心に残った、最後の恐怖を追い出すためさ」
僕は彼女の目線をまっすぐに見て、語りかける。
「いいかい、ヴィルデさん。君はもう、ゴブリンに怯えるだけの無力な少女じゃない。君のその頭の中には、誰よりもこの森を知り、狩りの知識を持った、狩人見習いとしての君がいるはずだ」
「わたし、は……」
「君ならできる。思い出せ。その知識と君自身の勇気で、あの恐怖の象徴を、君自身の手で壊してごらん」
彼女は、ゴブリンの人形を睨みつける。
その瞳には、恐怖だけではない、別の色が混じり始めていた。
怒り、悔しさ、そして、奪われたものを取り返そうとする、強い意志の光。
ヴィルデさんは僕の腕の中からそっと離れると、地面に落ちていた、手頃な大きさの石を拾い上げた。
その石を握りしめる構えは、素人のそれではない。
獲物との間合いを正確に測り、急所を狙う狩人の構えだ。
彼女は大きく息を吸い込む。
極限の集中。
その瞬間、彼女の周りの空気が変わった。
「――はぁっ!」
鋭い呼気と共に、彼女の腕がしなる。
放たれた石は鋭い軌道を描き、寸分の狂いもなく、土塊のゴブリンの右目に突き刺さった。
――ゴッ!
鈍い音。
ゴブリンの頭部に大きな亀裂が走り、次の瞬間、それはまるで積み木崩しのように、ガラガラと大きな音を立てて崩れ落ちた。
残ったのは、ただの土と木の瓦礫の山だけ。
静寂が、庭を支配した。
その瞬間、僕の『神の瞳』には、信じられない光景が映し出されていた。
ヴィルデさんの心を、身体を、雁字搦めに縛り付けていた最後の『恐怖の茨』が、ガラス細工が砕け散るように、パリン、と音を立てて粉々になっていく。
砕けた茨は、きらきらと輝く無数の光の粒子となり、午後の空に吸い込まれるように消えていった。
もう、彼女を縛るものは何もない。
「……あ……ああ……」
呪縛から完全に解き放たれたヴィルデさんは、その場にへなへなと座り込み、声を上げて泣き始めた。
それは、子供のような、しゃくり上げるほどの号泣だった。
数年分の恐怖と悲しみを、すべて洗い流すかのように。
「……よかった」
僕が駆け寄ろうとした、その時だった。
泣きじゃくっていたヴィルデさんが、弾かれたように立ち上がると、猛烈な勢いで僕の胸に飛び込んできた。
「うわっ!?」
「アーリング様……! アーリング様っ……!」
「ああ、もう大丈夫だ。よく頑張ったな、ヴィルデさん」
「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……! もう、何も怖くありません……!」
しがみついてくる彼女の背中を、僕は優しくポンポンと叩いてやる。
これで、一人の少女を救うことができた。
その達成感が、僕の胸を温かく満たしていく。
……と、感動に浸っていたのも束の間。
ふと、腕の中の彼女の震えが、ぴたりと止まったことに気づいた。
そして、僕の胸に顔を埋めていたヴィルデさんが、ゆっくりと顔を上げる。
その顔を見て、僕は息を呑んだ。
涙は、もうどこにもない。
そこに浮かんでいたのは、穏やかで、満ち足りたような、慈愛に満ちた笑み。
だが、その瞳の奥。
翠色の瞳の奥に宿っていたのは、感謝や安堵とはまったく質の異なる、狂信的とすら言えるほどの、燃え盛るような光だった。
「これからは、私がアーリング様をお守りします」
はっきりと、そう言った。
「え……?」
「アーリング様を傷つけようとするものは、それがゴブリンでも、人間でも、たとえ神様でも……私がこの手で、すべて排除しますから」
彼女はうっとりとした表情で、僕の頬にそっと手を添える。
その声は甘く、蕩けるようだったが、言っている内容は物騒極まりない。
「え、あ、ヴィルデさん……?」
「もう二度と、誰にもアーリング様を渡しません。絶対に。アーリング様は、私だけの光なのですから……!」
こうして、僕の記念すべき治療成功者第一号は、トラウマを克服した代償に、何かもっと厄介なものを手に入れてしまったようだった。




