第35話 真理の目撃者
「旦那様、朝食の準備が整いました」
僕が目を覚ますと、そこにはいつも通りのリネアがいた。
寸分の乱れもないメイド服。
完璧な所作。
そして、感情の欠片も読み取れない、美しい無表情。
昨夜、僕の誘いに動揺し、バスルームに立てこもった彼女の姿は、まるで幻だったかのように、そこにはなかった。
(……プロフェッショナルすぎるだろ、こいつ)
完全に、何もなかったことにされている。
その完璧なスルーっぷりが、逆に僕の心を掻き乱した。
また、あの慌てたリネアが見てみたいなぁ……。
さて、それでは朝食へ……と思ったときだ。
部屋に入ってきたのはシリヤだった。
「調査に進展がありまして、ご報告に参りました」
シリヤは、ぺこりと頭を下げる。
「例の魔術師、アスラグについてですが……。王立アカデミーの過去の在籍者データベースに、ぎりぎり合法と言えなくもない手順でアクセスし、彼女の身元を洗い出すことに成功しました」
……ぎりぎり合法と言えなくもない手順って、違法だろ。
シリヤは自信に満ちた笑みを浮かべ、一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。
「彼女の家族は、王都の外れにある第七区画に在住。母親の名はマリット。姉は、ヘルグァ。二人とも、例の新興宗教『真理の目撃者』の熱心な信者であることも、関連データから確定しています」
さすが見事な情報収集能力だ。
「ありがとう、シリヤ。助かるよ」とはいえ……。「どうやって接触するのがいいかな。いきなり押しかけるわけにもいかないだろうし」
「その点はご心配には及びません」とシリヤ。「彼らは布教活動に熱心です。こちらから『教えに興味がある』と伝えれば、喜んで扉を開いてくれます。私が『心を病み、救いを求める旅の一行』という設定で、事前に手紙を送っておきました。本日、いつでも訪問してほしい、と先ほど返信があったところです」
「……仕事が早すぎる」
「はい! 撫でてもいいですよ!」
そう言って、シリヤは頭を差し出した。
……一応、撫でておいた。
最近のシリヤ、犬っぽいなぁ……。
◇◇◇
そして約束の時間。
僕は、ひとりで指定された第七区画の家へと向かった。
一応、リネアはこっそりと隠れてついてきてくれている。
アスラグの家族が住む家は、王都の外れにある、ごくありふれた石造りの一軒家だ。
扉をノックすると、中から「どうぞ、お入りください」という、穏やかな女性の声がした。
扉を開けた瞬間、僕たちは言いようのない違和感に包まれた。
家の中は、質素だが、どこか整然としすぎていた。
生活感というものが、綺麗に削ぎ落とされた、不気味なほどの清潔感。
「まあ、ようこそおいでくださいました。『教え』に興味をお持ちの、アーリング様ですね」
出迎えてくれたのは、アスラグの母、マリットだった。
柔和な笑みを浮かべている。
「ええ。ぜひ、教えについてお聞かせ願えればと」
僕がそう言って微笑むと、彼女は「どうぞ、こちらへ」と、僕たちを居間へと招き入れた。
部屋の奥から、もう一人、女性が姿を現す。
マリットとよく似た、整った顔立ちだ。
姉のヘルグァだろう。
「ようこそ。唯一神『テヴォラ』の教えは、必ずや、あなた様の魂を救済へと導くでしょう」
姉妹のように若々しい母と、その隣に立つ美しい姉。
二人は、淀みない口調で、教団の教えを説き始めた。
その声は穏やかで、親切で、どこまでも耳に心地よい。
だが、僕の【神の瞳】は、その穏やかな言葉の裏に隠された、魂の歪みを、正確に捉えていた。
(……なんだ、これは)
彼女たちの魂は、一見、穏やかに輝いている。
だが、その表面は、まるで分厚いガラスのような、透明な『壁』で覆われていた。
僕が彼女たちの心の深奥を視ようとすると、その意識が壁に阻まれ、滑るように逸らされてしまう。
これは、ただの信仰心ではない。
僕の【神の瞳】による診断すら拒絶する、極めて高度な『魔術的防御壁』。
都合の悪い情報を弾き返し、教団の教えだけを反響させる、精神の牢獄。
この壁がある限り、どんな説得も、どんな言葉も、彼女たちの心には届かない。
僕は、さらに深く、その壁の奥を視ようと試みた。
そして、気づいてしまった。
二人の魂の、決定的な違いに。
母マリットの魂は、もはや手遅れだった。
彼女の魂そのものが、教団の教えという名の呪いと完全に癒着し、どす黒く変質してしまっている。
もはや、どこからが彼女自身の魂で、どこからが呪いなのか、その境界線すら曖昧だ。
救いようがない。
だが。
姉のヘルグァは、違った。
彼女の魂を覆う壁には、微細な『綻び』があった。
その亀裂の奥から、僕には視えた。
母と同じように穏やかな笑顔を浮かべながらも、その魂の奥底で、一人、静かに涙を流している、彼女の本当の姿が。
心の奥底で渦巻く、『迷い』と『苦しみ』。
妹を案じる心と、教団への信仰。
その矛盾に引き裂かれ、彼女の魂は、か細い悲鳴を上げ続けていた。
――まだ、救えるかもしれない。
◇◇◇
一通り教えを聞き終えた後、僕は本題を切り出すことにした。
「そういえば、お噂で伺ったのですが……。このお宅には、アスラグさんという、大変才能豊かな魔術師の娘さんがいらっしゃると。彼女ほどの聡明な方であれば、きっと、誰よりも早く真理に到達されたのでしょうね」
僕が探りを入れた、その瞬間。
「いえ。あの子は……教えを拒絶しました。心の弱い子だったのです。ですから、もう、私の子ではありません」
ぞくり、と。
悪寒が走った。
娘の存在を、まるでなかったかのように語ったのだ。
「ええ。姉は……もう……」
隣で、ヘルグァが力なく同意する。
だが、その魂は、悲痛な叫びを上げていた。
母の残酷な言葉が引き金となり、彼女の魂を覆う壁の『綻び』が、音を立てて広がっていくのが視える。
「そうですか……。それは、残念でしたね。では、また日を改めて」
僕は、当たり障りのない言葉で、その場を締めくくった。
マリットとヘルグァが、同じタイミングで、同じ角度で、完璧な笑みを浮かべて僕たちを見送る。
その姿は、どこまでも美しく、そして、どこまでも不気味だった。
僕は、その狂信の家を後にする。
玄関で扉に手をかけた、そのときだった。
「ああ、そうだ」
僕は懐から小さな紙片とペンを取り出した。
そして、その場で宿屋の名前と部屋番号を書いて、ヘルグァに差し出した。
「本日の教え、大変興味深く拝聴しました。もしよろしければ、より詳しい資料などを、こちらの宿までお持ちいただけないでしょうか? もちろん、ご都合の良い時で構いませんので」
教えに興味を持った者が、さらに資料を求める。
布教する彼女たちにとって、これ以上なく自然な申し出のはずだ。
僕はメモを受け取ろうとするヘルグァの瞳をまっすぐに見つめた。
そして、声のトーンをわずかに落として付け加えた。
「――いつでも、相談においで」
ヘルグァの肩が、ほんのわずかに、びくりと震えた。
あとは、彼女が自らの意志で、その扉を開けるのを待つだけだ。
◇◇◇
宿屋に戻り、シリヤに状況を報告すると、少し心配そうな顔で尋ねてきた。
「アーリングさん、今回の作戦、見事でした。ですが、一つだけ疑問が。もし、ヘルグァさんが来てくださらなかった場合……その後のプランは、どうお考えでしたか? 彼女の意志という不確定要素に依存するのは、些かリスクが高いように思えますが」
シリヤらしい、論理的で、的確な質問だ。
「もちろん、別のプランも考えてあるよ。プランCくらいまではね」
シリヤは、きょとんとした顔をした。
「一番大切なのは、彼女自身の意志で、自分の足でここに来ることなんだ。僕が無理やり連れ出しても、本当の意味で彼女を救うことにはならない。だから、僕は信じて待つ。彼女が勇気を出すその瞬間をね。もし来なければ、それは『まだその時ではない』というだけのこと。その時は、また別の方法で、彼女が助けを求めやすくなるきっかけを作るだけさ。失敗しても大丈夫なように、いろいろ計画は練ってある。大丈夫だよ」
それを聞いたシリヤの瞳が、きらきらと輝き始めた。
「相手の意志を最大限に尊重し、なおかつ、複数のプランでそれをバックアップする。なんて、合理的な戦略。素敵です! 撫で撫でしてあげます!」
シリヤは、頑張ってつま先立ちをして僕の頭に触れようとしてくるが、身長が足りていない。
うーん。
自分が撫でられて嬉しいから、撫でてあげたいってことだろうな。
可愛いなぁ。
僕が少し頭を下げると、シリヤは満足そうに僕の頭を撫でていた。
◇◇◇
そして、翌日の昼。
コン、コン、と。
控えめなノックの音が、部屋の扉を叩いた。
僕が「どうぞ」と声をかけると、そこに立っていたのはヘルグァだった。
作戦成功だ。




