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第32話 守るべき『仲間』

 王都親善剣術大会を翌日に控えた夜。

 僕とビルギットは、宿の中庭で、月明かりを頼りに木剣を打ち合っていた。


「――はっ!」


 僕の鋭い踏み込みに合わせ、ビルギットが的確に剣を受け流す。

 カキン、と乾いた音が、静かな夜の空気に響いた。


 彼女の剣筋に迷いはない。

 トラウマを克服した彼女の動きは、しなやかで、力強く、そして美しい。


(……それに比べて、僕は)


「――アーリング殿」


 打ち合いの最中、ビルギットが、ふと動きを止めた。

 その真剣な眼差しが、僕の心の奥底を見透かすように、まっすぐに注がれる。


「あなたの剣には、迷いがある。……なぜ、最後の一歩を踏み込まない?」


「そんなことはないさ。僕は、いつでも本気だよ」


 僕がそう言って笑ってみせると、彼女は悲しげに首を横に振った。


「嘘だ。その身体の動き、剣の速さ、太刀筋の鋭さ……その全てが一流のそれだ。だが、肝心の『斬り伏せる』という意志が、切っ先に乗っていない。まるで、相手を傷つけることを、身体のどこかで恐れているかのように」


 図星だった。


「……わかるのかい?」


「ああ。わかる」


 ビルギットは、自らの胸にそっと手を当てた。


「私も、そうだったから。心が恐怖を覚えていれば、どれだけ身体を鍛え上げようと、剣はただの鉄の棒に成り下がる。……あなたを縛る『恐怖』の正体は、何だ?」


 その問いに、僕はもう、抗うことができなかった。


 脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。


◇◇◇


 あれは、僕がまだ十歳にも満たない頃だった。

 父の目の前で、僕は弟のスヴェレと試合形式の稽古をしていた。


 最初は、ただの打ち合いだった。

 だが、父の期待に満ちた視線を感じ、僕はほんの一瞬だけ、本気を出してしまったのだ。


 僕の剣は、スヴェレの小さな身体を、容赦なく道場の床へと叩きつけた。


 勝敗は、一瞬で決した。


 僕が差し伸べた手を、スヴェレは払い除けた。

 そして、僕を睨みつけたのだ。

 恐怖と、屈辱と、深い絶望の色を浮かべた瞳で。


 彼は、隠れて泣いていた。


 その日を境に、僕たちの関係は、決定的に変わってしまった。


 僕は、二度と、弟を本気で傷つけることはできなかった。


◇◇◇


「……そうか。それが、あなたの『優しさのトラウマ』か」


 僕の告白を、ビルギットは静かに聞いていた。


 そして、彼女は僕に問いかけた。

 かつて、僕が彼女に問いかけたのと、まったく同じ言葉で。


「――あなたの守るべきものは、何だ?」


「……え?」


「弟君を傷つけたくない、というその優しさは、本当に、今のあなたを守ってくれるのか? その優しさは、あなたを信じ、付き従う、ヴィルデ殿や、シリヤ殿や……そして、私の信頼に、応えることになるのか?」


 彼女の言葉が、雷のように僕の胸を貫いた。


「あなたは、もう一人ではない。あなたには、守るべき『仲間』がいる。その仲間を守るために、あなたは強くあらねばならない。……あなたのその優しさは、時に、あなた自身を、そして、あなたの大切な者たちを傷つける、ただの『弱さ』になる」


 そうだ。


 いつまでも過去に囚われていてはいけない。


 僕には、新しい仲間ができたんだ。

 この手で守り抜くと誓った、かけがえのない仲間たちが。


 ふっと、肩の力が抜けていくのを感じた。

 長年、僕の心を縛り付けていた、見えない枷が、音を立てて砕け散っていく。


「……ありがとう、ビルギット。君は、最高の師匠だよ」


 僕がそう言って微笑むと、彼女は少し照れたように、しかし、誇らしげに胸を張った。


◇◇◇


 大会当日。


 闘技場は、割れんばかりの歓声と熱気に包まれていた。

 開会式が始まり、出場選手たちが次々と紹介されていく。


 やがて、僕の名前が呼ばれた。


「――続いては、辺境フィエルヘイムより参加! グレンフェル公爵家の子息、アーリング選手!」


 その紹介には、あからさまな侮蔑の色が滲んでいた。

 観客席から「あの出来損ないか」「なぜあんな男が」という囁きが聞こえてくる。


 だが、僕の心は凪いでいた。

 そんな雑音など、もはや僕の耳には届かない。


 僕が静かに一礼すると、次の選手が紹介された。


「そして、本日のエキシビションマッチを飾る、グレンフェル公爵家が誇る若き天才! スヴェレ・F・グレンフェル選手!」


 輝くような金髪をなびかせ、自信に満ちた笑みを浮かべて登場する弟、スヴェレ。

 その隣には、見せつけるように腕を組む、元婚約者のテアの姿があった。


(……なるほど。僕を捨てて、今度は弟に乗り換えた、というわけか。わかりやすい構図だ)


 開会式が終わり、選手たちが控室へと戻る通路。


 案の定、二人は僕の前に立ちはだかった。


「兄上。僕の招待に応じて、わざわざ辺境から引き立て役としてお越しいただき、感謝しますよ」


 スヴェレの口調は嘲りに満ちていた。

 彼が僕を招待したのは、僕を大観衆の前で打ち負かし、自らの優位性を誇示するため。

 その悪意が、言葉の端々から滲み出ている。


「まあ、辺境で訳ありの女たちを侍らせて、少しは腕が上がったのかしら? 噂は聞いていてよ」


 テアが、扇子で口元を隠しながら、探るような視線を僕に向ける。


「でも、勘違いしないでちょうだい。今日の主役は、あなたではなく、このスヴェレ様。あなたのような出来損ないは、せいぜい舞台の隅で、私たちの引き立て役でもしているのがお似合いよ」


(……やれやれ。相変わらずだな、君たちは)


 僕は、静かに【神の瞳】を発動させる。

 傲慢な態度の裏に隠された、彼らの本当の姿が、僕の目にははっきりと視えていた。


 スヴェレの心には、僕に対する強烈な『劣等感』と、父に認められたいという『渇望』が、黒い渦を巻いている。

 そして、テアの心は、もっと複雑だった。

 辺境で僕が次々と功績を上げ、ビルギットやシリヤのような、美しく、そして才能ある女性たちに囲まれているという噂。

 その全てが、彼女の心にどす黒い『嫉妬』と『焦り』の染みを作り出していた。


 僕を捨てた選択が間違いだったのかもしれないという『後悔』。

 その不安を打ち消すように、スヴェレこそが最高の男だと自分に言い聞かせる、必死の『虚勢』。


 彼女の魂は、いくつもの負の感情が混ざり合った、醜いマーブル模様を描いていた。


(……彼らもまた、救われるべき『患者』なのかもしれないな)


 その瞬間、僕の中で、彼らはもはや「敵」ですらなくなった。


「久しぶりだね、スヴェレ、テア嬢。君たちも元気そうで何よりだ」


 僕は、穏やかな笑みを浮かべて言った。


「なっ……!」


 僕の予想外の反応に、二人は一瞬、言葉を失う。

 もっと僕が狼狽したり、怒ったりすると思っていたのだろう。


「せっかくの祭りだ。僕も楽しませてもらうよ」


 僕がそう言って、彼らの横を通り過ぎようとした、その時だった。


「……ふざけるなよ」


 スヴェレが、吐き捨てるように言った。


「いいだろう、兄上。その余裕が、いつまで続くか……。試合で、その化けの皮を剥いでやる。大観衆の前で、お前がただの出来損ないであることを、もう一度、その身体に刻み込んでやるからな!」


 その宣戦布告に、僕はただ、静かに振り返って微笑んだ。


「ああ。楽しみにしているよ」


◇◇◇


 エキシビションマッチを控えた、闘技場の舞台裏。

 僕が一人で精神統一をしていると、数人の騎士たちが、わざとらしく僕の前に立ちはだかった。

 スヴェレの取り巻き連中だ。


「よう、グレンフェル家の出来損ない。弟の顔に泥を塗る前に、さっさと棄権したらどうだ?」


 下卑た笑みを浮かべ、チンピラ騎士の一人が僕の肩を突いてくる。

 少し離れた場所から、スヴェレとテアが、勝ち誇った顔でこちらを眺めているのが見えた。


 だが、僕の心は、凪いだ湖面のように静かだった。

 心の枷は、もうない。


「……悪いが、どいてくれないか。僕も、暇じゃないんでね」


 僕が静かにそう告げると、騎士たちは逆上したように僕に掴みかかってきた。


 ――だが、その手が僕に触れることは、永遠になかった。


 ただ、半歩だけ、身体をずらした。

 それだけで、先頭の騎士は勢い余って前のめりに倒れ込み、仲間たちを巻き込んで、無様に将棋倒しになる。


 僕は、その無力な塊を一瞥すると、何も言わずにその場を立ち去ろうとした。


「ま、待てっ!」


 一人の騎士が、僕の背後から殴りかかってくる。

 僕は振り返りもせず、ただ、その腕を、こともなげに掴み取った。

 そして、手首を軽くひねり上げる。


「ぎゃっ!?」


 悲鳴と共に、騎士はあっさりと地面に膝をついた。

 僕は、その耳元で、静かに囁いた。


「これ以上、僕の邪魔をするな。次はないぞ」


 その一連の光景を、スヴェレとテアは、呆然と見つめていた。

 二人の顔から、嘲りの色が消えた。


 僕は、二人を一瞥すると、闘技場の光の中へと、静かに足を踏み出した。


 さて。始めようか。

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