第37話 古書店『迷い猫』
ヘルグァから情報を得た翌日。
僕はビルギットと共に、王都の裏路地を歩いていた。
目的地は、第七区画にある『迷い猫』という名の古書店だ。
なぜシリヤでもなくリネアでもなくビルギットなのかというと……。
端的に言うと、ビルギットが拗ねていたからだ。
「最近、私はアーリング殿のお役に、何も立てていない……」と落ち込んでいたのだ。
いや、王都親善剣術大会は、ビルギットが僕の甘えた部分を指摘してくれたから勝てたようなものなんだけどなぁ……。
どうも、この屈強な騎士様は自己評価が低いらしい。
まあ、最近、一緒にいる時間が減っていたから、たまには良いか、ということでビルギットと一緒だった。
やがて、僕たちはヘルグァから教えられた住所へとたどり着いた。
だが。
「……おかしいな。ここのはずなんだが」
そこにあったのは、古びたレンガの壁だけ。
古書店どころか、店の入り口らしきものすら、どこにも見当たらない。
「魔法による隠蔽工作、か」ビルギットが腕を組む。「あるいは、ヘルグァ殿が我々を欺いたか……」
「いや、彼女の魂に嘘はなかった」と僕は断言する。「だとすると、やはり魔法的な要因だろう。困ったな、これでは手の出しようが……」
「うぅ……私ではなくシリヤ殿を連れていればこんなことには! 責任を取って切腹いたす!」
「やめてくれ」本当に。
ビルギットが剣の柄に手をかけようとした、まさにその時だった。
にゃあ、と。
どこからか、可愛らしい鳴き声が聞こえた。
声のした方へ視線を向けると、一匹の黒猫が、僕たちの足元で優雅に毛づくろいをしていた。
艶やかな漆黒の毛並み。
吸い込まれそうなほど、美しい翠色の瞳。
その、あまりにも完璧な造形美に、僕も一瞬、心を奪われかけた。
だが、僕以上に、心を鷲掴みにされてしまった人物がいた。
「……ぁ……」
隣のビルギットから、声にならない声が漏れる。
さっきまでの、切腹寸前の悲壮な覚悟はどこへやら。
その瞳は、とろり、と蕩けそうなほどに緩みきっていた。
「か……か、かわ……かわいい……っ!」
どもりながら、彼女はゆっくりとその場にしゃがみ込む。
そして、普段からは想像もつかないような、甘えを含んだ声で、黒猫に語りかけ始めた。
「こ、こんにちは、猫さん……。なんて、綺麗な毛並みなんだ……。少しだけ、触らせては、もらえないだろうか……?」
黒猫は、そんな彼女の様子を意にも介さず、ふい、とそっぽを向くと、しなやかな足取りで路地の奥へと歩き出す。
「ああっ! 待ってくれ、猫さん! そんなに急がないでくれ……!」
ビルギットは、威厳も、任務も、何もかもを忘れ、デレデレの状態で黒猫の後を追っていく。
……すごい。
あの鉄壁の女騎士ビルギットに、こんな弱点があったとは。
黒猫は、行き止まりのレンガの壁の前で、ぴたり、と足を止めた。
そして、僕たちの方を振り返り、もう一度、「にゃあ」と鳴いた。
次の瞬間、ただのレンガの壁だった場所の空気が、陽炎のように揺らめいた。
そして、猫は、優雅にレンガのなかへと消えていった。
「……え?」
ビルギットが、素っ頓狂な声を上げる。
僕も、目の前の現象が信じられず、恐る恐るその壁に手を伸ばしてみた。
すると、硬いはずのレンガに、水面に手を入れるかのように、何の抵抗もなく、すうっと腕が吸い込まれた。
「……どうやら、ここが入り口で間違いないようだ」
僕たちは顔を見合わせ、意を決して、その見えない扉の奥へと足を踏み入れた。
◇◇◇
壁を抜けた先は、インクと古い紙の匂いが混じり合った、独特の香りに満ちた空間だった。
壁一面を埋め尽くす、天井まで届きそうな本棚。
差し込む光が、空気中の埃をきらきらと照らし出す。
まるで時間が止まっているかのような、神秘的な場所だった。
店の奥、読書用の安楽椅子の上で、先ほどの黒猫が、体を巻いて眠っている。
「……すみません。ごめんください」
僕が声をかけると、黒猫の耳が、ぴくりと動いた。
ゆっくりと、気だるそうに身体を起こす。
次の瞬間、僕は信じがたい光景を目の当たりにした。
黒猫の身体が、淡い光に包まれる。
その輪郭が、みるみるうちに人の形へと変わっていく。
艶やかな黒髪、眠たげな、しかし射るような翠色の瞳。
そして、どこか気だるげで、アンニュイな雰囲気をまとった、絶世の美女が、そこに座っていた。
「……何の用だい、騒がしい。せっかく、気持ちよく昼寝をしていたというのに」
その声は、見た目に反して、低く、落ち着いていて、どこか古風な響きを帯びていた。
「あなたが、この書店の店主さん、で、お間違いないでしょうか」と僕は尋ねた。
「いかにも。あたしが店主のグローアだ」
彼女は、僕たちを値踏みするように、じろり、と一瞥した。
その視線には鋭い光が宿っている。
「ヘルグァさんから、妹のアスラグさんを探してほしいと頼まれまして。妹さんとの連絡場所が、こことお聞きしました。何かご存じないかと」
僕がそう切り出した瞬間、グローアと名乗った彼女の纏う空気が、ぴり、と張り詰めた。
「……帰んな。アスラグなんて名前の女は知らん。知っていたとしても、もう手遅れだ。あたしはもう、面倒ごとはごめんなんだよ」
吐き捨てるような、冷たい言葉。
だが、僕の【神の瞳】は、その投げやりな態度の裏に隠された、彼女の魂の真実を捉え始めていた。
(違う……この人の心にあるのは、ただの無関心じゃない。もっと黒く、重い……『後悔』の念。そして、この人とアスラグさんの魂の間には、微かだが確かな魔力の道筋が見える……これは、まるで……)
「あなたは……アスラグさんに魔法を教えた、師匠ですね?」
「……なぜ、それを」
グローアの瞳が、初めて警戒の色を宿して僕を射抜く。
その鋭い視線を、僕は真っ直ぐに受け止めた。
「すみません、僕には見えてしまうんです。あなたがアスラグさんを深く想い、そして、彼女の今の状況に、師として責任を感じていることも」
僕の言葉に、グローアは一瞬、息を呑んだ。
彼女は、初めて安楽椅子から身を起こし、僕の前に立ちはだかる。
「……お前さん」
長い沈黙の後、グローアが、絞り出すように呟いた。
「一体、何者なんだい? 人の心に、土足でずかずかと踏み込んでくるような、その無遠慮な『目』は」
「ただの、しがない田舎の相談役ですよ。心の声が、少しだけ視えるだけのね」
僕がそう言って微笑むと、彼女はふん、と鼻を鳴らした。
だが、その表情は、先ほどよりもずっと人間味を帯びている。
「……まあ、いい。気に入ったよ。お主、なかなか良い『目』をしてるじゃないか」
一応、警戒を解くことはできたらしい。
「アスラグは、あたしのたった一人の弟子でね。……あたしが教えた魔法のせいで、親から捨てられた。一応、私の推薦でアカデミーには入れたけどね。その後、あの子はアカデミーで道を踏み外した。もう、取り返しなんかつかないのさ」
グローアは、自嘲するように、遠い目をして語った。
「一週間前ほどくらいから、連絡がつかないそうですが」
「……ああ」グローアは苦々しげに頷く。「師匠と弟子の間には、魔力に特別なつながりがあるんだ。一週間ほど前から、あの子の魔力が、異常なほど増大し、そして、まるで別の生き物のように変質してしまった。今はもう、その繋がりすら、あたしには感じられない」
グローアは深くため息をついた。
「だから言ったろう、もう手遅れだと。だが……」彼女はため息をつくと、懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。「あの子に届けていた手紙の宛先だ。何かの役に立つなら、持って行きな」
僕は、その紙を受け取った。
「……難しい話は終わった、ということでよろしいか?」
不意に、ビルギットが口を開いた。
ん? いきなりなんだ?
グローアが、怪訝な顔で彼女を見る。
すると、ビルギットは真剣な、あまりにも真剣な顔で、グローアに向き直った。
「最後に、一つだけ頼みがある」
「……何だい?」
「もう一度、猫の姿に戻ってはもらえないだろうか」
「はぁ!?」
グローアが素っ頓狂な声を上げる。
僕も、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
「……なんで?」とグローア。
当然の疑問だ。
「頼む! この通りだ!」
ビルギットは、その場で土下座まで始めた。
王国最強の騎士が、猫が見たいという、ただそれだけの理由で、地面に額をこすりつけている。
そのあまりの気迫と、純粋すぎる眼差しに、さすがの賢女も気圧されたらしい。
「……わ、わかった! わかったから、顔を上げな! 一回だけだからね!」
グローアが、やけくそ気味に叫ぶ。
次の瞬間、彼女の身体は再び淡い光に包まれ、元の美しい黒猫の姿へと戻った。
その瞬間を、ビルギットは見逃さなかった。
彼女は、まるで獲物を狙う獣のような速さで黒猫をひょいと抱き上げると、そのふわふわのお腹に、顔をうずめた。
「失礼……!」
スウウウウーーーーッ、ハアアアアァーーーーッ……!
至福の表情で、深く、深く、猫の香りを吸い込んでいる。
いわゆる『猫吸い』というやつだ。
「にゃあああああああッッ!!」
――ガリッ!
黒猫の、怒りの鉄槌ならぬ、怒りの爪が、ビルギットの顔面を容赦なく引き裂いた。
「ぐえっ!?」
短い悲鳴と共に、顔に三本線の見事な引っかき傷を作ったビルギットが、床に崩れ落ちる。
黒猫は「フシャーッ!」と威嚇すると、再び光に包まれ、元の美女の姿に戻った。
「この変態女……!」
顔を真っ赤にして怒るグローアと、顔から血を流しながらも「……本望だ」と恍惚の表情で呟くビルギット。
うーん、改めて、この女、やばすぎるな……。




