第36話 頑張ったね。辛かったよね。
コン、コン、と。
控えめなノックの音が、宿屋の部屋の扉を叩いた。
僕が「どうぞ」と声をかけると、そこに立っていたのは、やはりヘルグァだった。
僕は彼女を招き入れ、黙って向かいの席を勧める。
彼女は座らない。
立ったまま、僕をまっすぐに見つめてきた。
「昨日、あなたが私におっしゃった言葉……『いつでも、相談においで』とは、どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味ですよ」
僕は静かに答える。
「僕のギフト『神の瞳』は、人の心の声が、少しだけ視えるんです。あなたが、お母様の前で、本当の心を偽って必死に笑顔を作っていることも。そして、その心の奥で、ずっと泣き続けていることも、視えていました」
「……っ!」
「安心してください。僕は教団の人間ではありません。ただの、しがない辺境の相談役です。まあ、カウンセラのようなものだと考えてください。もし、あなたが抱えているものを、少しでも誰かに話したいと思うなら……僕は、いつでも聞く準備ができています。ただ、それだけのことです」
彼女の魂を覆っていた警戒心の壁に、ようやく小さな亀裂が入った。
その瞳から、緊張の糸が、ふっと緩む。
彼女は、僕の前の椅子へと腰を下ろした。
「……実は、あなたの噂は聞いたことがあります」ヘルグァは言葉をつづけた。「辺境の村で、人の悩みを解決する、不思議な力を持つ方がいる、と」
彼女はそこで一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「私が相談したいのは、妹のことです」
◇◇◇
「えっと、妹と連絡が取れなくて……。いや、どこから説明すればいいのか……」
どうやら混乱してしまっているらしい。
「うん、思いついた順でいいよ。僕が頭のなかで整理するから」
「……わかりました」
ヘルグァは真剣な口調で話をはじめた。
「先にアスラグの説明をしますね。私の妹、アスラグは……誰よりも聡明で、優しい子なのです。でも、聡明で、優しすぎた。だから、『真理の目撃者』として活動する母を見ていられなかったのでしょうね。度重なる口論の末、アスラグは家を出て、王都のアカデミーへと進学しました」
その口調から、ヘルグァがアスラグのことを大切に思っているのだ、ということが伝わってきた。
「アスラグが家を出たあとも、私だけは、ずっとあの子の味方でした。母に隠れて、ずっと連絡を取り合っていたのです。それが、あの子にとっても、私にとっても、唯一の心の支えでした。でも……」
彼女の声が、不安に震える。
「一週間ほど前から、その連絡が、完全に途絶えてしまったのです。何か、あの子の身に、良からぬことが起きたのではないかと……心配で、たまらないのです」
なるほど……。
いくつかパターンが考えられる。
アスラグ本人が連絡を絶っているか。
あるいは、なにか原因があって、連絡を取ることができていないか。
僕の脳裏には、交易町スキップダールでの合成獣の件が浮かんでいた。
あの合成獣を生み出したのは、アスラグだと思われる。
連絡の途絶がアスラグの意志なのか否か。
どちらにせよ、アスラグの所在をさらに探る必要がある。
「それで、アスラグさんとは、普段どうやって連絡を?」
僕が具体的な手段を尋ねると、ヘルグァは、はっとしたように顔を上げた。
「ええ……。王都の第七区画にある『迷い猫』という古書店。あそこが、私たちの秘密の連絡場所でした。私が手紙を預けると、店の主人が、特別なルートでアスラグの元へと届けてくれるのです」
「なるほど……。では、その手紙の届け先の住所はわかりますか?」
「はい。たぶん、アスラグが住んでいる場所ではなく、そこで受け取っている、という場所なら……」
そして、ヘルグァは言った。
「届け先は、北の果て……グレンフェル公爵家の領地にある、『リムグレーペ 』と呼ばれる地域だと聞いています」
(……なんだって?)
僕の思考が、一瞬、凍りついた。
グレンフェル公爵家の領地。
遠い昔に先祖が戦争に勝利した功績で得た土地だ。
父に話を聞いてみるか?
うーん……。
「わかりました。その情報を元に、僕の方で調査を進めます」
「本当ですか?」
「ええ、お約束します」
ヘルグァの強張っていた表情が、ようやく和らいだ。
その瞳に、安堵の色が浮かぶ。
「さて、妹さんのことは、ひとまず僕に任せてください」
僕は、彼女の瞳をまっすぐに見つめ、カウンセラーとしての本題を切り出した。
「それよりも、ヘルグァさん。僕は、あなたのことも、同じくらい心配です」
◇◇◇
「私の……こと……?」
「ええ。あなたは、ずっと一人で、あまりにも多くのものを背負いすぎているようです」
僕のその言葉は、彼女の心の、一番柔らかい場所に届いたようだった。
「あなたは、自分の心を押し殺したまま、いつまで演技をつづけるのですか?」
ヘルグァは押し黙った。
十秒、二十秒と時間がすぎていく。
やがて、彼女は僕の瞳を見た。
「……いつまでも」ヘルグァは小さくつぶやいた。「もう、遅いんです。……ねえ、アーリング様。私にも、昔、好きな人がいたんですよ。アスラグみたいに、アカデミーで勉強もしてみたかった。でも、できなかった」
彼女の瞳が、遠い過去を見つめる。
「母の教えでは、『世の人』……つまり、信者以外の人と親しく交わることは、魂を穢す、重い罪なのです。許されるのは、彼らを教えに導くための、布教の時だけ。……だから、好きな人ができても、遠くから見つめることしかできなかった。彼が信者でないのなら、言葉を交わすことすら、許されないから」
その声は、淡々としていた。
感情を殺すことが、あまりにも日常になりすぎてしまったのだろう。
「妹は、その鎖を断ち切って飛び出していった。でも、私にはできなかった。母を見捨てるなんて、私には……」
全てを諦め、心を殺し、ただ優しい娘を演じつづけてきた。
これまでも。
そして、これからも。
「頑張ったね」僕は言った。「辛かったよね」
僕の言葉に、ヘルグァは、はっと息を呑んだ。
そして、その場に崩れて泣き始めた。
子供のように、声を上げて。
いままでこらえてきた涙を、過去を、すべて吐き出すかのように。
僕は、ただ静かに、彼女の背中をさすり続けていた。
彼女の心が、少しでも軽くなるようにと、祈りながら。




