第39話 一緒に、地獄に堕ちましょう
「リヴ・スティエルは、私の母ですから」
リネアのその言葉を受け、僕の思考は、完全に停止していた。
リネアの、母。
それが、父のかつての冒険仲間だった、リヴ・スティエル。
そういえば、リネアの姓については聞いたことがなかったかもしれない……。
理解が追いつかない。
「君の、お母さんは……」
僕は、喉から絞り出すように、言葉を紡ぐ。
何を、聞けばいいのか。
何を聞くべきなのか、わからなかった。
「君さえよければ、聞かせてはくれないだろうか。リヴさんのこと。君のお母さんのことを」
僕の言葉に、リネアはゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、いつもと同じ、感情が読めない。
静かな湖面のようだ。
彼女は、一度だけ、ぎゅっと目を閉じた。
「母は、私がまだ、本当に幼い頃に亡くなりました」
淡々とした、あまりにも平坦な声だった。
「病死です」
彼女は、そう言うと、唇をきつく噛み締めた。
長い沈黙が、部屋を支配する。
僕は必死に言葉を探す。
「なんと言ったらよいかわからないけど」間を置いて、僕は言った。「僕はリネアのことが好きだよ」
その言葉が、はたして正しいのかどうか。
わからない。
話の流れにそぐわない言葉だったかもしれない。
僕の言葉に、リネアがフリーズする。
◇◇◇
「ねえ、リネアは、僕のことをどう思っているの?」
きみは、一体、何者なんだ?
「……どう思っていてほしいですか?」とリネアは問い返した。
「いや、どう思っていてほしいって、そりゃ……僕のことを好きでいてほしい。そして、いつも感情を押し殺しているように見えるから、少しくらいは、僕に見せてほしいかな。楽しいときは笑って、悲しいときは泣いて」
「わかりました」
そう言って、リネアは両手の人差し指を口の端に当て、ぐっと上に引き上げた。
「……何をしているの?」
「笑顔です」
その、あまりにも痛々しい光景に、僕は言葉を失った。
彼女が無理やり作り上げたそれは、笑顔と呼ぶには、あまりにも歪で、悲しい。
「ごめんね」
「なぜ謝罪されるのですか?」
「無理をさせて、本当にごめん」
「いえ」
リネアはゆっくりと、自分の指を口の端から離した。
歪な笑顔は消え、元の完璧な無表情へと戻る。
「旦那様。謝罪するべきは、私のほうです」
「え……?」
「旦那様は、私に『感情を見せてほしい』と、そうお望みでした。しかし、私の、先ほどの『笑顔』では、あなたの心を、満たすことはできなかった。私の、力不足です」
いや、そうじゃない。
「つきましては、私の『本心』を、あなたに理解していただくための、別の、そして、より確実な方法を、ご提案いたします」
その言葉と共に、彼女は、くるりと踵を返した。
そして、部屋の奥にある、僕が眠るはずだったベッドの方へと、静かに歩き始める。
一歩、また一歩。
僕は、彼女の意図がわからず、ただ、呆然と、その背中を見つめることしかできない。
やがて、ベッドの横で立ち止まったリネアは、ゆっくりとこちらを振り返った。
彼女は、震える手で、自らのメイド服のエプロンの紐に、手をかけた。
「私は、生涯をかけて、《《あなたの『目』となり》》、『知識』となり、そして……あなたの全てをお支えすると誓いました」
その声は、誓いの言葉を再確認するかのように、厳かに響く。
「その誓いを、今宵、完全に果たしたいと思います」
そして、彼女は、僕の瞳を、まっすぐに見つめて、こう言った。
「――旦那様。こちらへ」
◇◇◇
僕は、差し伸べられた彼女の手を、ただ見つめていた。
拒絶しなければならない。
だが。
僕の心は、理性の命令に逆らっていた。
わからない。
何が正しいのか、もう、わからなかった。
僕は、ゆっくりと手を伸ばした。
そして、彼女の、氷のように冷たい指先を、そっと握る。
その瞬間、リネアの肩が、ほんのわずかに震えたのがわかった。
僕は、彼女の手に引かれるまま、ベッドのそばへと歩み寄る。
言葉は、なかった。
ただ、互いの呼吸の音だけが、静かな部屋に響いている。
床には、彼女が決意の証として最初に解き放った、白いエプロンがくしゃりと落ちている。
リネアは、僕の瞳をじっと見つめたまま、もう片方の手で、自らのブラウスの一番上のボタンに、そっと指をかけた。
小さな、貝殻のボタン。
それが一つ、外される。
次いで、二つ目。
白い肌が、月明かりに照らされて、あらわになっていく。
僕は、ただ、その光景を、息を詰めて見つめることしかできなかった。
やがて、全てのボタンが外され、純白のブラウスが、はらり、と彼女の華奢な肩から滑り落ちる。
僕は、吸い寄せられるように、その白い肩に手を伸ばした。
僕の指が、彼女の肌に触れた、まさにその瞬間だった。
「……ぁ……」
リネアの唇から、声にならない声が漏れた。
彼女の瞳が、初めて激しく揺らめき、その完璧な仮面が崩れ落ちる。
みるみるうちに潤んでいく瞳。
ぽろり、と。
大粒の涙が、その白い頬を伝い落ちた。
彼女は、泣いていた。
そして、その涙に濡れた瞳で僕を見つめながら、震える手を、僕の顔へと伸ばしてきた。
――その光景を見た瞬間。
僕の頭の中で、何かが、弾けた。
――暗い、寝室。
――熱に浮かされたように、ぼんやりとする思考。
――ベッドに乗り上げてくる、まだ少女の面影を残す、十代半ばの彼女。
泣いていた。
あの時も、彼女は、今と同じように、静かに涙を流していた。
「リネア、愛してるよ」
「はい。旦那様。私も愛しています」リネアは、震える声で言った。「《《一緒に、地獄に堕ちましょう》》」




