第34話 旦那様の、ばか……
その夜、僕たちは酒場の一角を貸し切り、ささやかな祝勝会を開いていた。
「アーリング様、お見事でした! 乾杯!」とヴィルデ。
「うむ。主君の武勇に、改めて乾杯」とビルギット。
「剣は嫌いですが、おめでとうございます」とシリヤ。
「旦那様、お疲れ様でした。お好きなだけ、どうぞ」とリネア。
ヴィルデ、ビルギット、シリヤ、そしてリネア。
僕の愛すべき仲間たちが、それぞれの言葉で僕の勝利を祝ってくれる。
その温かい雰囲気が、心地よかった。
「ありがとう、みんな。君たちがいてくれたから、僕は迷わずに戦えたんだ」
僕は心からの感謝を伝えた。
本当に、良い仲間たちに恵まれたものだと思う。
そんな和やかな祝宴の最中、ビョルンが、少しだけ心配そうな顔で僕の元へやってきた。
「アーリング。スヴェレのことだが……試合の後、誰とも口を利かず、自室に閉じこもっておられるそうだ。食事も喉を通らないご様子でな。……お前が、少し顔を出してみてはどうだ?」
その提案に、僕は静かに首を横に振った。
「いえ、師匠。今は、そっとしておいてあげようと思います」
「……そうか。お前がそう言うのなら、儂はもう何も言うまい。あの子も、乗り越えねばならん壁なのだろう」
ビョルンはそこで踵を返しかけたが、ふと思い出したように僕に向き直った。
その顔に、ほんの少しだけ誇らしげな笑みを浮かべた。
「それにしても、今日の試合、見事だったぞ。ようやく、お前の本当の剣が見られた気がする。よくやったな」
その無骨な、しかし心のこもった労いの言葉。
僕は「ありがとうございます」と頭を下げた。
師匠は満足げに一度頷くと、今度こそ去っていった。
だが、僕たちの平穏な祝宴を乱す、招かれざる客がいた。
酒場の喧騒を切り裂くように、一人の女性が僕たちのテーブルへと近づいてくる。
「……アーリング……様……」
か細い、震える声。
僕の元婚約者、テアだった。
◇◇◇
テアの登場に、祝賀ムードに満ちていたテーブルの空気が、一瞬で凍りついた。
テアは、僕の前に進み出ると、その場に崩れるように膝をついた。
その瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちている。
「アーリング様……! おめでとう、ございます……! あなたの、本当の、お力を……私、初めて知りました……!」
嗚咽混じりに、彼女は言葉を続ける。
「私……私は、なんて愚かだったのでしょう……! あなたの本当の価値に気づかず、出来損ないなどと……! どうか、どうかこの愚かな私を、お許しください!」
彼女は、何度も、何度も頭を下げる。
その姿は、哀れとしか言いようがなかった。
僕は、静かに【神の瞳】を発動させる。
彼女の魂は、後悔と、嫉妬と……。
そして何よりも、失ったものを取り返そうとする、醜い『打算』の黒い染みで、ぐちゃぐちゃに汚れていた。
(ああ、なるほど。僕がスヴェレに勝ったことで、僕の『商品価値』が、再びスヴェレを上回った、というわけか)
彼女は、僕という人間に謝罪しているのではない。
僕の持つ『グレンフェル公爵家の嫡男』というブランドと、その将来性に、今更ながら媚びを売っているだけだ。
その見え透いた魂胆が、僕には手に取るように視えた。
「お願いです、アーリング様……! もう一度、私にチャンスを……! もう一度、あなたの隣を歩く栄誉を、お与えください! 今度こそ、私、あなたにふさわしい女になってみせますから……!」
涙ながらの、必死の告白。
だが、僕の心は、微塵も揺れなかった。
怒りも、憎しみも、憐れみすら、もはや湧いてこない。
「……顔を上げて、テア嬢」
僕は、静かに告げた。
その声は、自分でも驚くほど、冷徹で、そして穏やかだった。
「君のその涙は、本物かい? 僕には、君が自分の犯した選択のミスを嘆いているだけにしか見えないけれど」
「そ、そんなことは……!」
「君は、僕を捨てたことを後悔しているんじゃない。僕という『優良物件』を逃した、自分の判断ミスを後悔しているだけだ。違うかい?」
テアの言葉が詰まる。
僕は、そんな彼女に、最後の『診断』を告げる。
「君の心は、病気ですらない。……ただ、『空っぽ』なだけなんだ」
「……え……?」
「君の心には、自分というものがない。誰かの評価、世間の評判、そういう他人のものさしでしか、自分の価値を測れない。だから、僕が出来損ないだと噂されれば僕を捨て、弟が天才だと持て囃されれば弟に乗り換える。そして、僕が勝てば、また何の躊躇もなく僕の元へ戻ってくる。君の行動原理は、いつだってそれだけだ」
僕は、ゆっくりと言葉をつづけた。
決して、傷つけたいわけではない。
「君に必要なのは、僕の隣に立つことじゃない。まず、君自身の足で立つことだ。誰にも寄りかからず、自分自身の価値を、自分の中に見出すことだ。……それができない限り、君の心は、永遠に満たされることはない」
テアは、呆然と僕の顔を見上げていた。
その瞳から、涙はもう消えていた。
「もし、君が本気で自分を変えたいと願うなら……その時は、また僕の診療所を訪ねておいで」
僕は、ほんの少しだけ、寂しそうに微笑んでみせた。
「――『患者』としてなら、いつでも君を歓迎するよ」
彼女は、小さくうなずいた。
涙を拭い、ゆっくりと立ち上がり、去っていく。
その背中を、僕は静かに見送った。
◇◇◇
祝勝会は終わった。
僕は宿屋の自室で、窓の外に広がる夜景を眺めていた。
「旦那様。お休みになる前に、一つご報告が」とリネア。
彼女は手に紙の資料を持っていた。
ぺらり、と表紙を見せてくれた。そこには『魔術師アスラグに関する調査報告書』と書かれている。
「残念ながら、アスラグ本人の現在の正確な所在は、依然として不明です。王都のいかなる記録にも、彼女の痕跡は見当たりませんでした」
「そうか……。まあ、天才魔術師が、そう簡単には尻尾を掴ませないか」
「ですが、一つ、興味深い情報が」
リネアは淡々と続ける。
「彼女の家族構成が判明しました。王都の外れに住む、母親と、一つ年上の姉がいるようです」
「母親と、姉……」
何か、突破口になるかもしれない。
僕がそう思ったときだった。
「その母親と姉は、ある『新興宗教』の、極めて熱心な信者である、とのことです」
「新興宗教……?」
「はい。その名は、『真理の目撃者』。唯一神『テヴォラ』を崇め、王国の定める法や秩序よりも、神の教えを絶対とする団体です」
テヴォラ。
真理の目撃者。
その単語の響きに、僕は嫌な予感を覚えた。
「彼らは、終末の日に約束された『楽園』への扉は、信じる者にしか開かれないと説き、独自の聖典を手に、家々を回って信者を増やしているとのこと。王国聖教会からは、危険な異端としてマークされていますが……」
「……待ってくれ、リネア。その手口……どこかで」
脳裏に、ヴィルデの幼馴染、エッダの虚ろな目が蘇る。
あの『心の光――友愛組合』だ。
「少々ややこしいのですが、『心の光――友愛組合』は『真理の目撃者』の分派のようです。より世俗的というか、資金稼ぎを目的としたグループです」
「そっち方面から探っていく必要がありそうだね」
◇◇◇
重い話が一段落し、部屋に静寂が戻った頃。
「旦那様。そろそろ、ご就寝の時間でございます」
彼女に促されるまま、僕は部屋を見渡し――そして、気づく。
「……いつの間にかベッドがひとつになっているんだが」
昨日までは複数あったベッドがひとつになっていた。
僕がそう言うと、リネアの口元が、ほんのわずかに、本当に気づくか気づかないかというレベルで、勝ち誇ったように緩んだのを、僕は見逃さなかった。
(……こいつ、わざとだな。どうせ、また僕が狼狽するところを見たいんだろう)
いつもなら、ここで「僕は床で寝る」とか「椅子で十分だ」とか言って、うまいこと逃げていたが……。
今日の僕は、一味違う。
(よし……逆にあえて、誘ってみるか)
僕は覚悟を決めると、ベッドに腰掛け、隣のスペースを、ぽん、と軽く叩いてみせた。
「そうだな。……じゃあ、リネア。おいで」
できる限り、優しく、そして、有無を言わさぬ主人の響きを込めて。
その、一言。
僕の人生で、初めてリネアに向けた、明確な『誘い』。
「へ……?」
彼女の白い肌が、首筋から、耳まで、一瞬で林檎のように真っ赤に染まっていく。
「あ……あ……あの、旦那様、そ、それは、その……ご、ご命令、と、いう、ことで……?」
どもりながら、かろうじてそう尋ねる彼女に、僕は追い打ちをかけるように、にっこりと微笑んだ。
「ああ。おいで」
リネアは、くるりと僕に背を向け、猛烈な勢いでバスルームへと駆け込んだ。
そして、ガチャリ、と。
内側から、鍵をかける音が、はっきりと響き渡った。
「…………」
静まり返った部屋に、一人。
(あれ……? からかうだけのつもりが、なんか、ガチで怖がらせてしまった……?)
さすがに、少しやりすぎたかと反省し、僕はバスルームの扉を、そっとノックした。
「あー……リネア? その、悪かった、悪かったから! 冗談だって! だから、出てきてくれないか?」
返事はない。
ただ、扉の向こうから、くぐもった声で「旦那様の、ばか……」と、聞こえた。




