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第33話 もともとベタ惚れですから


 かん、と。

 高く澄んだ音が、割れんばかりの歓声に満ちた闘技場に響き渡った。

 試合開始を告げる、無慈悲な鐘の音。


 地鳴りのような歓声は、そのすべてが僕の弟、スヴェレ・F・グレンフェルに向けられていた。


「スヴェレ様ー!」

「グレンフェル家の誇りを見せてやれ!」


 対する僕に送られるのは、嘲笑と侮蔑の野次ばかり。


 だが、不思議と心は凪いでいた。


 そんな雑音など、もはや僕の世界には存在しないかのようだ。


 目の前で、スヴェレが吼えた。


「うおおおおおおっ!」


 それは、自らを鼓舞するための、そして、僕を威嚇するための虚勢に満ちた雄叫び。


 僕の【神の瞳】は、彼の昂りの奥にある、冷たい恐怖の染みを、正確に視ていた。


(可哀想に。お前は、僕とではなく、お前自身の『弱さ』と戦っているんだな)


 彼は、父に認められるために、僕という「出来損ないの兄」を、大観衆の前で叩き潰さなければならない。

 その強迫観念が、彼を突き動かす唯一の燃料だった。


 僕は、ただ静かに、木剣を正眼に構える。


 その切っ先を弟に向けた時、心の奥底で、ちくりと小さな痛みが走った。

 幼い弟の姿が、一瞬だけ幻のように揺らめいた。


(大丈夫。もう、迷わない)


 昨夜、ビルギットと交わした誓いが、僕の背中を押してくれていた。

 僕には、守らなくてはならないものがあるから。


 ドンッ!

 スヴェレが、闘技場の土を蹴った。

 一直線に、猛然と、僕へと襲いかかってくる。

 その踏み込みの鋭さ、切っ先の速さ。

 それは、紛れもなく、王国でも屈指と謳われる天才の剣技だった。


◇◇◇


 僕たちの距離が、一瞬でゼロになる。

 ヒュッ、と。

 スヴェレが放った初太刀が、風を切り裂き、僕の眉間へと迫る。

 観客席から、悲鳴にも似た歓声が上がった。


 だが、届かない。


 僕は、ほとんど動かない。

 ただ、半歩だけ、右に身体をずらしただけ。

 彼の渾身の一撃は、僕の頬を掠めることすらできず、空しく空を切った。


「なっ……!?」


 スヴェレの目が見開かれる。

 剣閃が走る。

 空気を裂く。

 だが、届かない。


 僕は、彼の剣を受け止めない。

 ただ、最小限の体捌きと、僕の木剣の切っ先で、彼の剣の軌道をほんのわずかに逸らしてやるだけ。


 僕が一切の台詞を発しないことが、スヴェレのプライドをさらに深く傷つけたのだろう。


「ふざけるなあっ!」


 怒声と共に、彼の剣の速度がさらに増す。

 だが、怒りに支配された剣は、ただ大振りで、隙だらけの代物でしかなかった。

 その稚拙な動きの全てが、僕には手に取るように視える。


 最初はスヴェレに熱狂的な声援を送っていた観衆も、徐々に闘技場の異常な光景に気づき始めていた。


「おい、どうなっているんだ……?」

「スヴェレ様の攻撃が、一太刀も当たってない……」

「あの動き……。まるで、未来でも視えているかのようだ……」


 ふと、極限の集中状態にあった僕の視界の端で、一つの強烈な感情がノイズのように意識へと飛び込んできた。

 貴賓席で、顔を青ざめさせて立ち尽くす、元婚約者テアの姿。


 戦闘による昂揚が【神の瞳】の感度を異常なまでに高めていたらしい。

 彼女の魂が発する、声にならない絶叫が、直接僕の脳内に響いてくる。


『ありえない。あの出来損ないのはずのアーリングが、スヴェレ様の剣を、まるで子供扱いしているというの……!? 私の選択は、本当に、正しかったの?』


 僕の瞳には、彼女の魂を覆う『後悔』と『嫉妬』の黒い靄が、さらにその濃度を増していく様が、はっきりと視えていた。


 僕は、弟の猛攻をいなし続けながら、静かに、しかし確実に、一歩、また一歩と距離を詰めていく。

 その無言の圧力が、スヴェレの精神をじわじわと、しかし確実に追い詰めていった。


「はぁっ……はぁっ……!」


 彼の呼吸が、乱れる。

 額から流れる汗が、その美しい金髪を濡らしていた。


 もう、彼の心は限界だった。

 彼は気づいてしまったのだろう。

 自分が戦っている相手は、出来損ないの兄などではないのだと。


◇◇◇


「こ……のぉおおおおおっ!」


 スヴェレが、残された全ての力を振り絞り、起死回生を狙った最後の大技を放ってきた。

 木剣に魔力を込めた、渾身の一撃。

 その切っ先が、青白い光を帯びて僕の心臓へと突き進む。


 僕は、初めて、攻撃に転じた。


 だが、それは力と力の衝突ではない。

 彼の突進の力を、そっと受け流し、その勢いを、そのまま利用してやる。

 僕の木剣が、彼の剣の側面に、吸い付くように触れた。


 そして、ただ、手首を返す。

 ほんの、わずかな動き。

 それだけで、彼の剣に込められた全ての力は、行き場を失った。


 ――カキンッ!


 甲高い、澄んだ音が闘技場に響き渡った。


 スヴェレの木剣が、まるで意思を失ったかのように、くるくると宙を舞う。

 そして、闘技場の土に、深く突き刺さった。


 しん、と。

 あれほど熱狂していた闘技場が、水を打ったように静まり返る。

 勝負は、決した。


 武器を失ったスヴェレは、その場にがくりと膝をついた。


「……ぁ……あ……」


 呆然と、自分の空っぽになった手と、地面に突き刺さる愛剣を、信じられないといった表情で見つめている。


 僕は、そんな彼の前に、静かに歩み寄る。

 そして、ただ一言だけ、告げた。


「スヴェレ。お前はもう、十分に強い。だから、もう誰かと比べるのはやめろ」


 それは、セラピストとして。

 そして、たった一人の、兄として。

 僕が、彼に送ることのできる、唯一の処方箋だった。


◇◇◇


 静まり返っていた闘技場に、誰かの、ぽつりとした呟きが響いた。


「……すげぇ……」


 それが、号砲だった。

 次の瞬間、静寂は爆発的な大歓声によって打ち破られた。


「アーリング!」「アーリング!」「アーリング!」


 ついさっきまで僕に野次を飛ばしていたはずの観衆が、今度は手のひらを返し、僕の名を熱狂的に連呼している。


 闘技場から退くと、僕の愛すべき仲間たちが、それぞれの表情で駆け寄ってきた。


「アーリング様っ! か、かっこよかったです……! 私、感動で、涙が……!」


 ヴィルデが、瞳をうるませながら僕の腕に飛びついてくる。


「見事な剣だった、アーリング殿。あなたのその強さこそ、真の騎士が目指すべき境地だ。改めて、あなたに我が剣を捧げることを誇りに思う」


 ビルギットが、騎士の礼と共に、最大級の賛辞をくれる。


「……私は、剣のような前時代的な物理干渉による闘争解決手段には、本来、賛同しかねますが」


 シリヤが、腕を組んでそっぽを向きながら、いつものように理屈っぽいことを言い始める。


「ですが……その……。あ、アーリングさんの戦う姿は……ええ、その……非常に、合理的で、美しかった。……格好良かったです。さらに惚れちゃいました」


 シリヤは顔を真っ赤にしていた。


 そして、リネアがすっと僕の前に進み出る。


「旦那様、お疲れ様でした。さすがでございます」


 いつもと変わらぬ完璧な無表情で、しかし、その瞳の奥に確かな誇りを宿して、彼女は僕にタオルを差し出した。


「……きみも惚れ直した?」と僕は冗談を言った。


「もともとベタ惚れですから」とリネアは無表情で答えた。

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